2016年8月30日火曜日

横田小学校、横田中学校

福島県横田鉱山の社宅に住んでいた頃、通学していた小中学校は大沼郡金山町立横田小学校および横田中学校であった。小学校は現在もまだ存在するが、中学校は2009年に廃校となり金山中学校に統合された。金山町にはかつて中学校は3校あったのだが、現在は金山中学校1校となっている。町は過疎化が進んでおり、2015年現在横田小学校は全校生徒11人、金山中学校は同じく32人でしかない(http://www.gaccom.jp/、2016年8月29日)。
私が横田中学校を卒業した1965年の集合写真を見ると1クラスが47人と48人の2クラス、合計95人が在籍していた。ちなみに昭和40(1965)の横田小学校全校生徒数は197/6クラスで<1>、横田中学校は同じく227/6クラスであった。金山町全体での小中学校生徒数は1,735人であった<2>。それが今、201681日現在では全町民人口が2,203人である(金山町HPより)。広報には「児童生徒数の社会的増(ママ:筆者註)は鉱山関係に期待される以外は、工場誘致でもない限り見込めない現在、年度毎の減少傾向は、(昭和:筆者註)45年以降も続くものと予想され、町学校教育の重要な課題となっているのであります」と記載されているが<3>、鉱山の閉山と50年後の今を想像できえたであろうか。

私は横田小学校・横田中学校の卒業アルバムを持っていない。紛失したとかではなく、卒業アルバムはもともと製作されていない。手もとにあるのは集合写真と卒業記念文集の二つだけである<4>。その集合写真にしても生徒の氏名が書かれたものはないので、今となっては写真に写っている同級生が誰なのか判らない人も多い。文集に記載されている名前を参照し、確実に特定できる人と、多分この人であろうと想う人数を合計しても、47人中9人が分からない。これは私が在籍したクラスの場合であり、学年すべてに渡ると95人中31人が分からない。特に女性のほうが分からない。見覚えはあるような気がするだが
そもそも、小中学校とも校歌なるものがなかった。中学3年の時に校歌を作りたいと行動したのであるが、実現しなかった(経緯は記憶している)。自分が在籍する学校の校歌を歌えるのは会津高校入学後からであった。

2年前の2014年に、2009年現在の同級生の住所録を入手できた。83人の名前が載っているのだが2人については全く記憶がなく、卒業文集にもその名はない。「昭和44年度 金山町成人者名簿」にも掲載されていない。なぜなのか、誰なのか、さっぱり分からない。

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<1> 現在横田地区には横田小学校1校しかないが、昭和40年には横田小学校以外に横田小学校山入分校・大塩小学校があり、3校を合計すると学童数・クラス数は399/15となる。
<2> 『広報かねやま』(金山町)第10号昭和40(1965)31日:2頁。
<3> 前掲註11頁。
<4> 写真に写っている人数は合計95人だが、卒業文集に載っているのは94人でなぜか一人が文集から欠けている。しかし、現在も地元に居住しているようである。

