2022年8月17日水曜日

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (3) 青木葉鉱山の概要

 青木葉鉱山の位置
  青木葉鉱山は、古来有数の金銀鉱地域に属していた高玉鉱山の三鉱区(鶯・本山・青木葉)の一つであった。鶯抗が最も高い位置にあり、青木葉抗が最も低い位置にある。高玉鉱山は著名であり、さらにかつて居住していた奧会津の横田鉱山社宅近傍に位置する田代鉱山の関連からその鉱山名は知っていた。しかし、青木葉鉱山坑夫取立免状を手に取るまでこの青木葉鉱山を私は全く知らなかった。

高玉の地域はGoogleマップに郡山市熱海町高玉を入力して検索すると容易に確認できる。そもそもは1889(明治22)年の町村制施行で高玉村・玉川村など4村が合併して高川村が発足し、以降町制施行と改称で熱海町となり、さらに郡山市に併合されて現在に至っている。
東日本JR郡山駅から会津若松駅を経由して新潟県新津駅までを結ぶ磐越西線が運行しており、郡山市から15km強の営業距離の4駅目に磐梯熱海駅があり、鶯・本山鉱区はその駅より北北東4kmに位置し、磐梯熱海駅の一駅郡山駅側の安子ケ島駅より北方約3kmに青木葉鉱区があった。南より北に向かって青木葉-本山-鶯となる。Googleマップで”高玉鉱山”を検索すると”高玉鉱山 閉山”と名のついた地が確認できるがそこがかつての青木葉抗跡である。数年前までは「ゴールドマイン高玉観光株式会社」となって鉱山施設となった箇所が示されていたが、今はそれもない。

開抗から閉山
会津蘆名(芦名)期の1600年頃、東蒲原郡(現新潟県)や村田郡(同宮城県)・長井(同山形県)、飛地として庄内や佐渡も会津領であった。この慶長年間(1596~1614年)の時代、高玉・加納・高籏・佐渡の金山は会津領内の4大金山と称されて国内に知られていた。<1>
天正年間(15731591)に鉱脈が発見され、蒲生氏郷が本山(元山)地区を開発し開抗されるも転封後中絶し長い間廃山となっていた。本格的に稼行すべく製錬と採鉱を再開したのは1886(明治19)年の長崎県人松浦建二であり、1893(同23)年より、のちに加納鉱山開発に関与した肥田昭作が継承した。1908(同41)年以降は日立鉱山精錬所に売鉱していた。肥田は1913(大正2)年に肥田鉱業合名会社を設立している。

1918(同7)年に久原鉱業株式会社が買収した。当時の従業員数は419人であった。1920(9)年に青木葉鉱床の開発に成功し、1922(11)8月より稼行した。1925(同14)年に高品位脈に当たり同年8月に初荷として5トン、貨車14万円の鉱石を日立鉱山に出した。1926(同15)年に青木葉抗にトラックが入った。
同年初めの高玉鉱山の鉱夫人数は合計200名程 その内採鉱夫は約150名。月当たりの算出鉱量は約35万貫(1,313t)であり、純金20貫(75kg)、銀200貫(750kg)であった。採鉱方式は橫坑で、鉱床に沿って、その走向方向に掘り進む𨫤押または坑内の下方から上方へ向けて掘上げる切上りによって行われ、主に鑿岩機を使用しており、本山抗で10台、鶯坑で6台、青木葉坑で10であった。鉱石は坑内から選鉱場に運ばれ選別の上貯鉱所に運ばれるが見るべき設備もなく運賃も低廉であった。しかし、国内屈指の金銀山であった。<2><3> 

1933(昭和8)年には120mの青木葉第2立坑ができた。
1939(同14)年に精錬所を増設し、高玉鉱山は黄金期を迎え、最盛期には年間粗鉱量14t、金量1t、銀量10tを産し、1,400人の人員を要した。<4>

久原鉱業は1928(同3)年に日本産業株式会社に改称し、1929(同4)年に鉱山・製錬部門を分離・独立して日本鉱業株式会社が設立された。本ブログで扱っている『青木葉鉱山取立免状』が交付された1929(4)年は日本産業から日本鉱業に鉱業権が移った時期にあたる。

