横田周辺の地図は国土地理院のウェブにて容易に確認できるし、空中写真も古地図も見ることが出来る。空中写真の高解像度データも地図も取り寄せができて、手元には国土地理院から入手したデータや地図がある。それらを、例えば昭和22年(1947)、同39年、同51年の空中写真を並行して眺めると年月の経過と共に、只見川の川幅の変化や建物の変化、地勢の変化などが確かめられる。
生地でもなく,、短期間しか居住していなかった地ではあるが、かつての生活の場を空からの写真で眺めると懐かしさとともにかつての鉱山社宅での暮らしや学校生活、再び会うこともない人たちの50年以上前の姿が思い出される。鉱山生活者はデラシネの如くであるからこそ昔の生活の地を俯瞰してそこに自分の根を張ろうとしているのかもしれない。
江戸期寛文年間(1661-1672年)まで伊北街道は越川手前で西部(にしぶ)側すなわち只見川北岸に船で渡り(地図3-1の図中①)、土倉-大塩-滝沢と通じる道が本道であった。越川手前で分岐した道は横田を通り上横田と田沢を経て小見の端村が終端となっていた。(出典は『会津の街道』。)
以下、『福島県史料集成第3輯』にある『新編会津風土記』を参考にする。巻84の大塩村には、「関梁 船渡場 村より巳の方にて只見川を渡し横田村に通す伊北郷より府下に通る道なり」とあって、大塩と横田の間に渡し船が利用されている(地図3-1の図中②)。田沢村の項にも「只見川 (中略)一里十八町横田村の界に入る小船を以て滝沢村に通す」とあり、対岸の滝沢に渡るのに随分の距離を廻り道するしかなかった。巻83の本名村の項目には「舟渡場 村より未の方大塩組越河村の通路にあり」「只見川を渡す伊北郷より府下に通る路なり」とある(越河は現在の越川)。すなわち、只見川を挟んで2箇所の渡し船が只見川を往復していた。尚、『新編会津風土記』は享和3年(1803)から文化6年(1809年)にかけて編纂されたものである。
文化文政期(1804-1830年)には上横田~大塩の船渡場の整備等が進み、横田を通り上横田で大塩に渡る道が本道になった。
地図3-1に示す①と②の船渡しの位置は『金山の民俗』に依った。
滝沢・大塩側の人たちが江戸方面に向かうには大塩から上横田に渡り、四十九院の小さな峠(地図3-1の図中③)を上り下りして山入川辺に沿って南会津の布沢(ふざわ)に出た。ここからは前回に書いた駒止峠を越えて田島に抜けた。
上記地図から時を経て四十九院峠のすぐ横に横田鉱山が稼行された。
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