2016年11月7日月曜日

明治41年頃の田代鉱山(2)

『黒鉱鉱床調査報文 第二回』に描かれる田代鉱山の概要
明治41年の田代鉱山は福島県岩代国大沼郡大瀧村大字大塩字田代にあって、只見川畔の一村大塩村より東北一里の渓谷にあって、当時は鉱山によって大松沢に沿って新道を開墾しており、それが開通すると大塩村を迂廻せずに横田村の東〇(判読できず)にでることができ、柳津まで一里の短縮になる計画であった。
物資は坂下町あるいは若松から供給していた。横田村までは馬車か牛車を利用するが横田村から鉱山までは馬や牛の背に乗せており、冬になれば坂下町から宮下もしくは水沼道は橇を用い、そこから先は人が背にして運ぶしかなかった。若松から鉱山まで物資の運賃は、百貫につき平時は530銭だが冬になると5割増しになった。奥会津は交通の不便さと冬の雪がいつも発展の妨げになることは現在まで変わりはない。
1838(天保9)年頃、鉛山として稼行したことがあるらしい。明治38(1905)1月に若狭七之介ほか4名で稼行し、小規模な銅製錬を行っていたが、半年後の同年7月からは久原房之助が譲り受けて探鉱をしている。使役人は坑夫11名、車夫16名、選鉱婦4名で、賃金はそれぞれ55銭、50銭、20銭であった。ちなみに明治39年の東北金銀山における一日の平均賃金は次のようである<1>。坑夫が52.3銭、運搬夫が35.7銭、選鉱婦が11.1銭であった。久原の日立鉱山では坑夫が72銭、運搬夫が44銭、選鉱婦が18.5銭であった。採鉱の難易度、労働奨励金や精勤手当、生活品の支給などの違いがあるため、ここでは賃金の多寡は比較できない。いえるのは田代鉱山の賃金は他山に比して格別に高くもなく低くもないということである。
前回に示した図を参照しながら記すと、大松沢沿いのa地域には高盛鉱床と俎倉鉱床があり、志保沢近傍b地域に志保沢鉱床があった。高盛鉱床が最も大きく探鉱も進んでおり、その近傍cの辺りに鉱山事務所があった。鉱床の位置は2016821日のブログに示す図Y-9(0)も参考になろう。

悲観的な展望
前記報文において、鉱山経営についてはかなり悲観的な意見が論じられている。すなわち、田代鉱山は運搬上極めて不便な辺陬(へんすう)の地にあって、且つ鉱石は亜鉛鉱を含み鉄分が少ないので製錬するには多量の溶解剤を要する。しかし溶解剤運搬には多額の運賃を要し、また粉鉱が多いので〇鉱<2>する必要もあり得る。更には製錬すべき鉱石の銅分が貧弱で金銀も全く含有していない有様なので遠方より溶解剤を運搬することは到底稼行するに能わない。かといって鉱山付近に望むことは困難である。
悲観的な意見が述べられた後希望的観測も併記されている。それは、用水用材には障害がないし鉱量も多く、探鉱がうまくいけば多少の増量もあるだろうし、手選鉱にて銅の含有品位も3%位にすることは決して難事でもない。だから溶解剤を得るか、なるべく溶解剤なしで製錬できれば幸いである。そして磁選鉱あるいは浮選鉱を施せばもしかしたら好結果を得ることもあるかもしれないと結んでいる。
要は明治41年時点で鉱山経営への見通しは暗く、あるのはもしかしたら上手く行くかも知れないという観測であった。しかし、『東北鉱山風土記』<3>の田代鉱山の項には一時は従業員300名にも達して製錬を行い大きな業績をあげたと記されている。これがいつの頃のことなのか私には判っていない、というよりも「従業員300名で大きな業績をあげた」という記述を他の資料から見出していない。交通不便な田代の山中で300名も鉱山労働に加わっていたならば、近隣在所にその住居や生活の記録、記憶が残っていても良さそうであるがそれがない(少なくとも私はみつけていない)。
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<1> 農商務省鉱山局『鉱夫待遇事例』(農商務省鉱山局、1908年)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801074
<> 判読できないが「粉鉱を固める」の意であろうヵ。
<3> 和田豊作『東北鉱山風土記』(私家版、1942年)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1060452

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