2016年11月14日月曜日

農中茂徳 『三池炭鉱 宮原社宅の少年』

鉱山に関するブログが続かなくなった。強く興味を持っているのだが如何せん最近はまったくこのテーマに触れるようなことはしていない。
それで、鉱(砿)山に関するものは読書を含めてこちらに記そうと思い、先ずはもう一つのブログの方に書いた本のことをこっちに移転した。最初に載せたときの日付は変えていない。

<農中茂徳 『三池炭鉱 宮原社宅の少年』(石風社、2016年)>:朝日新聞に文芸評論家・斎藤美奈子の評価が載っていた。炭鉱・社宅の二つの言葉に惹かれ、時代的には著者が3才年上で自分と重なる。炭鉱が鉱山であれば尚良しであるがそれはしようがない。すぐに読みたくなるが、朝日新聞に載っていたせいであろう、アマゾンもヨドバシも楽天ブックスも、他のネット書店でも在庫がない。増刷を待って購入し読んでみた。しかし、期待が大きければ落胆の度合いも大きいとの箴言を味わうこととなった。(大学時代も描かれるが)少年の頃の思い出を淡淡と記しているだけで、「三池炭鉱宮原坑跡は昨年、ユネスコ世界文化遺産のひとつに登録された。そのすぐ側にあった暮らしがいまはない。クラッとするような感覚に襲われる」という斎藤美奈子の「クラッとする感覚」は皆無である。かつての炭鉱社宅での生活史としての価値はあるであろうが、自分にとってはつまらない深味のない記録本であった。

2016年11月8日火曜日

明治41年頃の田代鉱山(3)

明治41年頃の田代鉱山を調べていたなかで気付いたことを記しておく。

何回も取上げている『黒鉱鉱床調査報文 第二回』には「田代鉱山地形及地質図」が提示されており、鉱床のあった大松沢と志保沢の位置が確認できる。しかし国土地理院のHPあるいは取り寄せた地図に志保沢の名称は確認できていない。小さな沢であるからそれはやむをえないと思っているが、大松沢については疑問が出ていた。昭和40年測量昭和42530日発行の地図(国土地理院に複製を依頼したもので縮尺25千分の1)には大松沢ではなく金山沢とされている。国土地理院のHPから見る同じ昭和40年の地図では大松沢となっていて気になっている。もっともこれ以上はいまは調べようもないが。

上記の大松沢近辺の地図を眺めていたら、只見川を少し下ったところ(地図上では東北)に流れる霧来沢があり、その沢の支流ともいえる大松沢が別にあった。10kmも離れていないところに大松沢が2箇所ある。ならば大松沢という名称には共通する由来があるのではないかと思い、ネットで探してみたらつぎのような記述にあたった。すなわち「マツサワ(松沢)は山に纏わりつくように流れている沢。あるいは松の木が生えている沢」であり、その規模が大きくなれば「大」の冠が付くのであろう。出典は戸澤敬三郎『地名へのいざない』(私家版、2010年)を引用しているネット記事からの孫引き。

大正2年(1913)測図の地図、その測図に昭和6年(1931)要部修正した地図があったので国土地理院から複製を取り寄せた。5万分の1なので何か新しいことがわかるとはさほど期待していなかったが、三つのことが確認できた。一つは大正2年に二本木橋がかかっていること。即ち前々回の註記2に示すように確かに大正2年にはこの橋が存在した。二つには大正2年測図においては、大松沢入口付近から横田村への橋がかかっていることである。居住地のある西部地区からは離れた位置であり、鉱山への道もあった大松沢の入口に接していることから、これは田代鉱山運営のために架けられた橋であろう。三つにはこの橋が昭和6年要部修正では消えていることである。

『黒鉱鉱床調査報文 第二回』を読んでいて明治の頃の田代鉱山に触れてきたが、これでお終いとする。PCに向かってこの鉱山を調べるのは限界となった。かといって現地に足を運んで調査する気持はない。ただ言えることは、こうやって地図や資料を見ていて当時の鉱山の様相に思いをめぐらすのは楽しいことではある。つぎに会津横田を訪れるとき(来年ヵ)は立ち寄る場所を増やすことになりそうである。

 下は一昨年5月に四十九院から上横田・土倉を眺めた写真で、中央よりやや右側に高く見える山は高森山(田代山)で、左側の人家より上に伸びている山は袖山である。



2016年11月7日月曜日

明治41年頃の田代鉱山(2)

