2022年10月21日金曜日

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (5) 渡り歩く坑夫

 鉱山で働く人たちの出生地は二つに大別できる。一つはよその地より移り来る人たちであり、もう一つはその地で生活していた人たちである。両者の比率は鉱山が位置する地理的条件によって異なる。鉱山が在村とかけ離れた地にあればほとんどの人がよそから移り来る人たちであるし、既存の村に鉱山が起こればその地は労働供給源となる。

 一般的に、鉱山は山間部僻地に多く存在しており労働力供給源より離れていること、また鉱山労働特有の技術・能力が求められるため、鉱山労働は移入する人たちで支えられている。鉱山経営側に立つ者を除けば、移り歩き働く人たちは、生地が山奥にあって働く場がない、長男でないために家督を継げない、貧乏である、そもそも職に就けない等々、移動することが必然的に運命づけられている階級の人たちである。一方、技術ある坑夫に師事し、自らの労働価値を高めることを求めて移り歩いた。又、閉山すればその地を去り新たな鉱山に働きの場を求めることが必然であった。新たに鉱山が開けば鉱山労働特有の技術・能力が求められ、その要求に応えるべく鉱山を渡り歩いた。渡り歩く坑夫は独身を原則としていた<1><2>。これは、熟練した技術を持った坑夫が一ヵ所に留まっていては、新しく発見された鉱山や増産が要請される旧鉱山の稼行に支障をきたすためであった。しかし、近代に入ってからは妻帯の制限はなくなった。

 鉱山が好調であればそこにとどまり、妻帯して代を重ねる人たちも出てくる。すなわち、坑夫には諸処の鉱山を渡り歩く者と、一箇所の鉱山に居住あるいは村に帰着することを望む者がいる。前者は渡坑夫(渡り金堀り)と称し、後者は自坑夫あるいは村方もの(村方金堀り)と呼んだ。渡は渡利/亙利と書かれることもある。<3>

 渡坑夫は生地との縁を切って鉱夫仲間に所属し、生涯を坑夫として生きる決心をした者である。渡坑夫の仲間組織があり、それに入るときは認知を受ける儀式があり、盃をかわすのであるが、それはそれまでの社会から断絶し鉱山社会に生きることを意味した。儀式は取立式と称し、頁を改めて詳述する。
 彼ら渡坑夫は流れ歩くことに誇りを持っており、村方ものを一段低く扱い、定住することを蔑んだ。渡坑夫は仲間組織の中で技術を磨き、新鉱山が発見されたときや増産要請のある鉱山に移動し、稼行の円滑化に貢献した。すなわち鉱山採鉱上の中核となる存在であった。

 近世においては、鉱山主の下で働く請負人が山師であり、その山師から一定の堀場を請負い、抱えている数人の坑夫(堀子)や手子を使って採鉱にあたる者が金名子(かなこ/金児)であった。すなわち金名子と堀子が鉱山経営においての実質的担い手であったと言える。
 山師を中心に坑夫は鉱山を渡り歩き、明治・大正期は鉱山経営とは無関係に、飯場頭を核とする組夫(下請け)と友子制度-後述-に基づく移動が特徴となり、大正中期あるいは昭和初期からは会社系統によって移動することが多くなった。<4>

-------------------------------------

<1>  独身すなわち妻帯しないという原則ではなく、妻帯しなくとも一人前の仕事を果たせねばならないという坑夫の心構えを示しているとも捉えられる。
近代では妻帯の規制はない(『足尾に生きたひとびと』村上安正、随想舎、1990年)

<2>  徳川時代の「山例五十三ヶ条」(23)に「山師は格別金堀師の儀妻女無之者にすべし」とある。 『本邦鉱業と金融』上野景明・三上徳三郎、丸善, 1918年、85-92頁)

<3>  以下、参考として記載しておく。
 「ニつの区分や呼び名は家康の命名によるとか、慶長十三年に家康が発布した「山例五十三ケ条」を地方に伝えるため渡り歩いた者が渡利坑夫となり、一定の地に居ついた者が自坑夫だという説もある。あるいはまた自坑夫の妻帯は自由だけれど、渡利坑夫はそれを許されないため諸山を渡り歩いたとか、自坑夫は地坑夫であって元来土着の者を意味するなど諸説入り乱れているのである」(高橋揆一郎 『友子』河出書房新社、1991年)

<4>  明治後期・大正初期の坑夫が3年以上一所に止まる割合はほぼ3割、またその調査とは別の文献においては1年間で約7割が移動し、更に、ある鉱山での平均在籍期間は半年であった。以上は、『労働者の遍歴と社会的連帯』(土井徹平、日本労働社会学年報第15号、2005年)に論じられている。

2022年10月12日水曜日

前々回の投稿に注記追加

 8月17日「青木葉鉱山、坑夫取立免状 (3) 青木葉鉱山の概要」に注記<4>を追加した。