2016年8月23日火曜日

その他の参考文献

「日本の鉱山の概要」「宮田又鉱山」「奥会津横田鉱山」の註記に記載したものを除く。

秋田大学大学院工学資源学研究科附属鉱業博物館『鑛のきらめき』秋田大学大学院工学資源学研究科附属鉱業博物館、2014年。
礒辺欽三『無宿人 佐渡金山秘史』人物往来社、1964年。
金山町役場『広報”かねやま”縮刷版』金山町役場、1977年。
福島県立博物館『企画展 ふくしま 鉱山のあゆみ-その歴史と生活-』福島県立博物館、1992年。
国立科学博物館『日本の鉱山文化』財団法人科学博物館後援会、1996年。
通商産業大臣官房調査統計部編『本邦鉱業の趨勢50年史 続篇』通商産業調査会、1964年。
文化庁文化財部記念物課『近代遺跡調査報告―鉱山❘』文化庁文化財部記念物課、2002年。
吉岡宏高『明るい炭坑』創元社、2012年。
桶谷繁雄『金属と日本人の歴史』(講談社学術文庫)講談社、2006年。
国民生活調査会編『日本の国民生活 働くものの職場とくらし』三一書房、1955年。
斎藤實則『あきた鉱山盛衰記』秋田魁新報社、2005年。
三浦豊彦『日本人はこんなに働いていた ―聞き書きのなかの働く人びと-』(労働科学叢書105)財団法人労働科学研究所出版部、1997年。
秋元勇巳「我が国鉱業の現状と21世紀の展望」(資源・素材学会『資源と素材』第114巻第6号、1998年) https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigentosozai/114/6/114_6_389/_pdf
松本通晴「鉱山労働者の生活史調査」(社会学研究会『ソシオロジ』第102号、1988年)。
沢田猛『石の肺 ある鉱山労働者たちの叫び』技術と人間、1985年。
竹田和夫編『歴史のなかの金・銀・銅』勉誠出版、2013年。
渡部和男『院内銀山史』無明舎、2009年。
萩慎一郎『近世鉱山をささえた人びと』(日本史リブレット89)山川出版社、2012年。
有沢広巳編『現代日本産業講座Ⅱ』岩波書店、1959年。

2016年8月22日月曜日

奥会津横田鉱山 - 修正

「奥会津横田鉱山⑥ - 鉱山社宅の生活」にて以下を追記
「社宅」の箇所の(*)。戸数をより詳しく記述した。
「福利施設」の箇所の(**)

奥会津横田鉱山⑩ - 横田鉱山、その後

秋田県小坂鉱山のように大規模な鉱山は事業形態を変遷させながら継続し、町は長年にわたって培われた鉱山文化の記憶を継承・活用し未来へつなごうとしている。しかし金山町の横田鉱山や田代鉱山は記憶が薄れる一方でもはや鉱山の記憶すらないようである。実体として残っているのは、現在不通となっている只見線会津横田駅近くに「鉱山第二踏切」の標識があり、かつて横田鉱山があったことを微かに思い出させてくれるようである。

Y-11は昭和34年(1959年)頃の横田鉱山選鉱所であり、図Y-12は同57年の選鉱所廃墟正面からの撮影である(8mm撮影から切り出したため粗い絵となっている)。図Y-13は平成26年(20145月に、図Y-11とほぼ同じ場所から同方向に撮影した写真である。山の上に立つ木々の姿が55年経っても似ているように見えるのは私の思い入れの強さのせいであろうか。






平成26年(2014)の5月、偶然にかつての小中学校の同級生に会うことができた。たまたま横田小学校で「横田大運動会」が催されており、そこに立ち寄った。子供と一緒にいた30代の女性に尋ねたところ、横田小学校の運動会であるのだが全校生徒12名しかいないので、住民を含めた地区全体の運動会としているとのこと。その女性に私もここの卒業生ですよと口に出し、話の中で、昔横田鉱山があったときに住んでいて今は誰も知る人もいないと言ったら生年を聞かれ、それに答えたら旦那さん経由で一人の同級生を紹介してくれた。何と中学卒業以来の再会で、更に女性一人と男性3人の同級生がいた。幾つかの偶然が重なって彼らと再開することができた。
いろいろ話をしていると還暦を迎えたときに東山温泉で33人が集まって還暦祝いを実施したらしい。行方知らずになっている私の所には案内が来るはずもなかったのであるが、参加できなかったことに寂しい、やるせない気持になった。海外在住の人や、地元を離れている人たちは、横田に住んでいる親兄弟などに住所を確認し連絡をしたらしいのであるが、デラシネの鉱山生活者には地元に残っている人もおらず、確認のしようもないのが現実である。
その後還暦の祝いでの集合写真や同級生の住所録を送ってもらった。写真ではすぐに分かる人もいれば名前をみても全く覚えのない人もいた。住所録には横田中学校の昭和39年(1964)度卒業生95人のうち80人が載っていた。横田鉱山社宅に住んでいた者は4人いたのであるが、私も含めて4人とも名前すら記されていなかった。


























































































