2017年5月7日日曜日

白滝鉱山と大川村

55日の朝日新聞に、村議会廃止を検討する高知県大川村の記事が載っていた。四国山地のほぼ中央に位置する大川村は離島以外で最小の人口の村であるそうで、単に人口が減っている村の記事であろうと読み流しそうになったが、「鉱山閉鎖などで急速に過疎化が進み」の文章で視線が止まった。ここにある鉱山とは、以前、鉱山の記事や論文をネットで探して読んでいたときに見つけた「白滝鉱山」のことではないか、と記憶の隅に引っかかった。

大川村は、20161031日現在、男199人女207人合計406228世帯の愛媛県に接する小さな村で、高知駅から大川村役場までは車両道路で約50kmの距離にあり、さらに約7km弱を山間部に入ると白滝鉱山の地域になる(高知県土佐郡大川村朝谷)。そこは四国山地のほぼ中央であり、深山幽谷の言葉が相応しい山あいにある。鉱山の設備も生活の場も山の傾斜にしがみつくように建っている。四国山地を越えて約42km進めばかの有名な旧別子銅山東平(とうなる)地区である。また、伊予三島駅(現四国中央市)とは地図上の直線距離で約20kmである。

白滝鉱山は近くにある別子銅山と比べると累計産出量ではその約1/10であり、ためにあまり知られない小鉱山と言われるが、戦後には600人近くの従業員がおり、昭和401965)年には粗鉱出荷量は133ktを記録している。私が生活した秋田県/宮田又鉱山・奥会津/横田鉱山からみれば決して小さくはなく、大きな鉱山であったといえる。白滝鉱山は昭和471972)年3月に閉山する-奇しくも横田鉱山も同年同月に閉山した。
閉山の理由はほぼどこもかしかも同じようなものである。①赤字、②鉱脈の枯渇、③深部の鉱脈による採掘環境の悪化と投資費用の増大化、④貿易環境変化による安価な輸入鉱石の増加等である。

さて、冒頭の新聞においては鉱山閉鎖による急激な過疎化とあり、それはもちろん全国どこでも鉱山が閉山すれば人口が減る。賃金労働の場が消滅し、鉱山労働者は村を離れるのである。しかし、そもそも白滝鉱山と大川村の関係性は極めて希薄なものであった。この希薄性が白滝鉱山の特徴でもあった。このことが鉱山について文献を調べていたときに、遠く四国の鉱山であるにも関わらず私の記憶に残っていた理由である。
宮田又鉱山は(ブログで記したように)協和村の中で鉱山集落として存在したが、生活必需物資は協和村・大曲市・秋田市などから入っていたし、横田鉱山は金山町の中で存在し得た。しかし、白滝村は高知県大川村ではなく、愛媛県伊予三島との結びつきが強かった。

白滝鉱山の鉱石は高知県ではなく愛媛県伊予三島(現四国中央市)に運ばれた。四国山地を越えて架空索道が約21kmに渡って設備され(索道建設以前は人力)、鉱石は瀬戸内海側に運ばれ、船舶輸送により大分県佐賀関製錬所(ここでも久原鉱業で出てくる)で精錬された。山地に張られた索道は2箇所の起動所(城師山・小川山岩鍋)で運転された。三島に向かうときは鉱石を運び、帰りは鉱山生活者の生活必需物資などが運ばれた。すなわち、鉱山生活は大川村に向き合わずに済まされた。山に沿う架空索道の写真を見るとなかなかに壮観である。
農業・林業を主体にする村に鉱山が稼行すれば生活必需物資の需給や文化面で村は影響を受けるが、大川村ではそれが極端に少なかった。また、別子銅山でもそうであったが、鉱山労働者は四国内の他県、あるいは四国外からの移動者が殆どであり、大川村出身の鉱山従業員は極めて稀であり、白滝鉱山の集落と他の集落との交流は極めて少なかったとされている。農林業集落社会と鉱山集落社会の生活は混じり合うことが少ないけれど、白滝鉱山の場合は極端であった。それを象徴するのが架空索道であった。それは土佐湾に向かわずに、四国山地を越えて愛媛県に伸びていたことである。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
以下を参考にした。
<1> 谷脇雅文「白滝鉱山が地域にもたらしたもの」(日本金属学会『まてりあ』第45巻第4号、2006年)
<2>  松本通晴「鉱山労働者の生活史調査」(ソシオロジ編集委員会『ソシオロジ』第102号、社会学研究会、1988年)
<3> 「白滝鉱山」でウェブ上検索できるブログや調査も参考にした。
例えば「90 白滝鉱山について」、「赤石山系と石鎚・四国中央山系の歴史探訪」。

0 件のコメント: