2018年7月27日金曜日

奥会津横田にある二本木橋の歴史(2)

二本木橋のある会津横田は現国道252号線にあり、この道は旧街道で言えば伊北(いほう)街道である。伊北街道あるいは伊北道は一般的には馴染みがなさそうであるが、沼田街道(会津沼田街道)の一部といえば少しは分かりやすくなるし、ウェブ上で国土地理院の地図をみれば国道252号線には沼田街道の文字が確認できる。
沼田街道は群馬県沼田より会津若松を結び、江戸期、幕府直轄地である南山(みなみやま)御蔵入領を貫通する3本の街道がつなぎ合わされている。南から北に向かって上州街道-伊北街道-越後街道と結ばれる道である。伊北街道は気多宮(現会津坂下)から只見までの約16里である。気多宮から柳津までを柳津街道と呼んでいる場合もあり、その場合は柳津から只見までの約14里を伊北街道としている。
文献には会津田島や伊南(いな)から只見を通り六十里越・八十里越で魚沼や三条に抜ける道を越後裏街道と呼称する記事もあるが、新潟県津川から奥川-山都-喜多方-塩川を経由して若松に向かう道も越後裏街道とするものもあり紛らわしい。また、金山谷や伊北谷から若松に向かう場合は坂下通りや若松街道と呼ばれもした。以上は『会津の街道』に説明されていることで、一冊の本の中でも多様な呼称についてはきちんとは整理および説明されていない。

当初沼田街道は知っていても伊北街道の名が分からず、そもそも伊北はどこの地を指すのかも知らなかった。しかし、南会津の伊南村は知っていたのだからそれに隣接する地域が伊北であろうとはすぐに理解できたはずである。自分の貧困な想像力に落胆した次第。
現只見町地域がかつては伊北と呼ばれていたことにある。1952年までは伊北村であり後に只見村に改称され、現在に至っていっている。

田島から只見の間には駒止峠があり、旧伊北街道には駒啼瀬峠(現三島町)があった。駒(馬)も止まる峠、駒が啼かせられる峠と読めば、伊北街道の奥会津は峠を越えた山中奥深く、交通が不便であった地域であると容易に想像できるではないだろうか。

2018年7月26日木曜日

奥会津横田にある二本木橋の歴史(1)

横田鉱山社宅に住んでいた頃、近くには只見川が流れていて、そこに架かる二本木橋は私にとっては横田のランドマークのような存在だった。奥会津を車で走り横田を通過するときは必ず二本木橋の近くに立ち止まり、橋の上を歩き、少し距離をとっては写真を撮る。橋は小学生や中学の時の想い出が流れている場所である。水面が低くなっているときは川岸の岩まで降り、そのようなときは父親がときおり釣をやっていた。橋のすぐ近くには人びとが出入りする滝沢商店ヒロセが今もある。昭和30年代半ば頃と思うが、橋の上から幼女が落ちて死亡し、すぐ近くで駄菓子屋を営んでいた母親が泣き崩れた橋であり、秋田市から従姉妹が来たときは川幅の中心に立って写真を撮った橋である。

2011年に東日本大震災があり、原発の原子力事故があったその年の7月末に新潟・福島豪雨で金山町は大きな被害を受け、只見川の3箇所の橋が落ち、JR只見線の只見と川口間は不通になった。いまも線路は雑草に覆い被さっている。二本木橋も消失し、2年後には新たな橋が架けられた。橋が落ちる前年(2010年)、仮橋だった2013年夏、新二本木橋が完成した翌年2014年の春、さらにその翌年2015年の春と横田を訪れている。訪れる度に二本木橋周辺は変貌し、自分の思い出は希釈されていくようであった。
そのようななか、二本木橋の歴史を知ろうとして町史や郷土史を開いても何れも断片的で満足できないでいた。ならばと、自分なりに納得できるようにまとめようと思った。資料は手持ちの町史や郷土史、ウェブから集められる情報だけである。といってもそれ以外には何もないに等しい。
以下、何回かに分けて(脇道にそれながら)記載する。