2016年6月30日木曜日

鉱山への思い

 私の鉱山社宅生活は昭和28年(1953)頃の秋田県宮田又鉱山からはじまった。小学校2年の昭和32年秋からは福島県金山町横田鉱山の社宅にて生活をし、高校進学と同時に社宅から離れて下宿生活となったが、父が離山する昭和44年までのあいだ、年に何度かの帰省先は横田鉱山であった。都合約16年間にわたる幼少年期の生活の中心は鉱山の地にあったが、いまその地を訪れてもかつての生活に繋がるものはほとんど残っていない。

 年齢を重ね、過去を振り返ると改めて故郷の喪失感を覚えてくる。鉱山生活者は根無し草であり、流れ者という意味を思い知らされることとなる。離山して両親が移り住む地は私にとっては馴染みのない地であり、たとえ親戚がその土地にいるにしても彼らと共有した時間がないので所詮よそ者の感は払拭できない。小学校から過ごした地、特に横田の地には愛着が湧き、懐かしむことが多い。そしてある時期から横田鉱山で過ごした時間を大事に抱き続けていたいという思いが強くなった。

 会社を退いてから編入した某大学の通信教育にて歴史を学ぶようになり、特段の目的もないままに大学図書館で『金山町史』下巻(金山町、1976年)に目を通した。その中で描かれている横田鉱山関係の記述内容の薄さや短さは私にとっては衝撃だった。それは次のようなものであった。すなわち、「町の基幹産業として発展することは危ぶまれてい」て、横田鉱山は閉山し、続けて田代鉱山も閉山し、他には三更鉱山も開発されたことがあったが、「すでに閉山になっているので」町史では「これら鉱山の過去における操業のあとをたどるにとどめる」とし、横田鉱山については(他の鉱山についても似たり寄ったりだが)僅か1,100強の文字数で記述されているだけである。町の人々が鉱山をどう捉えていたのか、人々との関わり合いや、町への影響などは記されておらず、経営の変遷と鉱物の種類や出鉱量などが無機的に述べられているにとどまっている。また、出典も明らかにされておらず、その地に実際に暮らした自分と照らし合わせると落胆した。

 前述した宮田又鉱山については核となる郷土史家の貢献が大きく、この鉱山に関する刊行物は豊富であり、町史でも詳述され、鉱山の市営民俗資料展示館も設けられている。一方、横田鉱山を主軸とする刊行物は、写真を中心に据えた『横田の思いで』(鷲山義雄、自家版100部限定、1996年)だけである。
 宮田又鉱山で過ごしたのは4歳頃から小学校2年までであり、時と場所を一緒にした友人どころか知人もまったくいない。記憶は薄れるばかりである。また、横田鉱山で働き生活の糧を得ていた人々はすでに高齢となり、既に鬼籍に入った人も多いと思われる。また、彼らの扶養のもとで小学校や中学校に通った子どもたちも既に50代後半から70代となっていよう。よって、横田鉱山について歴史や生活をまとめておかないと忘れ去られる日もそう遠くない。奥会津の鉱山に関しては資料の少なさも指摘されているが、無謀にも自分で横田鉱山史めいたものをまとめようとの衝動に駆り立てられた。

 私は鉱山史研究者でもなく、郷土史家でもない。幼少年期時に鉱山社宅で暮らしたに過ぎない。しかし、その年代であったからこそ、鉱山一般への愛着や鉱山への思いは人一倍強いと自負している。鉱山には鉱山固有の企業形態があり、生活文化や地理的特徴がある。そもそも鉱山とはどのようなものであるかの知識も浅い。また、現代では鉱山という言葉も歴史用語になってしまうのではないかと思うほど語られることは少ない。日本の鉱山の研究や博物館なので開催される鉱山展においては、時期的には近世中心、規模的には大規模鉱山が中心となっている。つまり、宮田又鉱山のように戦中戦後に稼行した中規模鉱山、横田鉱山のように戦後に稼行した小規模な鉱山は触れられることは非常に少ない。

 ここでのブログでは、大きく三つに分けて鉱山について記してゆきたい。一つは鉱山一般について、二つ目に宮田又鉱山について、最後に横田鉱山についてである。
 7年前に給与生活から離れ、いまは気儘な、毎日が日曜日の生活である。通信教育での卒論-評価は高くなかったが-をベースにしてもう一度鉱山についてまとめておきたい。