2016年8月21日日曜日

奥会津横田鉱山⑨ - 田代鉱山、そして鉱山の終焉

只見川を挟み、横田鉱山の対岸850mに田代鉱山があった。横田鉱山が閉山となった後、金山町はこの田代鉱山に多大な期待を寄せることとなる。横田鉱山と田代鉱山が並立する昭和44年(1969)頃からは「黒鉱の町金山」への思いが膨らんだ。田代鉱山は、操業開始に向けて総従業員のうち76名を地元から採用することを予定した<43>。そして、会津線(現只見線)会津大塩駅付近の一帯に選鉱所、社宅55戸、独身寮1戸、物品販売所を建築した<44>(図Y-9)。これら鉱山設備は採鉱地域からは約800mの距離にあった。




田代鉱山の沿革
天保年間(18301843)に発見され、明治38年(1905)に久原鉱業の経営となったが、鉱石の運搬交通の不便さなどで休山となり、昭和13年(1938)日本鉱業下で手堀が開始された。探鉱・試錐を続けたが戦争で中断し、同30年探鉱・試錐が再開された。同36年に田代鉱床(Y-9(0)の高盛・俎倉・志保沢)から約2kmの位置に大塩鉱床を発見し、同42年に日本鉱業株式会社より高玉鉱山株式会社が鉱業権を譲り受け、同46年に操業開始となった<45>

鉱山への期待と落胆 
大塩地区には月産1万トンの選鉱所が完成し、過疎化に悩む金山町にとって「黒鉱」は未来を切り開くものであった。しかし横田鉱山が休山し、昭和46年(1971)から同47年にかけては人口の減少に拍車がかかった。田代鉱山への町の期待は膨らみ、3カ年にわたり、総事業費2,500万円を投資して田代鉱山の専用道路ともいうべき町道を完成させ、自動車による祝賀パレードも行うほどであった<46>
そのような期待をひっくり返すように、田代鉱山は昭和48年(19738月、急激に町に休山を通告した。僅か28ヶ月での休山であった。従業員86人のうち63人が町内出身者であり、横田鉱山に続く田代鉱山の休山は地元民にとっては「鉱山はもうこりごりだ、ドー(銅)にもならない」<47>という気持ちであった。
横田鉱山と田代鉱山の社宅はそれぞれ上横田地区と大塩地区にあった。『広報かねやま』より集計した各地区の世帯数変化を図Y-10に示す。鉱山の閉山時期に合わせて世帯が大きく減少している。
既存の集落に暮らす人たちと鉱山生活者の両者が溶け込んで新しい風土を作るには長い年月が必要であるが、横田鉱山は開発開始から17年であっさりと姿を消し、それに代わる期待を集めた田代鉱山は操業開始後わずか3年足らずで姿を消した。
他所から移ってきた鉱山社宅生活者は再び他の土地へ移動し、鉱山がなくなった集落は長年にわたってその残骸を眺め続けることになった。
鉱山に雇用機会の創出を願う町は、鉱山経営の内実に対しては鉱山側から説明を受けるしかない。従って、休山の告知は急激に知らされることとなる。集落の中に操業する鉱山とその集落との関係性は、一時的な操業期間における土地と労働力の需給の関係でしかない。過疎で悩む金山町はその関係性が強かった。だからこそ大きな期待と大きな落胆であった。