『黒鉱鉱床調査報文 第二回』に描かれる田代鉱山の概要
明治41年の田代鉱山は福島県岩代国大沼郡大瀧村大字大塩字田代にあって、只見川畔の一村大塩村より東北一里の渓谷にあって、当時は鉱山によって大松沢に沿って新道を開墾しており、それが開通すると大塩村を迂廻せずに横田村の東〇(判読できず)にでることができ、柳津まで一里の短縮になる計画であった。
物資は坂下町あるいは若松から供給していた。横田村までは馬車か牛車を利用するが横田村から鉱山までは馬や牛の背に乗せており、冬になれば坂下町から宮下もしくは水沼道は橇を用い、そこから先は人が背にして運ぶしかなかった。若松から鉱山まで物資の運賃は、百貫につき平時は530銭だが冬になると5割増しになった。奥会津は交通の不便さと冬の雪がいつも発展の妨げになることは現在まで変わりはない。
1838(天保9)年頃、鉛山として稼行したことがあるらしい。明治38(1905)1月に若狭七之介ほか4名で稼行し、小規模な銅製錬を行っていたが、半年後の同年7月からは久原房之助が譲り受けて探鉱をしている。使役人は坑夫11名、車夫16名、選鉱婦4名で、賃金はそれぞれ55銭、50銭、20銭であった。ちなみに明治39年の東北金銀山における一日の平均賃金は次のようである<1>。坑夫が52.3銭、運搬夫が35.7銭、選鉱婦が11.1銭であった。久原の日立鉱山では坑夫が72銭、運搬夫が44銭、選鉱婦が18.5銭であった。採鉱の難易度、労働奨励金や精勤手当、生活品の支給などの違いがあるため、ここでは賃金の多寡は比較できない。いえるのは田代鉱山の賃金は他山に比して格別に高くもなく低くもないということである。
前回に示した図を参照しながら記すと、大松沢沿いのa地域には高盛鉱床と俎倉鉱床があり、志保沢近傍b地域に志保沢鉱床があった。高盛鉱床が最も大きく探鉱も進んでおり、その近傍cの辺りに鉱山事務所があった。鉱床の位置は2016821日のブログに示す図Y-9(0)も参考になろう。

悲観的な展望
前記報文において、鉱山経営についてはかなり悲観的な意見が論じられている。すなわち、田代鉱山は運搬上極めて不便な辺陬(へんすう)の地にあって、且つ鉱石は亜鉛鉱を含み鉄分が少ないので製錬するには多量の溶解剤を要する。しかし溶解剤運搬には多額の運賃を要し、また粉鉱が多いので〇鉱<2>する必要もあり得る。更には製錬すべき鉱石の銅分が貧弱で金銀も全く含有していない有様なので遠方より溶解剤を運搬することは到底稼行するに能わない。かといって鉱山付近に望むことは困難である。
悲観的な意見が述べられた後希望的観測も併記されている。それは、用水用材には障害がないし鉱量も多く、探鉱がうまくいけば多少の増量もあるだろうし、手選鉱にて銅の含有品位も3%位にすることは決して難事でもない。だから溶解剤を得るか、なるべく溶解剤なしで製錬できれば幸いである。そして磁選鉱あるいは浮選鉱を施せばもしかしたら好結果を得ることもあるかもしれないと結んでいる。
要は明治41年時点で鉱山経営への見通しは暗く、あるのはもしかしたら上手く行くかも知れないという観測であった。しかし、『東北鉱山風土記』<3>の田代鉱山の項には一時は従業員300名にも達して製錬を行い大きな業績をあげたと記されている。これがいつの頃のことなのか私には判っていない、というよりも「従業員300名で大きな業績をあげた」という記述を他の資料から見出していない。交通不便な田代の山中で300名も鉱山労働に加わっていたならば、近隣在所にその住居や生活の記録、記憶が残っていても良さそうであるがそれがない(少なくとも私はみつけていない)。
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<1> 農商務省鉱山局『鉱夫待遇事例』(農商務省鉱山局、1908年)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801074
<> 判読できないが「粉鉱を固める」の意であろうヵ。
<3> 和田豊作『東北鉱山風土記』(私家版、1942年)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1060452

