2023年4月16日日曜日

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (8) 友子③

 ここでは共助・共済の一つである奉願帳について延べ、さらに友子の語源について記す。

奉願帳
坑夫が病気や怪我になって働くことができなくなってもいずれ治療して治れば一時的な休業となり、その期間は山中友子が面倒をすることもできる。しかし、重い疾患や身体的障害となればその山中だけで救済することは困難となる。その場合、その坑夫には奉願帳あるいは寄附帳を持たせて他の山の友子交際所を歴訪させて一宿一飯の便宜や寄附をあおぎ余生をおくることとなった。この奉願帳制度の期限はよく分かっていないが、明治20年後半には確立していたのではないかと村串は考えている。
奉願帳には2種類があり、一つはその願帳を所持する者が一人ではヤマを巡ることができないような重度の傷病となった場合に持たせる奉願帳を「送り奉願帳」と称し、訪れた先の箱元はそのヤマの友子の中で費用を負担して次に訪れる先まで送り届ける義務があった。一方、独力で鉱山をまわれる者に与えられる奉願帳は「平奉願帳」と呼ばれた。山を巡り巡れば奉願帳への記録記載が増えて紙数が尽き、訪れた先の交際所で紙を補充した。
寄附帳は、奉願帳に準じ、重い傷病ではあるが将来に回復が見込まれる者に与えられた。発行手続きや機能は奉願帳とほぼ同じであった。
すなわち、奉願帳制度は、その発行に視点を向ければ山中友子の交際が捉えられ、他山を訪れる者に視線を向ければ箱元交際が見える。

友子の語源
武田久義はいくつかの見解を紹介している。すなわち、①「抗夫は全で友人であり,親子の関係と同様である意」、②「親が子供の世話を見ると同断である所から,共に子供である意味」、③「『子』は労働関係における親方子方の”子”。『友』は,同質労働者としての意」であると。高橋揆一郎は②を推測している。
「友子」は1833(天保3)年(尾去沢鉱山)、江戸後期の古文書(会津/只見/餅井戸銅山)に「友子」が確認されている(村串)。

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参考文献は以下。
       - 村串仁三郎 『日本の鉱夫 -友子制度の歴史-』(世界書院、1998年) 
       - 高橋揆一郎 『友子』(河出書房新社、1991年)
       - 武田久義 『友子の一考察-保険類似機能を中心に-(2)』(桃山学院大学経済
      経営論集、35巻、2号、桃山学院大学経営学部、1993年)

「友子」に関する私(本ブログ著者)の記事は、村串の著作・論文を食い摘まんで抜き書きしているに等しい。
高橋揆一郎は、『伸予』で芥川賞作家となり、炭砿を舞台にした『友子』で新田次郎文学賞を受賞した小説家である。小説を参考文献に載せることは通常はありえないが、炭砿長屋(歌志内)に生れ、炭砿企業で働き、炭砿に密接に生活した著者の『友子』は現実の炭砿生活を濃く描いておることもあり、参考文献扱いとした。

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (7) 友子②

 「友子」の大きな特徴はその共助・共済制度にある。そのことを踏まえ、青木葉鉱山坑夫取立免状の内容に具体的に触れる前にその共助・共済制度の概要、友子交際について述べておく。

共助・共済
江戸期、地中で働く坑夫たちの多くは生れた地を離れ、家族とも離れ、身寄りや血縁関係のない者が多かった。厳しい環境下で日々の暮らしを送る彼らたちが互助的な関係を結び、地底数百尺の暗黒の中で働く坑夫たちは、流れ者が多く鉱山には身寄り・血縁者が少なかったろうが、そのような生活環境の中で互助的な仕組みを生じさせたであろう。「友子」の共助・共済活動は日本における社会保険や社会保障の源流をなすものであり、日本の中で独自に考えられ発展した制度であった。
また、坑夫の労働には技術が必要であり、技術には修練・伝授が不可避であり、そこには当然ながら徒弟制度も生れ、擬似的な血縁制度=鎚親制度も発達し発展し続けることとなる。 