高玉鉱山は1941(16)年には国内有数の金山となっていた(鴻之舞金山・鯛生金山とともに日本三大金山と呼ばれていた)。
1943(18)年に金山整備令で精錬を中止し日立鉱山に売鉱することになったが、敗戦を経た1947(22)年には復活している。
1952(27)10月に青木葉抗は休山となり、1953(28)年に玉森鉱業に租借権を与え熱海鉱山として採掘することとなる。その後の青木葉抗閉山までの経緯は把握できていない。言い換えれば玉森鉱業や熱海鉱山を知ることができない。青木葉鉱山は高玉鉱山を離れると語られることがなくなったということであろう。その後の高玉鉱山が閉山するまでは以下のとおりである。

1962(37)10月に日本鉱業から分離し高玉鉱山株式会社に経営移管となり独立した。ちなみに以前記した横田鉱山近傍の田代鉱山は操業時「高玉鉱山株式会社田代鉱業所」であった。(参照:https://tandtroom-mines.blogspot.com/2016/08/、「奥会津横田鉱山⑨ - 田代鉱山、そして鉱山の終焉」)
1967(同42)年現在の稼行は本山のみであり、前述したように青木葉抗が閉じた時期は掴めなかったし、鶯抗も同様に分かっていない。
1976(同51)年)に本山も閉山。大きく捉えると高玉鉱山本山は1573(天正元)年から1976(昭和51)年の400年間にわたる鉱山であった。青木葉鉱山は30数年から40年間ほどの稼行であったと推測する。

1996年に観光施設として旧青木葉抗がゴールドマイン高玉観光株式会社の名の下に設立された。そして16年後の2012年に休業となった。<5>

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<1> 和田豊作『東北鉱山風土記』(和田豊作、1942年)、「高籏鉱山」403頁。
<2>   1926(大正15)年初め・・・国内屈指の金銀山であった」は下記に拠る。
        高橋哲彌「高玉鉱山」(『日本鑛業會誌』No.509、昭和29月)。
        尚、本史料の本文欄外には日本業鑛會誌と誤植されている。
<3>   「月当たりの算出鉱量は約35万貫(1,313t)であり、純金20貫(75kg)」とあるが、これは1tあたり57gの金となる。この数値は異常に高い。事実であったとすれば世界を含めた歴史上特筆すべき高品位である。参考までに記すと、現在稼行している菱刈鉱山では鉱石1t中の平均金量は約20gと世界有数の高品位であり、世界での平均は35gであると菱刈鉱山のHPにある。
        また、Wikipedia(高玉金山)や他のwebでは、1tの鉱石から最大で10kg20kgの金が採れた、と記載されているが、この異常とも思われる数値は裏付け資料の提示がない。おそらくkggの誤植であろうし、ある記事よりそのままコピー・アンド・ペーストされて使い回されていると推測する。
<4>   高橋正「高玉鉱山」(『日本鉱業会誌』Vo83No9561967-12)。
        「粗鉱量14t、金量1t」は、粗鉱1tあたり7gであり、この値は一般的平均値であると言えよう。

上記以外に参考としたものは以下;
        和田豊作『東北鉱山風土記』(和田豊作、1942年)。
        福島県立博物館/編『企画展 ふくしま 鉱山のあゆみ -その歴史と生活』(福島県立博物館、1992年)。
        佐藤一男『ふくしまの鉱山』(歴史春秋社、2005年)。
        肥田鉱業合名会社はwikipedia、久原鉱業の改称改組はJX金属のホームページを参照。