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<43> 「黒鉱開発急ピッチ」『広報かねやま』(金山町)第55号昭和44年(196937日:21-4段。
<44> 『田代鉱山の概要』パンフレット(高玉鉱山株式会社田代鉱業所、1970年)東日本旅客鉄道会津川口駅所有。
<45> 14『東北鉱山風土記』424頁。
44『田代鉱山の概要』。
農商務省鉱山局『黒鉱鉱床調査報文-2回』(農商務省鉱山局、1922年)72頁 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847345
栗山隆勝ほか「田代鉱山の開発について」(日本鉱業会『日本鉱業会誌』第881011号、1972年)241-244頁 https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigentosozai1953/88/1011/88_1011_241/_pdf
松田芳典ほか「田代1万t/月選鉱工場の建設と操業について」(日本鉱業会『日本鉱業会誌』第891022号、1973年)259-261頁 https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigentosozai1953/89/1022/89_1022_258/_pdf
<46> 「田代鉱山の産業道開通」『広報かねやま』(金山町)第91号昭和47年(197267日:2頁。
<47> 「町政の窓」『広報かねやま』(金山町)第106号昭和48年(1973913日:26段。

































2016年8月20日土曜日

奥会津横田鉱山⑧ - 広報紙に見る鉱山

横田鉱山が金山町からどのように捉えられていたのか、『広報かねやま』に見る。

鉱山という枠組み
鉱山社宅地域は、金山町の地区割りでは上横田地域に入るのであるが、持ち回りに近い形で任命される地区長には一度も立っていない。また、町のイベントの表彰などでは人名と所属地区名が併記される。たとえば昭和40年(19656月の『広報金山』第12号には「横田(鉱山)」のように鉱山関係者であることが括弧書きで付記されている。町は既存する地区に鉱山社宅地域を形式的に組み込むが、意識は鉱山という枠に組み込んでいる。象徴的であるのは、同461月、町の新たな開発を議題とする座談会にて、農業組合長が「あの鉱山の中で働いている労務者」という突き放した言い方をしている<36>ことにある。

鉱山への期待、鉱害への意識
金山町の人口は昭和35年(1960)に「滝発電所建設工事にともなういわば太りすぎ」<37>10,119人となった。工事完了を境にして急激に人口減少が始まり金山町は過疎を意識するようになる。町内に産業もないために同443月の調査では全1,667世帯から約200人の出稼者数を数えた<38>
鉱山開発促進事業団の探鉱ボーリング開始が契機となって、金山町は鉱山開発の促進を期待している。その一方では鉱害への意識も強まった。開発促進と鉱害・諸問題対策への対処をうたい、昭和43年(1968)、町は「鉱山対策特別委員会」を設置した<39>。町の黒鉱開発への期待は大きく、ボーリングの本格的開始を同43年の町政重大ニュースの2位に上げている<40>。しかし、日曹金属会津工場のカドミニウム汚染に関連して同45年に横田鉱山の排水調査を行なった<41>
昭和45年(1970)に、町を4地域に分け、町の未来発展について町民意識調査を行っている。「町は今後発展する見込みがある」と応えているのは横田地区で47%であるが、他の3地区は30%以下である。「今後は現状より悪くなると思う」のは横田地区で7%であるのに比して他の3地区は2633%となっている<42>。横田地区のみが突出して他地区と異なるのはこの地区に鉱山(横田鉱山と後述する田代鉱山)があることに起因していることは容易に推定できる。それだけ横田地区の人びとは鉱山に期待していた。
昭和47年(19723月の横田鉱山閉山にあたって町は対策を協議している。それは、休業後も探鉱を継続し早期再開を図ることを求め、人口流出防止のため鉱山に新規事業の誘致を要請するものであった。過疎の進行を防ぎたい目的である。要請と併せて、将来の地盤沈下への保安対策、公害防止も要求している。
産業のない、過疎の進む町にとっては、たとえ小規模の鉱山であっても、そこに労働力供給の永続性と人口流出の防止弁であることを強く望んでいる。「鉱山に新規事業の誘致を要請」するのは、産業の形態を問わないことを意味している。国や県に横田鉱山の保護・再開・新規事業誘致への配慮を陳情するのは、町の過疎対策、すなわち、雇用供給対策でしかなかった。だが、そのような陳情を行っても町の希望が叶えられるはずもないことは、冷たい言い方ではあるが自明であろう。
金山町の地場産業への取り組みは現在も続いていて、様々な活動が行われている。

