本格操業まで
昔、小規模で短期のあいだ鉛を製錬していたとの口伝があるが、年代も含め詳細は判明していない。明治43年(1910)年頃、久原鉱業が田代鉱山の支山として探鉱の開鑿を行い、浜子鉱床(上横田地区只見川近傍)と鈍子鉱床(山入地区への入口にあたる石塚集落近辺)に露頭をみた。その後昭和10年(1935)頃に田島町の坂井常吉などが、続けて同13年に堀家萬太郎が鉱業権を所有した。同年に高品位で相当量の鉱床を発見し、翌年より宮城県細倉鉱山および岐阜県神岡鉱山に売鉱した。その後手選で塊鉱を出鉱、あるいは貯鉱し、戦後、同20年には日本曹達会津工場に売鉱した。しかし、露天掘りが深部に下って作業困難となり休山した<14>。
只見川沿いの奥会津一帯は、黒鉱地帯として有望視されてきていたが、交通不便、豪雪、地形は峻険であるなどの悪条件のため、積極的な開発がなされなかつた。昭和23年(1948)秋に地質調査所室住が、鉱床潜在を推定し得る結果を得たとの成果を発表し、鉱業界の注目を引いた<15>。そのようななか、同30年になって只見川電源開発計画が急速に進展し,電発専用鉄道の敷設や、国道252号の整備など、交通事情が好転しはじめた。その年9月に、日本曹達(株)が会津製錬所の鉛・亜鉛自給対策の一環として横田鉱山を買収し、横田鉱山株式会社を設立した。従業員10名からのスタートであった<16>。地表からの試錐実施によって鉱体の賦存範囲を確認し、同時に施設の建設をすすめ、同32年~33年に坑道開発をなし、本格操業は同34年からであった<17><18>。主な鉱種は亜鉛鉱、鉛鉱、銅鉱、硫化鉱で、同37年からは重晶石精鉱の操業を開始した<19>。
閉山まで
昭和34年(1959)~同48年の日本は高度成長期にあり、経済は発展を続け、銅需要は増加した。しかし、国内鉱山は海外鉱山との国際競争に直面し、高度成長期のなかで鉱業は斜陽化し、日本の金属鉱山は急速に衰退していった。
横田鉱山の親会社である日本曹達(株)は昭和40(1965)年になって日曹金属株式会社を分離独立させた<20>。日曹金属は福島県耶麻郡磐梯町に会津製錬所を有しており、横田鉱山の鉱石はそこで製錬されていた。日曹金属の独立に伴って、横田鉱山はこの新会社の傘下に移行したと思われる。しかし、日曹金属は、金属価格の下落と鉱量枯渇によって、同43年に傘下の鉱山を解散することとなった<21>。実際、同40年頃は横田鉱山の鉱量も枯渇しつつあり、同41年に新たな鉱床を発見することで鉱量を補っていた<22>。日曹金属の鉱山解散で、従業員には動揺が生じ、将来性への不安から、同44年頃には職長クラスのなかから離職する者が続くようになってきた<23>。同46年3月には西会津開発株式会社横田鉱業所と社名を改称している<24>。
昭和40年(1965)以降、福島県による地質図幅調査、通商産業省による広域調査、金属鉱物探鉱促進事業団による精密調査が行われた<25>。黒鉱鉱床の探査、開発が急速に展開されていたなかで、同44年から同46年にかけて実施した試錐では、本山鉱床下部にあたる深部鉱床に推定鉱量280万トンという、かなりの規模の鉱量がみいだされた<26>。
大きい規模の鉱床が推定できたとしても、深部鉱床では設備投資に巨額な投資が必要である。また、採算ベースに見合う品位には達していなかったこと、銅価格の下落が激しいことなどから、横田鉱山は昭和47年(1972)3月に山を閉じることになった<27>。
従業員数の推移
本格稼行が始まった昭和34年(1959)の従業員数は139人、同42年144人、同46年146人、同47年の閉山時は141人と、従業員数に大きな変動はなかった<28>。
従業員は労働組合と職員組合に別れて全日本金属鉱山労働組合連合会に加盟しており、昭和43年(1968)現在では職員組合が12人、労働組合が113人の加盟となっている<29>。
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<14>
和田豊作『東北鉱山風土記』(私家版、1942年)425頁 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1060452
。
鷲尾義雄『横田の思いで』(私家版、1996年)101頁。
<15> 室住正義「福島県大沼郡横田鉱山電気探鉱調査報告」(工業技術院地質調査所『地質調査所月報』第2巻第1号、1951年)51-55頁 https://www.gsj.jp/data/bull-gsj/02-01_12.pdf 。
註11「横田鉱山の鉱床の内部構造とくに本山鉱床について」106頁。
<16> 註14『横田の思いで』101頁。
<17> 平林武雄「横田鉱山深部鉱床の探査について」(資源地質学会『鉱山地質』第22巻114、1972年)283-302頁 https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigenchishitsu1951/22/114/22_114_283/_pdf
。
<18> 横田鉱山は日本曹達(株)傘下で創業し、秋田県の宮田又鉱山は新鉱業開発(株)の鉱業所であった。両鉱山に経営上の繋がりはないが、『宮田又鉱山誌』と註14『横田の思いで』には3名の名前が共通して載っている。1名は、新鉱発内の高旭鉱業所長を経て昭和25年(1950)から宮田又鉱業所長を勤めた加来靖夫である。しかし、横田鉱山においての関わり方や役割は判っていない。残りの2名は高橋壽と半田喜久也である。両氏は同32年と同33年に横田鉱山に移り、本格操業が開始された同34年に初代労働組合委員長および執行委員にあり、翌年にはその役を降り、4~5年後には職長に昇進している。
<19> 註14『横田の思いで』101頁。
『広報かねやま』(金山町)第79号昭和46年(1971)6月7日:2-3頁。
<20> 日曹金属化学のHP「沿革・あゆみ」 http://www.nmcc.co.jp/。
<21> 註14『横田の思いで』101頁。
<22> 註17「横田鉱山深部鉱床の探査について」289頁。
<23> 筆者の日記(1969年7月2日)。
<24> 『広報かねやま』(金山町)第79号昭和46年(1971)6月7日:2-3頁。
<25> 石油天然ガス・金属鉱物資源機構『銅ビジネスの歴史』(石油天然ガス・金属鉱物資源機構金属資源開発調査企画グループ、2006年)88-89頁。
<26> 註17「横田鉱山深部鉱床の探査について」291頁。
<27> 「横田鉱山3月末で休山」『広報かねやま』(金山町)第85号昭和46年(1971)12月7日:4頁。
<28> 従業員数は以下の資料から総合させた。
註14『横田の思いで』101頁、
『広報かねやま』(金山町)第79号昭和46年(1971)6月7日:2-3頁、
『広報かねやま』(金山町)第107号昭和48年(1973)10月13日:5頁。
<29> 全日本金属鉱山労働組合連合会編『全鉱20年史』(労働旬報社、1967年)関係資料集。
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