2018年8月6日月曜日

奥会津横田にある二本木橋の歴史(7)-参考とした資料

会津史学会『会津の街道』(歴史春秋出版社、1985年)
金山町教育委員会『金山の民俗』(金山町、1985年)
金山町教育委員会『金山町の文化財』(金山町教育委員会、1990年)
金山町史出版委員会『金山町史 下』(金山町、1976年)
渡辺一郎他「国道252号二本木橋災害復旧事業について」
http://www.hrr.mlit.go.jp/library/happyoukai/h26/c/05.pdf
岩崎誠他「国道252号 二本木橋災害応急復旧工事の報告について(豪雨災害発生~応急復旧工事完成まで)、http://210.148.110.37/library/happyoukai/h24/c/12.pdf
福島県史料集成刊行会『福島県史料集成第三輯』(福島県史料集成刊行会、1952年)
金山町役場『広報”かねやま”縮刷版』第1版~第5版
「土木学会付属土木図書館デジタルアーカイブス」
「橋梁史年表」より二本木橋・西部橋
国立公文書館デジタルアーカイブより「天保国絵図 陸奥国(会津領)」
国土地理院(http://geolib.gsi.go.jp/)における地図、空中写真


二本木橋は横田鉱山とは直接的な関係はない。だが横田鉱山社宅に帰るべき居所があった12年間の中でこの橋は自分にとってランドマークのような位置づけである。土倉に住む友人の家に行くときはこの橋を渡るし、大塩の温泉に入るときもそうである。横田鉱山の2度目の社宅は二本木橋から上横田方面に入り只見川のすぐ近くにあった。その橋が落ちてからは自分の消えてしまった想い出を取り戻すかのようにこの橋の歴史をたどってみようと資料を読んだ。現地に生活している人びとにとっては二本木橋は(西部橋もそうだが)父祖から続く生活史の中に染みこんでいるだろう。だが意外にもこの橋の来歴全般を記しているものには触れることがなく、ならば自分でたどってみようと思ったのがそもそもの始まりで、リタイア後の毎日が日曜日状態の時間潰しにも適していたようである。今年の4月頃から手をつけ、途中でサボったりして今やっと終えた。
生まれた地でもないし、親戚や親しい友人がいるわけでもない。だからこそなのか、この地が懐かしいし、愛着が薄れることはない。

奥会津横田にある二本木橋の歴史(6)

まとめの意味を込めて二本木橋の位置と西部橋の位置の変遷について以下に記す。



上図のa付近に天保年間に橋が架けられ、明治31年(1898)に木橋に変わり、大正2年(1913)にaの位置に木造吊り橋となり、昭和29年(1954)にコンクリート永久橋となってbの位置(aより約50m上流側)に架け替えられ、平成23年(2011)新潟・福島豪雨で落橋し、仮橋として約2年間運用された後の同25年(2013)に約270m上流側のCの位置に現在の二本木橋が架けられた。

一方、越川から西部に架けられた西部橋が最初に確認されるのはX地である。大正2年(1913)測図同3年発行の地図にはその橋が確認できるが、昭和6年(1931)修正後の地図(同8年発行)、および同27年修正後(同年発行)の地図には越川・西部間の橋は確認できなかった。同33年(1978)にはyの位置に橋長121.6m/幅3.5mの鋼下路ランガー桁橋が架けられたとある。そして前記豪雨で落橋して現在はzの位置に移っている。

 前にあげた大正2年測図の地図に比べて川幅が広くなっている。これはダムによって川が堰き止められた結果である。




















奥会津横田にある二本木橋の歴史(5)

天保期に架けられた二本木橋の名称が次に登場するのは明治31年(1898)1月のことである。仮に天保期に架けられた橋がこの年まで存続したとすれば約60年間近く利用され続けたことになる。この明治31年に新たに架けられた経緯や場所は特定できていない。二本木橋とあるからには前と同一位置かごく近場であったろう。「土木図書館デジタルアーカイブス」には、橋長58m/幅員2.7m 形式は木橋、と記されている。

 大正2年(1913)8月に洪水が発生し、現金山町内で二本木橋を含む3つの橋が流失してしまった。同11月には木塔の木造吊り橋が二本木橋となって新生した。架橋の様子は下の写真に示される。



吊り橋は昭和29年(1954年)に架け替え行われ、全長80m/幅員6mのコンクリート製永久橋と生まれ変わった。私の思い出の中に残っている二本木橋はこの橋である。前記吊り橋より約50m上流側に移った。架け替えの経緯は把握していないが、只見特定地域総合開発計画(只見川電源開発計画)の一環でもあったろう。伊北街道が国道252号と指定されたのは永久橋となって9年後の昭和38年(1963)のことである。
永久橋とされた二本木橋は下の写真である。



東日本大震災のあった平成23年(2011)7月29日、新潟・福島大豪雨によりこの永久橋/二本木橋は落橋してしまった。鉄道橋も消失した。近隣の2箇所の町道橋も落橋した。田子倉ダム下流に浚渫船があり、ダム放流によってこの浚渫船が流され橋を破壊したために鉄道橋や二本木橋が落橋したと、某駅にて某氏より聞いた。また、ダムがあるためにこの惨劇が起きたと主張する人たちがいることは確かである。
田沢橋も越川にある西部橋も落橋し、四季彩橋だけは高い位置にあったために無事であった。尚、新潟・福島大豪雨で浸水被害にあった人たちがダム管理者ニ社に損害賠償訴訟を起こし、裁判は続いている。

