2018年8月6日月曜日

奥会津横田にある二本木橋の歴史(5)

天保期に架けられた二本木橋の名称が次に登場するのは明治31年(1898)1月のことである。仮に天保期に架けられた橋がこの年まで存続したとすれば約60年間近く利用され続けたことになる。この明治31年に新たに架けられた経緯や場所は特定できていない。二本木橋とあるからには前と同一位置かごく近場であったろう。「土木図書館デジタルアーカイブス」には、橋長58m/幅員2.7m 形式は木橋、と記されている。

 大正2年(1913)8月に洪水が発生し、現金山町内で二本木橋を含む3つの橋が流失してしまった。同11月には木塔の木造吊り橋が二本木橋となって新生した。架橋の様子は下の写真に示される。



吊り橋は昭和29年(1954年)に架け替え行われ、全長80m/幅員6mのコンクリート製永久橋と生まれ変わった。私の思い出の中に残っている二本木橋はこの橋である。前記吊り橋より約50m上流側に移った。架け替えの経緯は把握していないが、只見特定地域総合開発計画(只見川電源開発計画)の一環でもあったろう。伊北街道が国道252号と指定されたのは永久橋となって9年後の昭和38年(1963)のことである。
永久橋とされた二本木橋は下の写真である。



東日本大震災のあった平成23年(2011)7月29日、新潟・福島大豪雨によりこの永久橋/二本木橋は落橋してしまった。鉄道橋も消失した。近隣の2箇所の町道橋も落橋した。田子倉ダム下流に浚渫船があり、ダム放流によってこの浚渫船が流され橋を破壊したために鉄道橋や二本木橋が落橋したと、某駅にて某氏より聞いた。また、ダムがあるためにこの惨劇が起きたと主張する人たちがいることは確かである。
田沢橋も越川にある西部橋も落橋し、四季彩橋だけは高い位置にあったために無事であった。尚、新潟・福島大豪雨で浸水被害にあった人たちがダム管理者ニ社に損害賠償訴訟を起こし、裁判は続いている。

 兎にも角にも馴染みのあった二本木橋は消滅してしまった。この橋の重要性は極めて高く、すぐに仮橋が設けられ、新しい二本木橋が2013年に完成した。


















































0 件のコメント: