2017年5月29日月曜日

足尾銅山から伊香保/榛名湖

 27-28日と高校同窓会が伊香保で開催され、27日は自宅から足尾銅山経由で伊香保に向かった。
 足尾銅山は以前より行きたかった処で、今回やっとそれを実現できた。春日部の自宅を出てから久喜ICで東北自動車道に入り、栃木ICで降りるようにナビを設定した。栃木経由は遠回りになるがこれはわたらせ渓谷線沿いの道路を往復しないためであった。しかし、ナビは佐野で降りよとルート変更を求めてきて、先ずはそれを拒否すると次は岩舟JCTで降りよと要求してくる。一般道での渋滞でもあるのかと勘違いして結局は岩舟でおりてからナビを再設定し、県道15号に入ってくねくねした山道を上り下りし、12時少し過ぎに足尾銅山観光の駐車場に車を止めたところでKoYoから電話が入る。「今どこにいる?」「足尾にいる」「俺も足尾にいる」ということで、数百メートルしか離れておらずすぐに合流。
 足尾歴史観に入り、ボランティアの女性の名札の姓をみて「もしかしたら会津に関わりのある方ですか」と尋ねたら「嫁いできたところが会津から流れてきた家」だと仰る。下の名前はオレの息子の嫁さん、およびKoYoの息子の嫁さんと同じ漢字の名前であり、会話が続いて退館するまで一緒にいて、足尾銅山に関する本を著している人たちのことや歴史の話しなどが続いた。
 ISaをピックアップするKoYoは渋川駅に向かい、オレは本山抗から小滝抗を結ぶ県道を走った。この日は山道ばかり走っている。今回の足尾銅山訪問には碌に下調べもせずに昔の写真や本からくるイメージを勝手に作り上げてしまっていたため、結論からいってしまえば期待はずれとなってしまった。歴史観の展示内容は充実していないし、本山抗-小滝抗-通洞抗のルートに残されている鉱山跡は少ない。製錬所は橋の上から眺め、選鉱所は立ち入り禁止となっているし、シックナーも見ることはできなかった。足尾銅山のみならず、鉱山に関することは書物に求める方が理解は深まる。多分この思いはこれからも変わらないであろう(でも別子銅山には行ってみたい)。
 わたらせ渓谷線沿いからナビに従って走り、伊香保のホテルに到着したのが16時少し過ぎ。車がかなり汚れていた。そしてこの夜は痛飲。 

 11年ぶりとなる榛名湖に向かい、仲間とともにロープウェイで榛名山山頂から遠くを眺め、あとはTaHiと二人で榛名湖を一周し、春日部駅に向かってちんたらと車を走らせた。
 (6/4追記)榛名湖の世界遺産の「富岡製糸場」に寄ったことを忘れていた。それだけつまらなかったということ。世界遺産登録の影響は大きくこの日は観光客が多い。しかし、世界遺産には懐疑的な気持を抱いている。石見銀山も数年経ったら観光客はもとに戻ってきたらしい。  

2017年5月7日日曜日

白滝鉱山と大川村

55日の朝日新聞に、村議会廃止を検討する高知県大川村の記事が載っていた。四国山地のほぼ中央に位置する大川村は離島以外で最小の人口の村であるそうで、単に人口が減っている村の記事であろうと読み流しそうになったが、「鉱山閉鎖などで急速に過疎化が進み」の文章で視線が止まった。ここにある鉱山とは、以前、鉱山の記事や論文をネットで探して読んでいたときに見つけた「白滝鉱山」のことではないか、と記憶の隅に引っかかった。

大川村は、20161031日現在、男199人女207人合計406228世帯の愛媛県に接する小さな村で、高知駅から大川村役場までは車両道路で約50kmの距離にあり、さらに約7km弱を山間部に入ると白滝鉱山の地域になる(高知県土佐郡大川村朝谷)。そこは四国山地のほぼ中央であり、深山幽谷の言葉が相応しい山あいにある。鉱山の設備も生活の場も山の傾斜にしがみつくように建っている。四国山地を越えて約42km進めばかの有名な旧別子銅山東平(とうなる)地区である。また、伊予三島駅(現四国中央市)とは地図上の直線距離で約20kmである。

白滝鉱山は近くにある別子銅山と比べると累計産出量ではその約1/10であり、ためにあまり知られない小鉱山と言われるが、戦後には600人近くの従業員がおり、昭和401965)年には粗鉱出荷量は133ktを記録している。私が生活した秋田県/宮田又鉱山・奥会津/横田鉱山からみれば決して小さくはなく、大きな鉱山であったといえる。白滝鉱山は昭和471972)年3月に閉山する-奇しくも横田鉱山も同年同月に閉山した。
閉山の理由はほぼどこもかしかも同じようなものである。①赤字、②鉱脈の枯渇、③深部の鉱脈による採掘環境の悪化と投資費用の増大化、④貿易環境変化による安価な輸入鉱石の増加等である。

さて、冒頭の新聞においては鉱山閉鎖による急激な過疎化とあり、それはもちろん全国どこでも鉱山が閉山すれば人口が減る。賃金労働の場が消滅し、鉱山労働者は村を離れるのである。しかし、そもそも白滝鉱山と大川村の関係性は極めて希薄なものであった。この希薄性が白滝鉱山の特徴でもあった。このことが鉱山について文献を調べていたときに、遠く四国の鉱山であるにも関わらず私の記憶に残っていた理由である。
宮田又鉱山は(ブログで記したように)協和村の中で鉱山集落として存在したが、生活必需物資は協和村・大曲市・秋田市などから入っていたし、横田鉱山は金山町の中で存在し得た。しかし、白滝村は高知県大川村ではなく、愛媛県伊予三島との結びつきが強かった。

白滝鉱山の鉱石は高知県ではなく愛媛県伊予三島(現四国中央市)に運ばれた。四国山地を越えて架空索道が約21kmに渡って設備され(索道建設以前は人力)、鉱石は瀬戸内海側に運ばれ、船舶輸送により大分県佐賀関製錬所(ここでも久原鉱業で出てくる)で精錬された。山地に張られた索道は2箇所の起動所(城師山・小川山岩鍋)で運転された。三島に向かうときは鉱石を運び、帰りは鉱山生活者の生活必需物資などが運ばれた。すなわち、鉱山生活は大川村に向き合わずに済まされた。山に沿う架空索道の写真を見るとなかなかに壮観である。
農業・林業を主体にする村に鉱山が稼行すれば生活必需物資の需給や文化面で村は影響を受けるが、大川村ではそれが極端に少なかった。また、別子銅山でもそうであったが、鉱山労働者は四国内の他県、あるいは四国外からの移動者が殆どであり、大川村出身の鉱山従業員は極めて稀であり、白滝鉱山の集落と他の集落との交流は極めて少なかったとされている。農林業集落社会と鉱山集落社会の生活は混じり合うことが少ないけれど、白滝鉱山の場合は極端であった。それを象徴するのが架空索道であった。それは土佐湾に向かわずに、四国山地を越えて愛媛県に伸びていたことである。

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以下を参考にした。
<1> 谷脇雅文「白滝鉱山が地域にもたらしたもの」(日本金属学会『まてりあ』第45巻第4号、2006年)
<2>  松本通晴「鉱山労働者の生活史調査」(ソシオロジ編集委員会『ソシオロジ』第102号、社会学研究会、1988年)
<3> 「白滝鉱山」でウェブ上検索できるブログや調査も参考にした。
例えば「90 白滝鉱山について」、「赤石山系と石鎚・四国中央山系の歴史探訪」。