小中学校の歴史 宮田又鉱山の児童・生徒が通う小中学校の変遷は複雑である。明治10年(1877)に荒川鉱山主瀬川安五郎が自費にて私立大盛(たいせい)学校を創立し、大盛尋常高等小学校と改名した後、同22年に荒川村の本校となり、同27年に徳瀬分教室<33>の校舎が建てられた<34>。昭和18年(1943)までは宮田又鉱山には教育施設がなく、小学校1~4年生は約2.5km離れたこの徳瀬分教室に通学し、積雪で通学不能となる冬期間は境の朝日小学校近くの農家に寄宿した。寄宿生活の様子は、鉱山から境に出張した職員が立ち寄り、また児童が書く日誌が鉱山の事務所を通して各家庭に回覧されていた。
徳瀬分教室は大盛小学校に属しており、朝日小学校には属していない。大盛小学校本校近くに寄宿させないのは、寄宿先の有無の問題と、境には宮田又鉱山の関連施設があり、鉱山関係者が訪れる頻度が高かったためと思われる。
昭和18年(1943)に鉱山飯場の一部を利用して宮田又に冬期分教室が設置され、1~4年制は分教室で学びこととなった。すなわち、冬が終わると4月より宮田又冬期分教室は閉校し、徳瀬分教室に通い、冬が始まると1月からはまた宮田又分教室を開き、1~4年生はそこに通うのであった。高学年の5~6年生は通期本校に通学していた。
昭和19年(1944)に荒川村立大盛国民学校宮田又分教室が新築され、同20年7月からは1年生から6年生までの全小学生がここに通学することとなった。同22年の学校教育法施行により、宮田又の分教室は荒川村立大盛小学校宮田又分教室となり、中学校は荒川村立荒川中学校が開校し(同26年に朝日中学校に改称)、宮田又鉱山地域の中学生は大盛小学校に併置された朝日中学校大盛分校に通学することとなった。同30年の町村合併で荒川村立が協和村立に改まり、同31年4月には協和村立宮田又小学校として独立することとなった。小学生は宮田又鉱山社宅地域北側の小高い位置にある小学校に通い、中学生は片道2km強の朝日中学校大盛分校に通うこととなった。峠を上り下りし、図M-5(20160726 宮田又鉱山③)に示す”大盛小学校(1)“の学校まで毎日通い、同34年12月からは大盛小学校の移転に伴い、”大盛小学校(2)“のところまで通学路が延長となり、標高差約90mの往復約6km強の毎日の通学であった。
中学校へは、社宅のグランドに集まり、集団で杉林を抜け、川にかかる吊り橋<35>を渡り、峠を越える通学であった。冬には風吹の中で道が消えていることもあり、スキーで通学することもあった。
小学校の様子 昭和25年(1950)頃にかけては宮田又鉱山だけでなく、日本全体もまだ貧しい時代であり、前の席の生徒の頭から虱が出てきたり、着物を着ている同級生もいれば、下の子を背負ってくる生徒もいた。入学前の子供たちも終日小学生と一緒の行動が許され、小学校入学時には3年年までの勉強をほぼ覚えていたとする人もいる。家に戻って昼食を摂り、そしてまた学校に戻る生徒もいた。
小学校の教室は3教室であり、教師も3人の複式学級であった。6年間の複式授業を受けていると、1時限の半分は授業、残りあと半分は自習となり、小学校6年間のうち半分の3年間は自習していたことになる。ゆとり教育というか、あるいは自らで学ぶという側面を捉えるのか、あるいは学習の遅れとするのかは様々であろうが、鉱山での教育の成果はおおむね好意的に捉えられている。
宮田又小学校として独立した同31年には入学者が27人であり、この時は1年、2年、3-4年、5-6年の4クラスとなっている。教室は普通教室の3室しかなく、学級数は4であるので、教室をどのように使用したのか疑問が残るが、実態は私には判っていない。
小学校の関連写真を載せる。図M-9は宮田又小学校第1期生の27人である。右端に渡部貞準校長先生、左端は菅原愛子先生である(私は生徒最上段の右から2番目)。図M-9(2)は同1学年の授業風景である。左端は菅原先生、右上部には進藤ミヤ先生である。中央最後部の背中の男子は私らしい。図M-9(3)はその1年生の通信簿である。宮田又小学校の児童数推移を図M-10に示す。
運動会 宮田又小学校が大盛小学校分教室であった頃、運動会は大盛学区にある大盛小学校とその二つの分校(宮田又および徳瀬)、朝日中学校大盛分校の合同で5月に開催された。運動会は子どもたちにとっても親にとっても大きな行事であり、鉱山は休日となり社宅に住む者は大半が荒川の大盛小学校に出かけ、鉱山社宅は静かになった。運動会には弁当以外に薬罐や七輪も持ちこまれた。グラウンドに流れる音楽や、生徒と親たちの歓声のなかで父親たちは酒も飲み、親子の一大イベントであった。
小学校が独立してからの運動会は従業員の運動会と一体になり、5月に春季総合運動会として鉱山の広場で行われた。宮田又小学校主催の運動会であるのに「春季総合運動会」と呼ぶのは、秋には鉱業所の主催で行われる運動会があったからである。主催がどこであろうと、住民から見れば鉱山の全社宅あげての「総合運動会」だったのである。
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<33> 註1『宮田又鉱山誌』では「分教場」と書かれ、註5『協和町史』下巻では「分教室」に改められている。本稿では分教室を採る。
<34> 註5『協和町史』下巻:84-85、87頁。
<35> 「村内唯一の吊橋」『広報きょうわP・R』(協和村役場)第31号昭和35年10月1日:1頁 http://daisen.in.arena.ne.jp/daisen/koho/M/ky/kyowa0031-0001.jpg。
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