横田鉱山は横田地区<13>に位置し、図Y-4(「奥会津横田鉱山③」に掲載)、図Y-5に示されるように、既存の集落の中に割り込むように広がりを見せている。既述した宮田又鉱山は山間の何もない場所に既存集落から離れて島のように成立したが、横田鉱山は既存の集落の中にできた。只見川の対岸側には、異なる経営のもとにある田代鉱山が位置していた。この鉱山については後述する。
図Y-6に示すように、横田鉱山は、会津横田駅の山側に選鉱所などの鉱山設備が建設され、その近傍に堆積場や沈澱池(シックナー)が配置された。これらの鉱山設備から旧国鉄の線路を境として、二つの社宅群が位置している。図Y-6(2)は只見川の対岸から見た全景であり、操業開始から間近い昭和34~35年(1959~60)頃と思われる。
以上のように横田鉱山の特徴の一つは、鉱山設備と社宅が非常に隣接していることである。社宅から平地を数百メートル歩けば鉱山設備一帯に入れるのであった。そして二つめは、社宅は既存集落の農村民有地の上にあったことである。田畑を耕す人のすぐ目の前に鉱山と鉱山社宅があった。
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<13>
「地区」の定義は一定ではなく三つに使い分けられている。図Y-4を参照して「横田地区」を例にすると、①末端部落地区を指す場合、②末端部落地区を集合して呼称する場合(山入地区・横田地区・上横田地区等を括る場合で、ここでは〈横田〉地区とした)、③横田生活圏を意味する場合である。金山町役場が発行する『広報かねやま』では末端部落を指す場合に地区と呼ぶことが多いが、明治22年(1889)の村名の括りで旧横田村地域を指すことも見受けられる。
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