横田地域での通学区は広く、図Y-4(「奥会津横田鉱山③」に掲載)に見る〈横田〉地区が横田小学校の通学区であり、遠隔地の山入地区には分校があった。大滝地区は大塩小学校の通学区であった。横田生活圏の範囲が横田中学校である。遠隔地は冬期の三月から一二月の四ヶ月間わたって寄宿制を取っていた<32>。
以前に書いた秋田県宮田又鉱山のように、地理的に閉じられた鉱山集落では、小学校に通う児童はすべてが鉱山関係者の家庭にある。しかし、横田鉱山の社宅に住む児童が小学校の中で占める割合は、昭和36年(1961)の6年生58人中5人でしかない。
昭和24年(1949)から同25年に生まれ、横田小学校・横田中学校に通っていた4人-すなわち私(筆者)と同級生―に横田鉱山全般について振り返ってもらった<33>。現在会津若松に居住する男性一人と、金山町在住の男性三人である。以下、その内容をまとめて記す。
鉄道と鉱山は地元に視野の広がりと、世の中を意識する世界を広げた。鉱山による刺戟があって、その刺戟は鉄道開通でなおさらに拍車がかかった。一つに貨幣経済の意識を植え付けた。給与をもらうことは金を稼げることであって、現金収入が主体の生活になる。それまでは農村であったところは日常の生活での感謝は野菜などを黙ってその家に置いていくような形で配慮しながら表していたのだが、それが薄らいでいくようになっていた。中学校校長として昭和村に赴任したとき、純粋な農村の昭和村では黙って家の玄関に野菜が置いてあったりして、かつての鉱山が来る前の横田や土倉(つちくら)にあった世界を思い出した。もちろん、鉱山は経済的に地域を潤しもした。ヒロセ商店では酒は売れるし、テレビなんかも鉱山ができたために早く浸透したのではないかと思う。鉱山がなければテレビの普及は5年ぐらい遅れたんではないかと思う。
働くことと遊ぶことの区別を知った。百姓の家では学校が休みだと家の田圃の手伝いをする。親は川口の役場に勤めていたが休日は百姓仕事をやる。しかし、鉱山の連中は、休日には野球をやったりして遊んでいる。羨ましかった。地元の人間も鉱山に勤めると野球などのチームに入って休みの日は家を手伝わないで野球をやって遊ぶ。休むことと働くことが区分けされて、それまでと違ってきた。
階級社会を目の当たりに見た。下の社宅、上の社宅、上の長屋(10戸建3棟の社宅)があって、住むところの社宅の区分、社宅の程度の差などを見ていて、社宅というかたまりの中に階級というか格差社会を感じた。
農家では家庭内の全員が労働力となり、自らの土地で農産物の生産に関わる。しかし、鉱山社宅に居住する婦人や子供たちは生産的労働には従事しない。戦後の農村集落は制度的階級をもたず、長年にわたって築き上げられてきた地域的性格を濃くもっている。しかし、鉱山生活者は階層によって区別された社宅に住み、出世によって社宅を移り住み、日常生活は現金を媒介にしている。農村集落で生活してきた人びとの生活様式と、給料・社宅が基底にある鉱山生活者の生活様式は異なっていて当然である。その違いの具体例を上の言葉に読み取ることができる。
鉱山には優秀な人間が多い。会津若松に進学する中学生が増えたと思っているし、学校の成績や勉強への刺戟になった。一人か二人の優秀な人間で、さらに若松に下宿させるだけの経済的余裕のある家庭はそれまでにも進学はさせていたが、鉱山ができてからは多少無理してでも若松にやるようになってきた。農家のかたわら、町役場に勤める父親は月給が3万7、8千円なのに、子供3人、さらには妹も含めて4人も若松や福島に下宿させて進学させた。それは鉱山の女子中学生が優秀で、会津女子高校に進学したことが結構刺戟になった。何せ学年ダントツのトップでしかも女子だったし、それが鉱山の者だったから。 オレたちは部落に住む連中を「山中(やまなか)てー」<34>とか「横田てー」とかと呼ぶことがあった。それは「山中の住民は」、「横田の連中は」と部落に住む人たちをまとめて言うんだが、時にはそれに軽侮するような気持ちを込めることもあった。しかし、鉱山社宅に住む人たちへはそのような意味での「鉱山てー」という言葉は使わなかった。どこかでオレたちとは違うという気持ちがあるし、学校の成績のいい人たちが鉱山にいたからだろう。