 兎にも角にも馴染みのあった二本木橋は消滅してしまった。この橋の重要性は極めて高く、すぐに仮橋が設けられ、新しい二本木橋が2013年に完成した。


















































奥会津横田にある二本木橋の歴史(4)

ここからやっと二本木橋が登場する。
横田と大塩の間に橋が架けられる契機になったのは一つの惨事からであった。二本木橋そのものの歴史はそこから始まり、現在に至っている。

天保4年(1833)から同10年まで東北に大飢饉が襲った。飢饉末期の天保10年6月(旧暦)、大塩にある宇奈多理神社に豊作祈願の意味も込めて芝居の奉納が催された。近隣の村々から人びとが境内に集まり、夜になり奉納が終わると横田方面の人びとは急ぎ足で帰途につき、船渡場に向かった。帰りを急ぐ人びとは船頭の制止も聞かずに舟に乗り込み、そして船は闇の夜の只見川に転覆してしまった。船頭を除く20名は皆川に流れ、後遺体となって発見された。
 この惨事に心痛め、架橋の必要性を強く思った名主たちが奔走し、天保12年(1841)に初めての橋が架けられた。地名をとって二本木橋と名付けられた。これが二本木橋の初代である。長さ約42m、幅3m余、水面より約19mの高さの橋であった。翌年には橋のすぐ近くに「長橋碑」が建立され、この碑は大塩から土倉に向かう入口にいまも見られ、Googleにても確認できる。


国立公文書館デジタルアーカイブにて「天保国絵図 陸奥国(会津領)」を見ると横田村と大塩村の間に橋が架かっている。これが前記する初代の二本木橋かと思ったが、「天保国絵図」の完成は天保9年であり、前記天保12年の架橋と年代が合わない。惨事が天保10年に起きたとするならば絵図の橋のように見えるのは橋ではなくて渡舟の経路を示しているのであろうか。しかし、絵図上の別の箇所で橋が描かれていない箇所には「舟渡り川幅二拾五間」との文字が確認できて渡舟であることが分かる。二本木橋と思われるところには単に「川幅弐拾間」とあるからこれは絵の通り間違いなく橋である。天保12年完成の橋が、天保9年の絵図に描かれている、この矛盾が分からない。また、「土木図書館デジタルアーカイブス 橋梁史年表」にて二本木橋を検索すると、1839年12月開通の下部工形式とあって、長橋碑に書かれている(とされる)年代と合致しない。この二つの年代の違いが何故なのか分からない。長橋碑の現物確認もせず、インターネットから掴むことの出来る範囲で調べている限界なのかもしれない。

 下図は上記の「天保国絵図 陸奥国(会津領)」を一部切り出したものである。






奥会津横田にある二本木橋の歴史(3)

横田周辺の地図は国土地理院のウェブにて容易に確認できるし、空中写真も古地図も見ることが出来る。空中写真の高解像度データも地図も取り寄せができて、手元には国土地理院から入手したデータや地図がある。それらを、例えば昭和22年(1947)、同39年、同51年の空中写真を並行して眺めると年月の経過と共に、只見川の川幅の変化や建物の変化、地勢の変化などが確かめられる。
生地でもなく,、短期間しか居住していなかった地ではあるが、かつての生活の場を空からの写真で眺めると懐かしさとともにかつての鉱山社宅での暮らしや学校生活、再び会うこともない人たちの50年以上前の姿が思い出される。鉱山生活者はデラシネの如くであるからこそ昔の生活の地を俯瞰してそこに自分の根を張ろうとしているのかもしれない。

 江戸期寛文年間(1661-1672年)まで伊北街道は越川手前で西部(にしぶ)側すなわち只見川北岸に船で渡り(地図3-1の図中①)、土倉-大塩-滝沢と通じる道が本道であった。越川手前で分岐した道は横田を通り上横田と田沢を経て小見の端村が終端となっていた。(出典は『会津の街道』。


 以下、『福島県史料集成第3輯』にある『新編会津風土記』を参考にする。巻84の大塩村には、「関梁 船渡場 村より巳の方にて只見川を渡し横田村に通す伊北郷より府下に通る道なり」とあって、大塩と横田の間に渡し船が利用されている(地図3-1の図中②)。田沢村の項にも「只見川 (中略)一里十八町横田村の界に入る小船を以て滝沢村に通す」とあり、対岸の滝沢に渡るのに随分の距離を廻り道するしかなかった。巻83の本名村の項目には「舟渡場 村より未の方大塩組越河村の通路にあり」「只見川を渡す伊北郷より府下に通る路なり」とある(越河は現在の越川)。すなわち、只見川を挟んで2箇所の渡し船が只見川を往復していた。尚、『新編会津風土記』は享和3年(1803)から文化6年(1809年)にかけて編纂されたものである。
文化文政期(1804-1830年)には上横田~大塩の船渡場の整備等が進み、横田を通り上横田で大塩に渡る道が本道になった。
地図3-1に示す①と②の船渡しの位置は『金山の民俗』に依った。

 滝沢・大塩側の人たちが江戸方面に向かうには大塩から上横田に渡り、四十九院の小さな峠(地図3-1の図中③)を上り下りして山入川辺に沿って南会津の布沢(ふざわ)に出た。ここからは前回に書いた駒止峠を越えて田島に抜けた。
 上記地図から時を経て四十九院峠のすぐ横に横田鉱山が稼行された。