通帳・給与 鉱山では、通帳を持っていれば現金がなくとも生活はできた。宮田又鉱山における通帳の運用システムはほかの鉱山と同様の運営と思われる。すなわち、給料の何割かの定額を通帳に記入し、その通帳を持って供給所で買い物をするのである。定額のつけかたは鉱山によって異なるが、通帳での購入金額を差し引いた給料が現金として支払われる。
昭和31年(1956)に本社採用として新鉱発に入社し、宮田又鉱山に配属された大学新卒の初任給は12.000円で、寮費が引かれて手取り7,000円ほどであった。鉱夫の賃金は日当で、多くは請負計算による出来高払いとなっていた。鑿岩夫は1m掘削で2,000円だが火薬代その他を差し引き日給は700~800円。運搬夫は1屯車1台あたり6円、6分屯車1台当たり4円の単価で日給は400~500円。支柱夫は500~600円であった。乱暴な試算ではあるが、これらを単純にひと月25日として乗じると月あたりの給与は、鑿岩夫が17,500円~20,000円、運搬夫は10,000円~12,500円、支柱夫は12,500円~15,000円となる<42>。
昭和29年(1954)の調査での大手鉱山の月給を表M-1に示す<43>。日鉱を除く大手5社の同30年と同31年の賃上げ合計額は950円~1,120円である<44>。この賃上げ額と表M-1を合算し、宮田又鉱山の給料とを比較してみると、大雑把な比較であるが、少なくとも小鉱山である宮田又鉱山と、大企業である各社鉱山との間に大きな差異はないといえる。
娯楽行事 テレビが普及するまで、宮田又鉱山における娯楽の筆頭は映画であった。小学校の体育館で催され、子供たちは早くから場所取りに出かけ、夜の映画を楽しみに待っていた。映画会は宮田又鉱山会主催で月例となっており、鉱山居住者のみでなく、徳瀬集落や荒川鉱山集落などから、山越えであれば1時間半かけて宮田又小学校に来て映画を観た。映画は月例のほかに、鉱山の行事の際に特別に上映される場合もあり、協和村で映画を最も観たのは宮田又の鉱山集落の人たちであったと思われる。
昭和33年(1958)~同40年間の鉱山における娯楽行事を月順に述べる。
正月に入ると10日頃には鉱業所内特設消防団の出初め式があり、2月には昭和31年(1956)からスキー大会が開かれ、3月には小学校の修卒業式があり、PTAの主婦たちで作った紅白饅頭が全児童に配られ、4月1日は会社の創立記念日で、新鉱発発足初期の頃は小学校で演芸会や映画会が開催された。 小学校入学式にも紅白の饅頭が配られ、5月12日は鉱山最大のイベントである山神祭となる。前日から宵祭りとなり、ここでも映画が上映され、神社参道には大直利<45>の幟が並び、翌日の本祭では境などからガソリンカーで来賓が多数来山し、従業員やその家族、来賓が神社の前に参列し式典を行い、その後は宴会や芸人の演芸、夜の映画上映となった。図M-11の写真は昭和28(1953)~同29年頃の山神祭のときの写真である。図M-4(2016年7月26日 宮田又鉱山③)にある宿泊所・職員寮を背景に撮影されたものである。
山神祭の余韻もまだ残る頃に春の運動会が開かれ、8月末か9月には二十日盆<46>で、広場には櫓が組まれ、盆踊りとなり、最後は仮装による踊りが競われ、賑やかな盆踊りであった。盆踊りの音楽は炭坑節が繰り返されていた。それが過ぎると秋期運動会があり、職場対抗野球大会も開催された。これら以外には青年会による遠足やクリスマスダンスパーティー、演芸なども催され、組合による慰安旅行や海水浴へのレクレーションなど、多くの行事・娯楽が行われていた。しかし、鉱況が厳しくなると、スキー大会や春期運動会などに会社の後援はなくなっていった。