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<36> 「只見中線の開通と地域開発」『広報かねやま』(金山町)第74号昭和46年(197117日:35段。
<37> 只見川電源開発計画によって只見川には多くの発電所が建設された。金山町内のダム式の発電所は、上田発電所・本名発電所が昭和27年(1952)から着工となり、続けて同34年に滝発電所が着工した。ダム建設では工事に従事する労働者で金山町の人口は一時的に増え、同35年に10,119人に達した。大滝地区にある滝発電所の工事関係者の児童急増により、大塩小学校は増築を行っている。
<38> 「部落別出かせぎ者数調」『広報かねやま』(金山町)第58号昭和44年(196967日:2頁。
<39> 「鉱山対策特別委員会設置」『広報かねやま』(金山町)第43号昭和43年(1968320日:44-5段。
<40> 「今年の町政十大ニュース」『広報かねやま』(金山町)第52号昭和43年(1968127日:31-2段。
<41> 「カドミュムは心配なし」『広報かねやま』(金山町)第72号昭和451970117日:54-5段。
<42> 「どうなる町の未来」『広報かねやま』(金山町)第64号昭和45197027日:25段。
この調査における4地域とは川口地区・本名地区・沼沢地区・横田地区であり、この場合の横田地区は図Y-4の横田生活圏と同じである。また、図Y-3の昭和15年の4村が地区割りの基礎になっている。

2016年8月19日金曜日

奥会津横田鉱山⑦ - 当時の生徒たちの観察

横田地域での通学区は広く、図Y-4(「奥会津横田鉱山③」に掲載)に見る〈横田〉地区が横田小学校の通学区であり、遠隔地の山入地区には分校があった。大滝地区は大塩小学校の通学区であった。横田生活圏の範囲が横田中学校である。遠隔地は冬期の三月から一二月の四ヶ月間わたって寄宿制を取っていた<32>
以前に書いた秋田県宮田又鉱山のように、地理的に閉じられた鉱山集落では、小学校に通う児童はすべてが鉱山関係者の家庭にある。しかし、横田鉱山の社宅に住む児童が小学校の中で占める割合は、昭和36年(1961)の6年生58人中5人でしかない。
昭和24年(1949)から同25年に生まれ、横田小学校・横田中学校に通っていた4人-すなわち私(筆者)と同級生―に横田鉱山全般について振り返ってもらった<33>。現在会津若松に居住する男性一人と、金山町在住の男性三人である。以下、その内容をまとめて記す。
鉄道と鉱山は地元に視野の広がりと、世の中を意識する世界を広げた。鉱山による刺戟があって、その刺戟は鉄道開通でなおさらに拍車がかかった。一つに貨幣経済の意識を植え付けた。給与をもらうことは金を稼げることであって、現金収入が主体の生活になる。それまでは農村であったところは日常の生活での感謝は野菜などを黙ってその家に置いていくような形で配慮しながら表していたのだが、それが薄らいでいくようになっていた。中学校校長として昭和村に赴任したとき、純粋な農村の昭和村では黙って家の玄関に野菜が置いてあったりして、かつての鉱山が来る前の横田や土倉(つちくら)にあった世界を思い出した。もちろん、鉱山は経済的に地域を潤しもした。ヒロセ商店では酒は売れるし、テレビなんかも鉱山ができたために早く浸透したのではないかと思う。鉱山がなければテレビの普及は5年ぐらい遅れたんではないかと思う。

