秋田県小坂鉱山のように大規模な鉱山は事業形態を変遷させながら継続し、町は長年にわたって培われた鉱山文化の記憶を継承・活用し未来へつなごうとしている。しかし金山町の横田鉱山や田代鉱山は記憶が薄れる一方でもはや鉱山の記憶すらないようである。実体として残っているのは、現在不通となっている只見線会津横田駅近くに「鉱山第二踏切」の標識があり、かつて横田鉱山があったことを微かに思い出させてくれるようである。
図Y-11は昭和34年(1959年)頃の横田鉱山選鉱所であり、図Y-12は同57年の選鉱所廃墟正面からの撮影である(8mm撮影から切り出したため粗い絵となっている)。図Y-13は平成26年(2014)5月に、図Y-11とほぼ同じ場所から同方向に撮影した写真である。山の上に立つ木々の姿が55年経っても似ているように見えるのは私の思い入れの強さのせいであろうか。
平成26年(2014)の5月、偶然にかつての小中学校の同級生に会うことができた。たまたま横田小学校で「横田大運動会」が催されており、そこに立ち寄った。子供と一緒にいた30代の女性に尋ねたところ、横田小学校の運動会であるのだが全校生徒12名しかいないので、住民を含めた地区全体の運動会としているとのこと。その女性に私もここの卒業生ですよと口に出し、話の中で、昔横田鉱山があったときに住んでいて今は誰も知る人もいないと言ったら生年を聞かれ、それに答えたら旦那さん経由で一人の同級生を紹介してくれた。何と中学卒業以来の再会で、更に女性一人と男性3人の同級生がいた。幾つかの偶然が重なって彼らと再開することができた。
いろいろ話をしていると還暦を迎えたときに東山温泉で33人が集まって還暦祝いを実施したらしい。行方知らずになっている私の所には案内が来るはずもなかったのであるが、参加できなかったことに寂しい、やるせない気持になった。海外在住の人や、地元を離れている人たちは、横田に住んでいる親兄弟などに住所を確認し連絡をしたらしいのであるが、デラシネの鉱山生活者には地元に残っている人もおらず、確認のしようもないのが現実である。
その後還暦の祝いでの集合写真や同級生の住所録を送ってもらった。写真ではすぐに分かる人もいれば名前をみても全く覚えのない人もいた。住所録には横田中学校の昭和39年(1964)度卒業生95人のうち80人が載っていた。横田鉱山社宅に住んでいた者は4人いたのであるが、私も含めて4人とも名前すら記されていなかった。
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