年末・正月三が日 社宅の中で臼は6~7個しかないので餅搗きは長屋ごとに順番に行う。正月を迎えて職員・鉱員が全員山神社に集まって参拝をする。鉱山の慣習で、元日には年始の挨拶を兼ねて主任級の家を訪問して酒や料理を御馳走になる。1軒で終わることはなく次から次への流れ歩く。各家でも誰彼の区別なく招き入れ正月を祝う。昭和33年(1958)まではこのような三が日であったが、同34年には山神社への参拝は全員揃うことなく自由参拝となった。各家への年始廻りも行われなくなってきた。希望者のみが集まって参拝をし、職員は合宿所で新年会を行い、同37年には職員総数22名の6割での親睦会となり、同38年になると神社参拝は更に減った。これは一つにテレビが同35年前後から普及しはじめ、正月には外で飲み歩かずに自宅でテレビを見ながら過ごす人が多くなったこと、二つ目に同時期から鉱況が悪化し始め、鉱山を去る人が多くなってきたことにある。
生活全般 『鉱山桜』に寄稿した人たちはかつて宮田又鉱山で働いていた人、当時の教師、児童たちなどである。50年ほど前の鉱山生活を振り返れば、苦労を忘れて美化し懐かしむ心情はあろうが、総括すると、鉱山生活はおおむね次のようなものである。すなわち、「天杉で囲まれた山紫水明なるこぢんまりしたとした、明るく住みよい鉱山町で」「人事抗争や役員の威圧もなく、鉱山の人々は貧しいながらみな親戚同志のようなつき合い」だった。「危険が隣り合わせの仕事で、いつかは閉山を迎えるしかないという鉱山生活の不安を外には絶対に現さない強い気質で、地縁、血縁を大事にし、生活は慎ましくとも気質や性格は底抜けに明るく、普段の暮らしは皆親戚のような繋がりをもち」、「四軒長屋の家族ぐるみのふれあい、助け合い」で「皆一つの家族との思いで過ごしていた」。
これらは宮田又鉱山だからということではなく、他の金属鉱山にも共通する。例えば、別子銅山の坑内労働者103名に行った「鉱山労働者調査」(昭和61年9月実施)から得られた鉱山生活研究に次の記述がある<47>。
やまの社宅生活は「特別状態」で「一般社会から隔絶した一つの社会」を形成し、日本のいずこにもないという。「東平(とうなる)全体が一家族のような」気持ちで、また、「一つの長屋は一家族の暮らし」、正月前の長屋ごとの共同餅搗き、隣近所の人が「親兄弟以上に」、「家族のようなもの」として感じられた。そこでの生活は、米麦、味噌の貸し借り、御飯やおかずの貸し借り、珍しいものの贈答、それに家族ぐるみの夕食、春は花見、秋は川刈り松茸刈り、旅行なども記憶に残っている。それに人情が深く、助け合いの精神が豊かで。「長屋生活の体験者でなければ得られぬ点」であった。
宮田又鉱山と同じ内容である。
テレビの普及が始まるまでは、娯楽は家庭外に求められ、様々な行事が開催されていて、労働も生活も学校も鉱山という共同体の中で営まれ、必然的に一つの家のような一体感が生じた。テレビが普及して娯楽の時間が各家庭の中に存在するようになるまでは、鉱山という一括りの中で開催される娯楽行事は、鉱山生活者にとって人間関係の潤滑剤であり、また結合剤であった。
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<42> 註2『宮田又鉱山思い出文集〝鉱山桜〟』85頁。
<43> 日本人文科学会『近代鉱工業の地域社会と展開』(東京大学出版会、1955年)59-60頁
<44> 全日本金属鉱山労働組合連合会編『全鉱20年史』(労働旬報社、1967年)1016頁。
<45> 「直利」とは品位の高い鉱石のことを指す鉱山言葉。
<46> 陰暦7月20日のお盆。
<47> 松本道晴「鉱山労働者の生活史」(庶民生活史研究会編『同時代人の生活史』未来社、1989年)222頁。
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