働くことと遊ぶことの区別を知った。百姓の家では学校が休みだと家の田圃の手伝いをする。親は川口の役場に勤めていたが休日は百姓仕事をやる。しかし、鉱山の連中は、休日には野球をやったりして遊んでいる。羨ましかった。地元の人間も鉱山に勤めると野球などのチームに入って休みの日は家を手伝わないで野球をやって遊ぶ。休むことと働くことが区分けされて、それまでと違ってきた。 
階級社会を目の当たりに見た。下の社宅、上の社宅、上の長屋(10戸建3棟の社宅)があって、住むところの社宅の区分、社宅の程度の差などを見ていて、社宅というかたまりの中に階級というか格差社会を感じた。
農家では家庭内の全員が労働力となり、自らの土地で農産物の生産に関わる。しかし、鉱山社宅に居住する婦人や子供たちは生産的労働には従事しない。戦後の農村集落は制度的階級をもたず、長年にわたって築き上げられてきた地域的性格を濃くもっている。しかし、鉱山生活者は階層によって区別された社宅に住み、出世によって社宅を移り住み、日常生活は現金を媒介にしている。農村集落で生活してきた人びとの生活様式と、給料・社宅が基底にある鉱山生活者の生活様式は異なっていて当然である。その違いの具体例を上の言葉に読み取ることができる。
鉱山には優秀な人間が多い。会津若松に進学する中学生が増えたと思っているし、学校の成績や勉強への刺戟になった。一人か二人の優秀な人間で、さらに若松に下宿させるだけの経済的余裕のある家庭はそれまでにも進学はさせていたが、鉱山ができてからは多少無理してでも若松にやるようになってきた。農家のかたわら、町役場に勤める父親は月給が378千円なのに、子供3人、さらには妹も含めて4人も若松や福島に下宿させて進学させた。それは鉱山の女子中学生が優秀で、会津女子高校に進学したことが結構刺戟になった。何せ学年ダントツのトップでしかも女子だったし、それが鉱山の者だったから。  オレたちは部落に住む連中を「山中(やまなか)てー」<34>とか「横田てー」とかと呼ぶことがあった。それは「山中の住民は」、「横田の連中は」と部落に住む人たちをまとめて言うんだが、時にはそれに軽侮するような気持ちを込めることもあった。しかし、鉱山社宅に住む人たちへはそのような意味での「鉱山てー」という言葉は使わなかった。どこかでオレたちとは違うという気持ちがあるし、学校の成績のいい人たちが鉱山にいたからだろう。
横田鉱山と言うと、ニ人しか思い出せない。ニ人とも、学業は賢いと思っていたが、それ以外は、地元の子と異なるというイメージはなかった。社宅に行ったことはあるが、特に印象というか記憶は残っていない。それは私の住んでいた越川は、小さいときから、東北電力の社宅があり、また、母親が本名(ほんな)の電力関連に勤めていた為、身近に社宅を見ていたために違和感がなかったのかと思う。とにかく二人は頭が良かった。 
小学校の時、鉱山の松本とよく遊んだオレの父親は郵便局に勤めていたから、農家ではないし、かえって鉱山の子と遊ぶことが多かった。
  
