鉱山における死傷には落盤・転落・出水・坑内火災・ガス中毒・粉塵/火薬爆発・墜落・鉱石/浮石落下・巻揚機事故・白蝋病等々と多岐に及ぶが、気絶えと珪肺がもっとも顕著であり、特に珪肺は「日本の労働衛生のショウウィンドウといわれ」<1>、坑内労働者には宿命ともいえる職業病で悲惨な状況をもたらす。気絶えとは坑内の換気不良・照明灯火による酸欠、あるいは一酸化炭素やその他の中毒によって気絶し、死に至る病気である。珪肺は鉱石粉塵の常時吸入によって肺機能の低下が進行する病である。いわゆる塵肺であるが、石綿による塵肺とは区分される。古くは灯火の油煙を吸うために煙(烟)病とも称されたが実態は珪肺である。肺機能の低下によって呼吸は困難となり、歩くたびに軀はヨロヨロとヨロケ、ためにヨロケと呼ばれる<2>。鉱山の病と言えばこのヨロケ=珪肺に代表されるほど罹病率は高く、また死亡率も高かった。現在においても決定的な治療法はない。
大正14年発行の『ヨロケ』<3>からヨロケの症状を要約すると、症状は初期には殆ど分からず、少し咳があるとかという程度であり、やや程度が進むと聴診器にて多少の病変がみとめられる。そのうちに素人が分かるほどに進行する。すなわち、疲れやすくなる、風邪を引きやすくなる、軀が弱ってくる、特有の咳を連発する、痩せてくる、顔色が悪くなる、だんだんと黒い痰を出すようになる。呼吸が困難となり、脈拍もあがる。重篤化すると仕事は全くできなくなり、安静にしていていても呼吸がさらにせわしく困難となり、頻りに咳をする。そのうちにぜいぜいした苦しい発作をおこし、肺結核をおこし、あるいは極度に身体が衰弱して死に至る。
珪肺で死に至った遺体を荼毘に付すと、肺のところだけがなかなか焼けず、赤茶けた色をして最後まで焼け残るものが多かったという。肺に入った粉塵が肺に沈着し、やがて塊状になり「石の肺」へと変貌させてしまうのである<4><5><6>。
江戸時代、坑夫は40歳まで生きる人がまれなほど労働条件が悪かった。13,4歳で堀子として入坑すると、20代前半に発病、その殆どが30代で死亡した。金堀りの多くは30歳前後で死亡し、その妻は2~3度となく再婚したという。近代になっても「抗内鉱夫を亭主に持てば、女一代に男が三人」とも言われた。近世における坑内夫の短命については秋田の鉱山を描いた菅江真澄の『すすきのいでゆ(秀酒企乃溫濤)』、佐渡金山における川路三左衛門聖謨『島根のすさみ』に詳述されている。『すすきのいでゆ』(1803-享和3-年)には次のように描かれている(渡部和男『院内銀山史』165頁より要約)。すなわち、金堀りで40歳を迎える者はまれで、金堀りの家では男の42歳の厄年祝いを32歳でおこない、女は若くして男に取り残され、老いるまでは7回から8回夫を持つことが多い。『島根のすさみ』でも同様に記されている。すなわち、(坑内で金銀を掘る)大工になって7年の寿命を保つものはない。みな病に倒れ、咳を出し、煤のようなものを吐いて、ついには死んでしまう。金銀を掘るもので40を過ぎたものはなく、多くは3年、5年のうちに肉は落ち、骨は枯れて頻りに咳を出し、煤のようなものを吐いて死ぬ。佐渡では25歳になると、男は賀の祝いがある。厄年とはいわない。金穿大工で、30を超えたものは稀だったので、25歳になれば、60くらいの心にもなるので、年の祝いをした。
近代化の中で1882(明治15)年に阿仁鉱山から様式鑿岩機が導入された。しかし、これは珪肺を多発させ、「後家新作機」<7>とも称された。その理由は鑿岩機によって採鉱効率は上がったが、それは乾式であったがために粉塵を多く発生させたのである<8>。マスク(手ぬぐい)で口をふさげば粉塵の吸入は減じられるが、それは呼吸を阻碍してしまい作業効率が下がり、ひいては賃金の低下に繋がるので予防をしない人も多かった。
国レベルでの珪肺対策は随分と遅れた。敗戦後GHQからの強烈な指示があって珪肺巡回検診が行われ、昭和24年(1949)年に鬼怒川沿いに国立珪肺療養所および試験室が設置された<9><10>。前者は後の珪肺労災病院となり(2005年に廃止となり現在は獨協医科大学日光医療センター)、後者は現在の産業医学総合研究所に繋がっている。かなりの長い年月を経て、法律としては、昭和30年(1955)年に「けい肺法」、同35年「塵肺法」が施行された<11>。
珪肺は鉱山のダークな最たるものであろう。宿命といわれるが、それを覆い隠した経営者もあり、政府も腰は重く、GHQによって厳しく指摘されたことは日本という国全体を覆うダークな部分でもあるといえる。一般には馴染みのない「珪肺」であるが、鉱山集落に生活した人たちにとっては普通に耳にした病であった。
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<1> 阿部達馬「金属鉱山の労働衛生について」(日本産業衛生学会『産業医学』第5巻第12号、1963年)。
<2> 採鉱石の品位が落ちてくると「「鉱山(ヤマ)がよろける」といった。高田源蔵『鉱夫の仕事』(無明舎出版、1990年)130頁。
<3> 全日本鉱夫総連合会・産業労働調査所『ヨロケ』(産業労働調査所、1925年)。
<4> 沢田猛『石の肺』(技術と人間、1985年)。遠州じん肺訴訟を追ったルポである。
<5> 金沢医師会『すこやか』(第137号、2012年)。
<6> 静岡県浜松市天竜区(旧磐田郡佐久間町)西渡(にしど)にあった古河鉱業久根鉱山は1970年に閉山したが、閉山後40年経過した時点でも人口540人の西渡集落で38人の珪肺(塵肺)患者がいる。この地区を追いかけたドキュメンタリーが以下のように過去何度か放映されている。
SBSテレビ「よろけ」(1977年放送)・SBSテレビ「死の棘」(1981年放送)、2013.5.29放送SBSスペシャル「死の棘」、2014.09.29NHK「ザ・ベストテレビ2014第二部」。
<7> 前掲『鉱夫の仕事』141-142頁。
<8> 1954(昭和29)年の保安規則改正により、使用する鑿岩機はすべて水を使用する湿式となった。
<9> 阿部達馬「鉱業」(日本産業衛生学会『産業医学』特別号、1979年)。
<10> 外資系製薬会社に勤務していた友人の談:珪肺病院は一般の病院とは異なる独特のにおい-クレゾールでなくキシドールっぽいにおい-がした。当時は某大学の島流しの場所のようだった。
<11> ベルナール・トマン(関口涼子訳)「日本における職業性疾患としての珪肺症 ――その認知と補償への長い道程」(『大原社会問題研究所雑誌』 No.609/2009.7)http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/609/609-04.pdf。
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