明治41年頃の田代鉱山を調べていたなかで気付いたことを記しておく。
何回も取上げている『黒鉱鉱床調査報文 第二回』には「田代鉱山地形及地質図」が提示されており、鉱床のあった大松沢と志保沢の位置が確認できる。しかし国土地理院のHPあるいは取り寄せた地図に志保沢の名称は確認できていない。小さな沢であるからそれはやむをえないと思っているが、大松沢については疑問が出ていた。昭和40年測量昭和42年5月30日発行の地図(国土地理院に複製を依頼したもので縮尺2万5千分の1)には大松沢ではなく金山沢とされている。国土地理院のHPから見る同じ昭和40年の地図では大松沢となっていて気になっている。もっともこれ以上はいまは調べようもないが。
上記の大松沢近辺の地図を眺めていたら、只見川を少し下ったところ(地図上では東北)に流れる霧来沢があり、その沢の支流ともいえる大松沢が別にあった。10kmも離れていないところに大松沢が2箇所ある。ならば大松沢という名称には共通する由来があるのではないかと思い、ネットで探してみたらつぎのような記述にあたった。すなわち「マツサワ(松沢)は山に纏わりつくように流れている沢。あるいは松の木が生えている沢」であり、その規模が大きくなれば「大」の冠が付くのであろう。出典は戸澤敬三郎『地名へのいざない』(私家版、2010年)を引用しているネット記事からの孫引き。
大正2年(1913)測図の地図、その測図に昭和6年(1931)要部修正した地図があったので国土地理院から複製を取り寄せた。5万分の1なので何か新しいことがわかるとはさほど期待していなかったが、三つのことが確認できた。一つは大正2年に二本木橋がかかっていること。即ち前々回の註記2に示すように確かに大正2年にはこの橋が存在した。二つには大正2年測図においては、大松沢入口付近から横田村への橋がかかっていることである。居住地のある西部地区からは離れた位置であり、鉱山への道もあった大松沢の入口に接していることから、これは田代鉱山運営のために架けられた橋であろう。三つにはこの橋が昭和6年要部修正では消えていることである。
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