<5>   青木葉鉱山と同様に、廃鉱跡地に抗道観光を軸として営業をしている(していた)主な鉱山施設等を以下に記す。
  佐渡金山(新潟県)・尾去沢鉱山(秋田県)・土肥金山(静岡県)・生野銀山(兵
   庫県):それぞれ、史跡佐渡金山・史跡尾去沢鉱山(旧マインランド尾去沢)
   土肥金山・史跡生野銀山と称し、(株)ゴールデン佐渡が抗道観光グループと
   て運営している。
  荒川鉱山(秋田県):マインロード荒川として営業、2007年(平成19年)坑道崩
   により休業。
  高玉鉱山(福島県):既述、現在は廃屋と化している。
  尾小屋鉱山(石川県):尾小屋鉱山資料館・尾小屋マインロード
  別子銅山(愛媛県):マイントピア別子
  串木野鉱山(鹿児島県):ゴールドパーク串木野として営業、2003年(平成15年)
   閉鎖。跡地は濱田酒造が薩摩金山蔵として運営。
  石見銀山(島根県):世界遺産・石見銀山遺跡、抗道観光は龍源寺間歩。
  足尾銅山(栃木県):日光市の足尾銅山観光が運営
  明延鉱山(兵庫県):抗道観光は養父市が管理。
  延沢銀山(山形県):抗道は自由に入れる。近くに銀山温泉。
  吹屋銅山(岡山県):笹畝抗道、高梁市観光協会
  鯛生金山(大分県):地底博物館 鯛生金山
  秩父鉱山(埼玉県):和銅遺跡
  野田玉川鉱山(岩手県):マリンローズパーク野田玉川
  細倉鉱山(宮城県):細倉マインパーク
  日立鉱山(茨城県):日鉱記念館、抗道モデルが展示されている。鑿岩機コレ
   シンは圧巻。
  神岡鉱山(岐阜県):ジオスペースアドベンチャー
  柵原鉱山(岡山県):柵原ふれあい鉱山公園

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (2) 再開-ここまでの経緯とこれから

 「青木葉鉱山、坑夫取立免状 (1)」を載せたのが昨年2021年の523日、この史料を軸として「友子」の概要を自分なりにまとめようとし、資(史)料に当たりメモもとっていた。しかし、取立免状の構成に沿ってメモを整理し文章化することをサボリ続けた。

その後1年の間、前半は資料を読むこととメモの作成に集中し、後半に入ってからはサボリモードに入り、鉱山から離れて、すなわち気持ちの上では離山し、身近の関心事に気持ちを向けてしまった。出身高校の校歌をもじって言えば「難きを忍ばず易に就いた」ということとなろう。ともあれ、そのふらついてしまう浮気心に鞭打って、やっと日常生活の一部を再び鉱山に向けることとした。それが今年の梅雨入りの頃。従って以下の文章は6月から書き始めたものである。

以下、現在考えていることは、まずは青木葉鉱山の概要をまとめ、次に「坑夫取立免状」の内容に入る前に「坑夫」と「友子」について記述し、その後に本題の「坑夫取立免状」の内容に沿って確認したことなどを書き進めることとする。
学問的には真新しいことは何もない。青木葉鉱山の坑夫取立免状をトリガーにして友子の概要を自分なりに整理しようとしているに過ぎない。そもそも現在商業的に採掘稼行している金属鉱山は菱刈鉱山のみであり、同じく炭砿も一企業しか存在しない-それも山ではなく海底下だが-。手掘りや鑿岩機などで採鉱する鉱山はもはや死語になっているとも思っている。このような状況下、拙いながらも学習リポートを自らに提出するようにまとめておきたい。

構成としては最初に青木葉鉱山の概要-位置・開抗から閉山-をまとめておく。次に坑夫と友子について記述する。ここまでを前置き-いわば予備知識-として述べ、その後に青木葉鉱山の坑夫取立免状に書かれていることに沿って知り得たことを書きすすめる。

尚、私(筆者)は鉱山(金属鉱山)・砿山(非金属鉱山)・炭砿を使い分けることを原則としている-石油や採石は対象外-。しかし、本ブログ「青木葉鉱山、坑夫取立免状」においては特に断りがないかぎりそれらに共通する内容も多い。例えば「坑夫」と記すとそこには鉱山や砿山・炭砿での坑夫を含み、特に金属鉱山のみを意識しているわけではない。現に、近世では「鉱山」は金属鉱山を指し、近代に入ってからそこに炭砿や砿山が含まれるようになり、現在、「鉱山」を言葉にすると金属鉱山も非金属鉱山も採石も炭砿もすべて括られてイメージされることが一般的である。