現地採用者を除外すれば、鉱山労働者やその家族たちは鉱山集落に居住する。川崎茂は『日本の鉱山集落』のなかで、「鉱業の重要な特性は、人間の仕事を、急激にして一時的にあるにせよ、少なくとも一定期間はある定められた地点に固定せしめ」、鉱山集落は、「不毛な荒野のなかに突如として出現した」「一時的な一つの大きなキャンプ」であるとする。そして、鉱山集落は、「鉱山開発によって成立する人間の土地占拠の一形態であり」、「主要抗口付近の鉱山事業機能(選鉱・製錬など)を核として、住宅機能、さらにそれらを対象としたサービス諸機能などにより基本的に構成されるが、それら諸機能の結合を基礎とした自己完了性に富む空間的領域」であると述べる<1>。鉱山に生活した自らの経験から、これらの考察は鉱山集落の概念を適切に表現していると捉えている。
そして、「ある特定企業のもとに統一された個々の鉱山集落が、ある一つの行政体のもとに統括され、さらに商業的・文教的機能地域を共有した場合、それらのサービス諸機能地域を結節点として、個々の鉱山集落よりさらに次元の高い」地域が形成され、その行政体自体が「鉱山町」として形態や機能を備えるようになる<2>。足尾銅山など、「鉱山町」という名にふさわしい町は国内に多く存在した。
鉱山集落は、農業集落とは異質な鉱山経営という経済基盤のうえで成り立ち、集中的かつ局地的投資によって突然の土地占有からはじまり、鉱石を掘り尽くせば急激に衰微する。これは近世から近現代まで共通することであり、周辺地域は鉱山が出現してはじめて鉱山と鉱山集落を意識することになる。よって、周辺地域との関係性を考察する場合、鉱山集落の内側と外側の周辺地域の両側に視座をおくことが重要である。
川崎は同じく鉱山集落の類型化を試み、「歴史的鉱山集落」と「近代的鉱山集落」の概念を定義づけた<3>。近世封建時代からの発達史をもつ「歴史的鉱山集落」は通洞抗や鉱山事務所に近接し、一般的に番所によって外部との遮断された地域を形成する<4>。明治以降の近代的な鉱業投資を契機にしてはじめて本格的に形成された「近代的鉱山集落」は、鉱山社宅を主とした企業共同体社会地域と捉えられ、居住地域と鉱山事業諸施設地域に分かれる。
川崎は「鉱山集落の衰退様相に関する概略的展望」<5>を示し、たとえば、近代的鉱山集落が「空間的孤立性(国有地)」にあれば衰退は急であり<6>、「農山村民有地」にあれば、鉱山地域と近隣都市との位置関係によって衰退の緩急に差異が生じ、「農山村民有地」が商店街地域にあれば衰退はやや緩やかであると分析している。
『近代日本における企業社宅街の成立と展開に関する研究』では、川崎の「集落」には企業による住宅地経営という視点が読み取れないとして、鉱山集落に対して「社宅街」を用いている。そして、その「社宅街」を「企業が所有する、社宅を含む各種建物、都市基盤施設、病院、生活必需品販売所、運動施設などにより構成された施設」<7>と定義している。この企業社宅に関する研究の資料は戦前(1910~40年代)の大学鉱山科・採鉱科学生の実習報文であり、小坂・日立・生野・別子と大規模鉱山を調査対象としたものであった。一般的に鉱山社宅といえばこのように大規模鉱山の社宅を脳裏に浮かべる人が多いのではないかと思う。しかし、中小規模鉱山の集落には企業が所有する病院はなく、もちろん諸設備の設置数や内容も大規模鉱山のそれらとは大きくかけ離れている。この社宅街の研究には、これら中小規模鉱山の視点が欠けていると考えるのは、中小鉱山社宅に生活した私の僻みであろうか。少なくとも生活していた当時から「社宅街」という概念はなく、「鉱山社宅」「鉱山部落」と呼ばれることにはなじんでいた。
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<1> 川崎茂『日本の鉱山集落』(大明堂、1973年)5-6頁、9-10頁。
<2> 同、12頁。
<3> 同、79-80頁。
<4> 私と同年で高校を同じくする友人がおり、彼は小学校1年から福島県南会津の八総鉱山社宅に居住していた。八総鉱山は、田島町立八総鉱山小学校が設備され、最盛期には500名以上の従業員を抱える大きな鉱山であった。彼が思い出すには、八総鉱山には「番兵」がいて閉じられた鉱山であったとのことであり(時の経過とともに形骸化した*)、社宅には東京の電波が流れていたとのことである。鉱山には交番もあった*。住友の経営下にあった八総鉱山から出される鉱石は、滝ノ原駅(現会津高原尾瀬口駅)から別子に運ばれて製錬された(駅の前に倉庫があり、週に1回ほどの頻度で運搬された*)。八総鉱山閉山後に彼の父は岩手県宮古に「帰った」という。彼の父親は現岩手県宮古市津軽石の出身で、遠野の鉱山(大峰鉱山ヵ)に半年ほど在籍してから八総鉱山に移り、その後現宮古市の田老鉱山に移ったとのことであった*。
*:2016年7月15-16日に高校同学年の同窓会があり、本人に追加で確認した結果を18日に追記。
<5> 同、460頁表Ⅴ-1。
<6> 秋田県協和村(現大仙市)にあった宮田又鉱山は国有林の中に存在した鉱山であり、従業員数はピーク時250人ほどで、近隣からは独立した鉱山集落であった。昭和40(1965)年9月に閉山が決定した僅か3ヶ月後の12月20日までには、鉱山後処理や残務整理にあたる5人を除いて全員が離山し、誰もいなくなった。因みに鉱山稼行時の住所は秋田県仙北郡荒川村宮田又、あるいは協和村発足時は同郡協和村大字荒川字宮田又であった。現在ももし宮田又鉱山が存在していれば、現住所は大仙市大字協和荒川字宮田又となっているはずなのであるが、いま協和荒川の小字には「宮田又沢牛沢又」があるのみで、かつての宮田又鉱山社宅があった地に繋がる地名は存在していない。
<7> 第一住宅建設協会編『近代日本における企業社宅街の成立と展開に関する研究-金属鉱山系企業社宅街の比較分析-』(第一住宅建設協会、2008年)3頁。
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