小学生・中学生であった時代を振り返るので学校の成績にふれるのはごく自然なことである。そこで最初に出てくる言葉は、鉱山の子は優秀であったとするものである。鉱山の子どもすべてが優秀ではないのであるが、優秀な人間が鉱山の子であって、その成績が際立つと、「鉱山の子は優秀」と典型化してしまう。それは、鉱山という枠組みの中で鉱山社宅生活者を見ているからである。鉱山以外の部落の子が優秀であっても「その部落の子は優秀」という言い方はしていない。
横田の中学生の進学先はほぼ二分されて、会津若松にある高校か、金山町川口地区にある高校を選択するかである。下宿の費用負担が重くとも会津若松の高校に進学する刺戟を、鉱山生活者は子どもにも親にも与えた。会津若松に進学してから時折地元に帰ってくることは、都市の空気を帯びて帰ってくることであり、子供たちにとっては格好いいことであった。
鉱山の子どもが概して優秀と言われる理由は既に「宮田又鉱山」にて述べた。これは宮田又鉱山であろうと横田鉱山であろうと鉱山生活者に共通する。鉱山社会は階級社会=学歴社会の側面を強く持っている。よって子供に学歴を与えようとする。また、親からすればいずれ鉱山を退職する。給料生活以外に生産手段をもたない鉱山労働者は子どもに老後の生活を部分的にであっても委ねることになり、不安定な鉱山生活とは異なる安定企業への就職を希望することになる。それが教育熱心な態度へと反映する。
横田鉱山は町の活性化を図った。商店の繁盛にも繋がった。父親が横田鉱山で働いていた。閉山まで働いた。田代鉱山が簡単に潰れたのは痛かった。働くところがなくなってしまった。田代鉱山に雇って貰おうと思っていたら簡単に潰れてしまった。ボーリング会社に勤めて、田代鉱山のボーリングをやったことがある。鉱山には悪いイメージは全く持っていない。かえっていいイメージしかない。働く場所を提供したし、町は活性化するし、映画会はやって貰えるし、いいことしか出てこない。ボーリング会社に勤めていたとき、鯛生鉱山(大分県)、平瀬鉱山(岐阜県)でも働いたことがある。釈迦内鉱山(秋田県)にも行ったことがある。横田鉱山があったからこそ何の抵抗もなく鉱山で働くようになっていた。3Kのようなイメージはない。炭砿は酷いと思うけれど<35>、鉱山には、まして横田鉱山には全く負のイメージは持っていない。潰れたのが残念だった。
金山町には産業が少なく、鉱山の閉山は就業機会をなくすために大きな衝撃であった。鉱山生活者にとっても閉山は大きな痛手となるが、周辺の人びとや金山町にとってもその影響は大きかった。また、鉱山関連の仕事に就くと、働く場所は全国に及ぶことが上の言葉で判る。

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<32> 「冬の中学校寄宿舎」『広報かねやま』(金山町)第75号昭和46年(197127日:1頁。
<33> ヒアリングは平成26年(2014530-31日。およびその後の電子メール、電話での追加確認である。
ヒアリング対象者の氏名は省く。ヒアリングを試みたのは更に2名いるが、得られる情報はほかになかった。
<34> 「てー」とは「人達・若いてー(若い人達)」の意。
金山町教育委員会『金山の民俗』(金山町、1985年)753頁。
<35> 「降伏前、日本の金属および非金属鉱山の労働者は悲惨な状態にあった。その職務は炭坑夫ほど危険なものではなかったものの、組合幹部の封建的家来や既得権益とほとんど変わりはなかった」(斜体は筆者)
一般的に炭砿の労働条件は金属鉱山より劣悪であったことがわかる。
竹前栄治ほか編『GHQ日本占領史第44巻 不燃鉱業の復興』日本図書センター、1998年)81頁。

2016年8月18日木曜日

奥会津横田鉱山⑥ - 鉱山社宅の生活

社宅 
横田鉱山は既存の集落内に突然に表れた鉱山であり、生活のための福利施設は周辺の集落内施設を利用し、鉱山が新たに設けた福利施設はごく限られている。

Y-7は昭和24年(1949)頃の横田地区である。同31年頃から選鉱所などの鉱山設備aが設備され、田や桑畑のあった平坦地が造成されてbcの社宅群が建てられた。併せて山側と幹線道路の間に田子倉発電所建設資材輸送専用線の線路(図示なし)が敷かれた。周辺の集落にとっては、同30年頃からの急激な変化であった。





社宅群の構成を図Y-8に示す。Aは役職宅で、Bは職長社宅、Cは職員社宅ですべて2戸建てであった。Dは平屋1戸建てで共同浴場管理人が居住し、EFは一般従業員でそれぞれ4戸建て、10戸建てである。Fはアパートとも呼ばれた。Dを除いてすべて2階建てであり、各戸とも外には物置が付設されていた。最初に建てられた社宅はCであり、昭和32年秋だった。翌年になり雪が溶けてから順次他の社宅や設備が建設された。
戸数(世帯数)を数えると、A2戸×2=4戸、B=2戸×5=10戸、C2戸×5=10戸、D=1戸×1=1戸、E4戸×2=8戸、F10戸×3=30戸。合計66戸(世帯)の社宅であった(*)
役職宅は1階がニ間、2階が一間で、この社宅のみに風呂が備え付けられていた。職長社宅・職員社宅は1階が一間で2階は二間、EF12階とも一間であった。社宅以外には独身寮と賄い付きの食堂があり、倶楽部もあった。
Y-8を見ると、社宅は既存農村集落のなかに分かれて存在しており、占有した面積も狭く、後述するように、鉱山が設けたサービス機能はほぼ社宅のみでほかにない。とすれば、「日本の鉱山の概要」で述べた川崎の鉱山集落の概念にはあてはまらなくなる。すなわち、横田鉱山の社宅群を一つの鉱山集落として括るのは不適切であり、単に2箇所の鉱山社宅地域と呼ぶのがふさわしいと考える。それだけ、横田鉱山の規模は小さかった。
 
