大規模鉱山中心の鉱山生活研究
川崎の『日本の鉱山集落』においては明治41年という時点において鉱山集落を対象とし、さらに鉱夫200人程度以下の小規模鉱山は、鉱山集落の発達とその存続が明治以前においてみられたとは考えられないとして研究の対象から外している。しかし、その場合、小規模鉱山が小規模であるがゆえにもつ特性もまた除外されてしまう。 戦後に衰退するまで多数の小規模鉱山があり、小規模であるからこそ大規模鉱山とは共通しない特徴に留意すべきであろう。
研究対象の鉱山規模に関して、原田は以下のように論じている(1)。
「鉱山業を対象とした地理学的研究では、これまで主に鉱山集落独特の景観、特殊な集落パターンや機能的特徴の解明に関心が向けられ、大きな成果をあげてきた。したがって、既往の研究で取り上げられた事例は、鉱山町を形成するような大規模鉱山に偏る傾向があった。(中略) 大規模鉱山は、現在は多くが閉山の状態にあり、本来の機能を失いながらも特徴的な景観は依然として残されている。一方、小規模鉱山ではかつてそこで鉱山業が営まれたことをその景観のみからでは想起することさえも難しい場合が多い」
鉱山生活史を描く場合、聞き書きを主とするケースがある。『鉱山と市民 聞き語り日立鉱山の歴史』(2)は日立鉱山を舞台にして鉱山社宅生活者のみでなく近隣地域の人にも聞き書きを実施し、「鉱山の労働」「鉱山の生活」「鉱山と地域」に整理されている点に特徴がある。親子四代にもわたる生活者がいるほど長い歴史がある大鉱山での生活であり、かつ日立という都市が背後にあることも特徴である。松本の研究は別子銅山が対象である(3)。15歳から38年間働き定年退職した人の個人生活史でもある。高田源造(4)は明治42年(1909)生まれの5、6代続いた山師の系譜をもち、主に花岡鉱山で坑内労働を経て採鉱夫の親方になった人である。村上の著作(5)は足尾銅山における生活史である。村上は足尾銅山に勤務しているが、抗外労働に従事していたと思われ、自らの労働は述べず、銅山の抗内外に働く男女からの聞き取りを行っている。花街芸者からの聞き取りもあり、足尾銅山での生活を総合的に述べている。
以上に共通することは、みな長い歴史をもつ大鉱山での生活を対象としていることである。何代かにわたってその鉱山に働いた家族もいる。また、鉱山の生活地域が広く、社宅群も一箇所のみではなく数カ所に存在し、娯楽施設も建築されていた。すなわち、川崎の指摘する「住宅機能、さらにそれらを対象としたサービス諸機能など」が充実している鉱山集落である。歴史が浅くて短命な戦後の小鉱山では、祖父から孫までが同じ鉱山に働くほどの操業年数はなく、サービス機能も限られる。したがって、大規模鉱山のなかでの生活と小規模鉱山での生活とを同一視はできない。また、聞き取りにおいては、鉱山が活発に稼行していた明治後期から戦前が主体になり、鉱山が衰微する時代である戦後について語られることは少ない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1) 原田洋一郎「江戸時代における小規模鉱山の開発-武蔵国秩父郡中津川村を事例として-」(人文地理学会『人文地理』第45巻第4号、1993年)66頁 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/45/4/45_4_398/_pdf。
(2) 鉱山の歴史を記録する市民の会編『鉱山と市民 聞き語り日立鉱山の歴史』(日立市、1988 年)。
(3) 松本通晴「鉱山労働者の生活史」(庶民生活史研究会編『同時代人の生活史』未来社、1989年)。
(4) 高田源造蔵『鉱夫の仕事』(無明舎、1990年)。
(5) 村上安正『足尾に生きたひとびと』(随想舎、1990年)。