2016年11月6日日曜日

明治41年頃の田代鉱山(1)

秋田県/宮田又鉱山や奥会津/横田鉱山を調べているなかで、横田鉱山近傍の田代鉱山についてもブログのなかで触れてきた。この鉱山についてはもう少し追加してメモしておこうと思う。
記述にあたってはほとんどを『黒鉱鉱床調査報文 第二回』<1>を参考としている。国会図書館からダウンロードしたpdfは文字の解像度が低く、また字画数の多い旧字もあり誤読している漢字があるかもしれないが、そこは想像力を働かせて読み解くこととする。

『黒鉱鉱床調査報文 第二回』の執筆者をめぐって
明治41年(1908)に『黒鉱鉱床調査報文 第一回』が、3年後の同44年に第二回が上梓されている。第一回・第二回を通して、黒鉱鉱山43鉱山が詳記され、秋田県の16鉱山に次いで会津の鉱山は7山が載っている。二つの報文は農商務省鉱山局技師の平林武が執筆しており、Wikipediaによると平林武は1872年生まれ(1935年歿)の鉱床学者で「黒鉱」を定義し、「黒鉱鉱床」の成因解明に端緒を開いたとある。鉱山に関する資料であるこの報文に「平林武」の名を目にしたときはすぐに「平林武雄」に結びついた。平林武雄は横田鉱山に勤務し、探鉱調査の報告を行っていた人物で、私(筆者)が両親とともに横田鉱山社宅に生活していたときその人は近隣の役職者社宅に住んでいた。専門とする職業や氏名から思うに、平林武と平林武雄は父子あるいは縁戚関係にあろうかと想像している。
鉱床探査と鉱石分析というような高度な専門技術職であったために平林は一般的な鉱山労働者からは一目置かれ、ためにやっかみのような気持ちも抱かれていたのではないかと思う。あくまでも私の空想めいたことである。平林さんを揶揄するように大人の人たちが喋っていた「たいらばやしかひらりんかいちはちじゅうのもーくもく」を耳にして以来その言葉はいまもって記憶に残っている。

田代鉱山の周辺
下図はGoogle Earthをキャプチャーし地名などを追記したものである。昭和35年(1960)以降の田代鉱山本山は左側の「田代鉱山(大塩)」の位置にあり、それ以前は右側の田代鉱山にあった。
Google Earth の画像取得日は20151015日となっており、明治41年からは108年が経っている。明治41年当時は只見川にかかる橋はなく、横田地区と大塩・土倉地区の間は舟渡しであった<2>。図中左側に見える橋は4度目の橋である。図で見る只見川は満々とした水の流れであるが、それは発電所のダムに堰き止められているからであり、ダムのない明治の頃、水面は下に落ちており只見川は渓谷の様相を示していた。よって舟渡しと言っても道路との間には上り下りがあり利用するには労苦があったと思われる。
田代集落を経て頂上まで登られる高森山は地元では田代山と呼ばれており、私が小学生の時には学校の行事で年に1回その頂上まで登っていた。尾根は狭く、うっかりすると転落するほど危険であったが、頂上から見下ろす奥会津の地は素晴らしかった。頂上を目指す途中の平地(田代集落地区)に人家を見たときは、こんな山の中に人が住んでいるのかと驚きを覚えたものである。現在その地には居住者はいない筈である。55年ぶりほどに再び山の頂上に立ってみたいものだが独りで出向く勇気がない。



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<1> 農商務省鉱山局『黒鉱鉱床調査報文 第ニ回』(農商務省鉱山局、1911年)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847345 。『黒鉱鉱床調査報文 第一回』も国立国会図書館デジタルコレクション にて閲覧およびダウンロード可能である。
2016821日ブログ「奥会津横田鉱山⑨ - 田代鉱山、そして鉱山の終焉」の註記にて同文献の発行年を1922年と記入しているのは1911年の間違いだった。
<2> 『広報かねやま』(金山町)6月号[234]昭和59年(1984610日:1頁。
       二本木橋の渡り初めの写真を指して、「この橋(二本木橋:筆者註)がかかったのは(中略)大正2年ごろではないかな。この橋がかかる前は西部や滝沢と同じように、舟渡しだった。(中略)今の(昭和59年当時:筆者註)橋は、三度目の橋で、国道にもなっているので、(後略)」。