宮田又鉱山の歴史を述べる場合は協和町にあった近隣の鉱山にもふれることになる。図M-6にそれらの位置を示しておく。
鉱業権者を基準にして宮田又鉱山の歴史を四区分する<12>。まずは発見から物部長之および金沢市・横山鉱業部の時代を経て宮田又鉱山発足までの時代とし、次ぎに宮田又鉱山の基礎を築いた昭和9年(1934)から同15年までとする。同15年から同25年は帝国鉱業開発株式会社傘下の時代であり、最後は、新鉱業開発株式会社傘下となって同40年に閉山となるまでの時代である。
発見から鉱山発足
『東北鉱山風土記』<13>に記述される、宮田又鉱山の初期の歴史を要約する。
享保7年(1722)に畑銀山の抗内にて大きな崩壊があり、入坑していた坑夫500人が流血に染まった。これによって畑銀山は廃山の憂き目になった。そのときの坑夫総取締役が荒川村官有山奥の蛇石明神に参拝して鉱山発見を祈願した帰途、鍋倉に大露頭を発見した。藩の直山(じきやま)として試掘したが次第に鉱況が減退し、鍋倉は見棄てられ長い間放置された。明治初年(1868)に境唐松神社神主物部長之が畑鉱山開発に着手すると同時に鍋倉、葦倉にも坑道を開鑿したが本人が死亡して権利を放棄した。同41年に貴族院議員である金沢市横山章の鉱業部が経営することとなった。重要鉱山に準じる鉱山として盛んに稼行したが湧水が多く、また交通不便のために採算が合わないこと、また、当時の財界に変動があって放棄することとなった。その後権利は転々としたが昭和9年に宮田又鉱山株式会社の所有となった。
宮田又鉱山の事業運営上の大きな障碍は、羽後境駅までの鉱石運搬にあった。横山鉱業部の経営当時は、馬車鉄道が敷設されていた隣の荒川鉱山まで、鉱石を背負って山を越えて運んだ<14>。横山鉱業部が鉱山を手放す直接的原因は、この運搬の困難さにあった。
基礎を築いた時代
熊谷富治が昭和8年(1933)に宮田又抗を探鉱して大鍋倉沢に黄銅鉱の大鉱脈を発見し、同9年に宮田又鉱山株式会社を発足させ、以降の盛況の礎を築いた。
宮田又鉱山は、叺にいれた精鉱を森林軌道の鉱車に載せて羽後境駅まで運搬した。羽後境には鉱山ホームがあり、そこから精鉱は県内外の製錬所へ運ばれた。冬期になると積雪のために12月からは運休となり、鉱石運搬ができなくなる。よって冬期は付近の農家の人たちの賃仕事として橇に積んで運搬、あるいは蓄鉱した。
昭和14年には新たな鉱脈が発見されたが、その開発計画をめぐって経営陣は二分し、宮田又鉱山の存続は危うくなった。
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<12> 秋田県生活環境部環境保全課『秋田県の主な休廃止鉱山の沿革』(秋田県生活環境保全課、1989年)145-146頁。
<13> 和田豊作『東北鉱山風土記』(私家版、1942年)100-101頁 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1060452。
<14> 岡本憲之『全国鉱山鉄道』(ジェーティービー出版、2011年)38-39頁。
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