横田鉱山と言うと、ニ人しか思い出せない。ニ人とも、学業は賢いと思っていたが、それ以外は、地元の子と異なるというイメージはなかった。社宅に行ったことはあるが、特に印象というか記憶は残っていない。それは私の住んでいた越川は、小さいときから、東北電力の社宅があり、また、母親が本名(ほんな)の電力関連に勤めていた為、身近に社宅を見ていたために違和感がなかったのかと思う。とにかく二人は頭が良かった。
小学校の時、鉱山の松本とよく遊んだオレの父親は郵便局に勤めていたから、農家ではないし、かえって鉱山の子と遊ぶことが多かった。
小学生・中学生であった時代を振り返るので学校の成績にふれるのはごく自然なことである。そこで最初に出てくる言葉は、鉱山の子は優秀であったとするものである。鉱山の子どもすべてが優秀ではないのであるが、優秀な人間が鉱山の子であって、その成績が際立つと、「鉱山の子は優秀」と典型化してしまう。それは、鉱山という枠組みの中で鉱山社宅生活者を見ているからである。鉱山以外の部落の子が優秀であっても「その部落の子は優秀」という言い方はしていない。
横田の中学生の進学先はほぼ二分されて、会津若松にある高校か、金山町川口地区にある高校を選択するかである。下宿の費用負担が重くとも会津若松の高校に進学する刺戟を、鉱山生活者は子どもにも親にも与えた。会津若松に進学してから時折地元に帰ってくることは、都市の空気を帯びて帰ってくることであり、子供たちにとっては格好いいことであった。
鉱山の子どもが概して優秀と言われる理由は既に「宮田又鉱山」にて述べた。これは宮田又鉱山であろうと横田鉱山であろうと鉱山生活者に共通する。鉱山社会は階級社会=学歴社会の側面を強く持っている。よって子供に学歴を与えようとする。また、親からすればいずれ鉱山を退職する。給料生活以外に生産手段をもたない鉱山労働者は子どもに老後の生活を部分的にであっても委ねることになり、不安定な鉱山生活とは異なる安定企業への就職を希望することになる。それが教育熱心な態度へと反映する。
横田鉱山は町の活性化を図った。商店の繁盛にも繋がった。父親が横田鉱山で働いていた。閉山まで働いた。田代鉱山が簡単に潰れたのは痛かった。働くところがなくなってしまった。田代鉱山に雇って貰おうと思っていたら簡単に潰れてしまった。ボーリング会社に勤めて、田代鉱山のボーリングをやったことがある。鉱山には悪いイメージは全く持っていない。かえっていいイメージしかない。働く場所を提供したし、町は活性化するし、映画会はやって貰えるし、いいことしか出てこない。ボーリング会社に勤めていたとき、鯛生鉱山(大分県)、平瀬鉱山(岐阜県)でも働いたことがある。釈迦内鉱山(秋田県)にも行ったことがある。横田鉱山があったからこそ何の抵抗もなく鉱山で働くようになっていた。3Kのようなイメージはない。炭砿は酷いと思うけれど<35>、鉱山には、まして横田鉱山には全く負のイメージは持っていない。潰れたのが残念だった。
金山町には産業が少なく、鉱山の閉山は就業機会をなくすために大きな衝撃であった。鉱山生活者にとっても閉山は大きな痛手となるが、周辺の人びとや金山町にとってもその影響は大きかった。また、鉱山関連の仕事に就くと、働く場所は全国に及ぶことが上の言葉で判る。
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<32> 「冬の中学校寄宿舎」『広報かねやま』(金山町)第75号昭和46年(1971)2月7日:1頁。
<33> ヒアリングは平成26年(2014)5月30-31日。およびその後の電子メール、電話での追加確認である。
ヒアリング対象者の氏名は省く。ヒアリングを試みたのは更に2名いるが、得られる情報はほかになかった。
<34> 「てー」とは「人達・若いてー(若い人達)」の意。
金山町教育委員会『金山の民俗』(金山町、1985年)753頁。
<35> 「降伏前、日本の金属および非金属鉱山の労働者は悲惨な状態にあった。その職務は炭坑夫ほど危険なものではなかったものの、組合幹部の封建的家来や既得権益とほとんど変わりはなかった」(斜体は筆者)。
一般的に炭砿の労働条件は金属鉱山より劣悪であったことがわかる。
竹前栄治ほか編『GHQ日本占領史第44巻 不燃鉱業の復興』日本図書センター、1998年)81頁。
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