福利施設
鉱山が鉱山本体設備以外に設けた施設は、共同浴場を含む社宅や独身寮、直営販売所でだけであり、あとは横田地区に既存する医院・理髪店・小中学校・郵便局などを利用すればよかった。直営販売所は現金扱いで、日用品の食糧を中心においてあり、酒類や電気製品などは近くにある商店から購入していた。
 昭和30年代前半に鉱山は水泳ぎのプールを作った。場所は図Y-8の購買前から左下に導かれる道路沿い(図の左下)であった。プールと称しても水は近くの用水路めいたところから引き込んだだけで透明度はなきに等しく、まさしく大きな水溜りといったものでほとんど利用されはしなかった(**)

娯楽 
金山町全体に映画館のような娯楽に特化した施設はない。操業直後、鉱山は散発的に映画会を催すこともあったが、それは鉱山社宅地域の野外広場で夜間に行われ、横田地域で行われる唯一の映画であった。
テレビの普及が始まったころ、横田地区の一般家庭にテレビが設置されることは少なく、最初は、滝沢医院が自宅を開放し、そこに多勢の児童が押しかけて見させてもらっていた。後には地域の公民館に設置されたテレビを見ていた。テレビが普及しても、電波は新潟県からのものであり、昭和42年(1967)にテレビ中継放送所が完成してようやく福島県内の放送を見ることができた。それまでは福島県知事を知らなくとも新潟県知事を知っているという状況だった。
山神祭は行われていたが、鉱山固有の山神社はなかったと考えている。なぜなら、横田鉱山社宅に暮らした私自身の記憶が全くないことにある。横田に移住する前の宮田又鉱山の山神社は覚えているのに、である。『横田の思いで』や『福島の鉱山』に神社の写真は掲載されているが、神社名も撮影年月も記されておらず、建造物の大きさからみても、それらは地元にあるムラの神社であると思われる。
鉱山内に弓道部が設立され、社宅地域内に弓道場を仮設し、一時的にはブームとなって活発に活動した。また、相撲の土俵も私が最初に居住した社宅の前にあった。野球チームも作られ、中学校の校庭などを利用して活発に活動していた。

事故・災害・疾病
鉱山に事故・珪肺はつきものであり、横田鉱山でも発生している。記録するにとどめる。
昭和40年(1965)墜落死亡、同44年鉱車とともに墜落し死亡、同年崩れた鉱石に引き込まれ埋没し死亡<30>
会津労働基準監督署管内の昭和29年以降同5531日現在における珪肺患者は4名が記載されている<31>。死亡者はいない。横田鉱山で発症しているが、珪肺はそれまでに勤務した鉱山の労働環境、坑内労働期間の積み重ねからの発症であり、稼行期間の短かった横田鉱山の労働環境に原因があるとはいえない。

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<30> 佐藤一男『会津の鉱山』(会津民衆史研究会、1984年)233頁。
関東東北鉱山保安監督部編『東北の鉱山保安100年を振り返って』(関東東北鉱山保安監督部、1992年)27頁、31頁。
前者には組夫の事故が記載されているが、後者にはない。後者は事故内容が詳しい。
<31> 30『会津の鉱山』273-274頁。