鎚親制度は単純化すると親分子分の関係である。擬制的親子関係の中で子分が親分である鎚親から徒弟制度の弟子としての技術を伝授し、社会的教育を受け、弟子同士は擬制的兄弟であった。

救済の主眼は不幸の救済であるから葬式が大事な共済の中で最も大きな役割は葬式であった。親分が死亡した場合、各地の鉱山に点在する鉱山の子分に知らせ、葬儀を営み、墓を建立した。この慣行は友子の用語で「仏参」と呼ばれた。いつ頃から始まったのかは不明であるが江戸末期には弘まっていたと思われる。
近代に入ってからの記録であるが、交際している坑夫が病気や怪我で床に臥せた場合には見舞金や白米が見舞いとして集められ、疾病休業が長引いた場合は協議されて対処が決められ、死亡したときも白米や香花料が供納された。そして死亡から一年以内に名を刻んだ石碑が建てられて寺院に供養された。石碑の建立は子分、子分なき場合は舎弟、舎弟なき場合は取立の兄弟と定められていた。
仏参を怠る者は、生前の親分の恩に報いていない、坑夫としての道に悖るとみなされ要職から外され、場合によっては友子からの除名処分もあった。
仏参を済ませると山中友子から 「仏参証明書」が交付され、義務を果たしていることの証となった。

一般的に坑夫(坑内夫)は短命であった。典型的な病はいわゆる気絶えや珪肺(ヨロケ)であり、江戸期には40歳まで生きることがまれであった。無論それ以外にも落盤・転落・出水・坑内火災・爆発・等々多岐にわたる。坑夫が死亡し取り残された女や子を救う手段も講じられた。独身の若い坑夫との再婚を斡旋することもあれば、惨事によって多勢の坑夫が死亡すれば残された家族に籤引きで若い坑夫をあてがうこともあったようである。若い独身の坑夫が突然に大年増の女の夫になったり、あるいは年の離れた若い女の夫になったり、あるいは突然に子持ちになったりする。これもまた形を変えた共助・共済であろう。独身の坑夫が拒否すれば山を追われることにもなった。 

友子交際
友子の活動は「交際」である。団体・組合・仲間・友愛などの意味を含む「交際」である。この友子の交際には3つのパターンがあった。①山中交際、②箱元交際、③浪客(浪人)交際>である。それぞれの交際内容と目的は以下。
    山中交際:友子組織は一山に一つであり山中交際はそのヤマの中だけの交際である。徒弟制度を基底において坑夫の技能養成(修行)を行い、友子への取立をし、相互の扶助活動を行った。
    箱元交際:他の友子組織や、自組織以外の友子坑夫を対象とする活動である。隣のヤマの友子取立式に代表を送り送られる、隣山との交際である。後述する「奉願帳」あるいは「寄附帳」所持者に対して行う他のヤマとの間の救済活動を意味する。
    浪客(浪人)交際:失業して浪人となった坑夫あるいは客人が来山したときに就職の斡旋、一宿一飯のほどこし、草履銭の支給などを行う。

交際所と称されるところに友子の事務所がおかれ、通常は友子の最高責任者がつめていた。他のヤマから来山する場合、先ずはこの交際所を訪れて仁義をきることが最初のステップであった。

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主要参考文献は以下。
    - 村串仁三郎 『日本の鉱夫 -友子制度の歴史-』(世界書院、1998年)
     - 渡辺和男 『院内銀山史』(無明舎、2009年)
     - 高橋揆一郎 『友子』(河出書房新社、1991年)
     - 『松原日出子_現代社会における福祉と共同 友子制度の現代的意味』、2020年)
     - 村串仁三郎『日本の伝統的労使関係-友子制度史の研究』(世界書院、1989年)
     - 村串仁三郎「日本鉱山業の確立過程における友子制度の考察」(2)~(5)
   『経済志林』53-54巻(法政大学経済学部学会、1985-1986年)
   法政大学学術機関リポジトリにて閲覧可。