川崎茂の鉱山集落に関する研究(『日本の鉱山集落』)によれば宮田又鉱山は「近代的鉱山集落」に分類され、「空間的孤立性(国有林)」を有する、「単独企業共同社会」の集落で、構造的には「地域外」となる<48>。そして、その総体的衰退様相は「衰退カーブが急」に分類される。まさしく宮田又鉱山は川崎の考察にあてはまって閉山し、急激にその集落は消滅した。
告知と村の広報 昭和40年(1965)に入ると鉱山の存続をめぐって会社(新鉱発)側と労働組合側の団体交渉が重ねられたが、存続は不可能となって、9月に入ったある日の夕方に本社から閉山の連絡があり、閉山する旨の放送が山内のスピーカーで全山に流された。地元紙には7月・8月と閉山の記事が載せられている<49>。事前に閉山を覚悟してはいても、鉱山から直接に告知され、改めて現実のものとなってしまい、「休山が決まった午後3時ころ」「サイレンの音が響くとともに人びとが家を飛び出して泣いた」のである。
協和村役場からの広報には、閉山については何も「広報」されていない。広報から閉山をうかがえるのは、結核間接撮影の実施結果の記事であり、宮田又の対象人員70人に対し、受診者数や実施率には「-」と書かれて数字が記載されていないことにある<50>。
閉山して半年後の広報を見ると、「昨年〔昭和40年(1965)〕の9月15日現在で調整した基本選挙人名簿」が「12月20日の選挙管理委員会で確定」したとある<51>。そこには、宮田又部落の投票区の有権者数は「男51名、女60名、計111名」とある。半年前の閉山時には確かにこの人数の選挙人はいたのだが、その事実が村の広報に載せられて配布されたとき、鉱山では(後処理の5人を除いて)誰もその広報を見ることはなかった。広報の記載内容に半年のずれがあり、そのずれが宮田又鉱山集落の急激な消滅を象徴している。
離山 閉山が決まってから僅か3ヶ月後の12月20日までに、後処理や残務整理のための5人を除き、全員退山することとなった。その5人も翌年11月に山を下りることなり、宮田又鉱山は住む人のいない地となった。元々地元に根を下ろし、鉱山に労働力を提供していた人たちは地元に新たな仕事を見つけることになるが、他所から来て鉱山に職を求めた人たちは新たな地に移ることになる。鉱山勤務をやめて県内の都市や近隣の地<52>、あるいは県外に新たな仕事を求めるもいれば、新鉱発の鉱山(高旭、天生、野田玉川など)へ配置転換する人など様々であり、一つの社宅地域に居住した人たちは離散した。中には、閉山を契機にパラグアイ・イグアスへ移住した人もいた<53>。
鉱床がなくなれば鉱山はなくなる。宮田又鉱山はもともと国有林の地であり、鉱業以外には経済的な機能が発達する可能性のない土地であった。したがって、鉱床が枯渇すればその地は急激に消滅するのは必然であった。
近隣への影響 「協和村にとっては宮田又鉱山の閉山によって鉱山税、固定資産税(年間納入費110万円)の大口財産を失うことになるわけで、『宮田又鉱山住宅』によってうるおってきた商店や作業員も多かっただけに地元へのショックは大きい」<54>のであった。それはそうであろうが、そのショックの大きさは長期的ではない。なぜなら、宮田又鉱山の集落は消滅したが、隣接する集落は存続したのである<55>。
鉱山は唐突に表れる自然の破壊者であって、長期にわたって自然と融合しながら生活の場を築き上げてきた農村地域とは基本的に相容れられず、労働の需給でしか関係を保てない。鉱山が求めるものは安価で安定的な労働力であり、農村が受け取るのは労働の報酬として得る現金収入と、鉱山が設備するサービスである。鉱山がなくなれば農村はもとの鉱山のなかった時点に戻ろうとするだけである。鉱山と農村地域は隣接していようが互いに融合する関係性にはなく、閉山によりその農村地域へ影響は及ぼすが長期的なものではない。まして、宮田又鉱山は林の中にあり、隣接する集落とは2.5km離れており、日常的な交流はなかった。その隣接する徳瀬集落はいまも存続し、そこには宮田又鉱山入口の看板が立っている(図M-12)。
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<48>
single-enterprise
Community を単独企業共同社会、foreign を地域外とした。
<49>
「宮田又鉱山が閉山 鉱石不足、能率も低下 すでに30人が配置転換」『秋田魁新報』昭和40年7月18日朝刊:3頁1-4段。
註25に同じ。
<50>
「40年度結核間接撮影終わる」『広報きょうわ』(協和村役場)第88号昭和40年9月15日:4頁 http://daisen.in.arena.ne.jp/daisen/koho/M/ky/kyowa0088-0004.jpg
。
<51> 「基本選挙人名簿確定」『広報きょうわ』(協和村役場)第95号昭和41年3月15日:2頁 http://daisen.in.arena.ne.jp/daisen/koho/M/ky/kyowa0095-0002.jpg。
<52> 閉山によって協和町内で定住する例がある。それは、協和町峰吉川の地主で運送業や製材業を営む一族より就業の機会を得て、その地に定住した人たちである。
斎藤實則ほか「JR奥羽南線(四ツ小屋~院内間)の駅前集落ー飯詰・後三年・峰吉川の例―」『季刊地理学』(東北地理学会『季刊地理学』第50巻第1号)60-61頁。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tga1992/50/1/50_1_58/_pdf。
<53> 「南米で第二の人生をめざす一家」『あきた』(秋田県広報協会)昭和41年(1966年)6月1日第5巻6号(通巻49号)62頁3-4段 http://common3.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/049/pdf/049_062.pdf
。
<54>
註25に同じ。
<55>
昭和45年(1970)に協和町は過疎指定となっている。同46年より、集落再編成事業が行われ、宮田又鉱山と密接な関係にあった荒川鉱山集落は集団移転している。
註5『協和町史』下巻:257-259頁。
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