2016年8月2日火曜日

宮田又鉱山⑩ - 学校生活(2)

児童の評価と鉱山の関与 宮田又の小中学校の児童や生徒たちはどのように見られていたのであろうか。当時の児童・生徒として宮田又鉱山社宅に生活していた人たちは、運動会の部落対抗リレーでは常に宮田又が優勝していたと『鉱山桜』に寄稿している。また、鉱山外に住む人たちは、宮田又小学校の同級生に競争意識を持っていたが、いつも宮田又組が勝っていた。運動会で1位になるのは、峠を越える往復の通学で鍛えられた宮田又の生徒が多かったと語っている。当時の中学校教師の記憶によれば、朝日中学校大盛分校の女子バレーボールは力があり、他の学区からの越境入学者もいたとのことである。
学力においても宮田又鉱山の児童・生徒は農村の子どもよりも水準が高く、上位にあり、高校への進学率も周囲の中学校に比して高かったといわれている。
朝日中学校大盛分校の生徒は年数回本校との交流会に臨むのであるが、徳瀬の様な小さな集落に暮らす者と違って、宮田又は大きな集落での生活のせいか、交流会でも気後れすることなく伸び伸びしていた。服装も礼儀も良く、言葉遣いも丁寧で都会的であった。これは、年2回秋田市からきて展示販売をする呉服問屋が、宮田又の奥さん方の服装は秋田市より派手であると語っていることと繋がる。宮田又鉱山は各地に鉱山を有する新鉱発の中心的鉱山であり、本社や関東・関西からの異動者がおり、秋田市や近隣農村にはない生活文化を身に宿った人たちが移転してきたのである。
  「昭和31年度宮田又小学校計経営概要」では次のように観察している<36>
〔前略〕〔鉱山の〕上層部の有識者は学校に関心を持つも、土着民でないだけに愛郷心、愛校心といったものが薄い感がある〔中略〕〔児童は〕学力の面では優秀児もおるが優劣の差が甚だしい。服装<37>、礼儀はかなりよく出来ており言葉もわりに丁寧である。/身体的に見ると、著しく身長に欠け、一般にガッチリしたところがない。/働くことはあまり好まない。/個人的で社会性に欠くるところがある/〔後略〕 
鉱山の上層部は新鉱発内の各事業所から宮田又へ赴任して来るのであり、宮田又から他の事業所や東京本社への異動もある。彼らに愛郷心や愛校心が薄いのは当然なことである。また、鉱山労働者の学歴は多様で、給料にも格差がある。それらが児童の学力差などに繋がっていると思われる。
上記の観察は結果のみ記述されており、観察者に関する情報は不明である。一方、1年ほどのずれはあるが、昭和32年(1957)頃に教育委員会指導主事が宮田又小学校を訪れた報告がある。要点を引用する<38>
〔前略〕辺地でありながら子供の学習活動はなかなか旺盛であり、学力も高いように思われた。私も要請によって授業してみたが始めての教師に対して何ら臆するところもなく共通語で堂々と応えたことには驚いた。どの学級もなかなか充実した学習が行われていた。/子供の教育に熱心な父兄達/学習活動の旺盛な原因については学校側の熱心な努力の賜であることは論をまたないのであるが、父兄の教育に対する関心の高いことも重要で、わずか80名の子供の父兄には北は北海道から南は九州の範囲にまたがり、父兄の学歴も小学校から中高大学のすべてにひろがっている。これらの父兄達は子ども達の将来の生活のためには皆上級学校へ進学させることを考えており、為に子供の教育には極めて熱心であることである。学級のための設備教具参考書等にも金を惜しまず出していることもそのあらわれである。このようなことは子ども達の学習意欲を高める原因になっているのである。こゝに私は農山村の父兄の方々の教育観と近代産業人の教育観との相違があって面白いと思った。〔後略〕
父兄の教育への熱心さが強調され、報告者は「広範囲な地より移転してきた鉱山生活者は、父兄の学歴も高低さまざまで、鉱山であるがゆえに教育熱心である」と捉えている。
同様の内容を斎藤實則も指摘している<39>
義務教育の小・中学校は周辺の農山村のそれに比較して進学率も高く、文化・運動クラブ活動が盛んで、総合的にみてその水準が高い。それらを支えるものとして、鉱業関係従業員の子弟と、教育財政・設備に恵まれていることなどが指摘される。
  「鉱業関係従業員の子弟」であることがなぜ水準の高さを支えるのか、斎藤は掘り下げてはいない。私は次のように考える。
鉱山労働者は、長男ではなく、働く場がないことなどの理由で生地を離れる。採鉱夫に代表されるように、特段の技術・能力がなくとも比較的高い収入が得られ、同時に事故に直結する労働に従事している。抗外労働者であっても、厳しい坑内労働を日常的に見る環境に身をおいている。鉱山はいつか閉山を迎え、人びとは、その地で一生を終えることはなく、いずれどこかに居住地を移すことは認識している。また、鉱山社会は鉱山生活者によって構成される階級社会である。住宅も階級によって区分けされ、居住社宅にも差は生じる。このような状況下で生活する労働者は高い階級を望み、あるいは鉱山社会からの脱却を求める。そして、いずれは働かない時を迎えることとなる。土地という生産の場を持たない鉱山労働者は、生活の安定確保を子どもたちへ期待することで埋めようとする。そのためには学歴を得ることであり、教育熱心の姿勢へと繋がる。
「〔宮田又〕鉱山は、学校への財政的援助を積極的に行い、同鉱山における教育は鉱山・学校・地域三者の一体化が徹底し、多彩な営みがみられ、活気あふれる鉱山町としての特徴をもっていた」<40>。その一方で、「宮田又小学校は他の鉱山町と同じく鉱山の影響を強く受けた。財政的援助、鉱山の教師に対する人事支配、学校教育と社会教育の連携と、旧荒川鉱山と同じく鉱山ならではの学校教育に対する干渉と多彩な社会教育活動が見られた」<41>
前者は肯定的であり、後者はネガティブな側面がある。しかし、小学校は鉱山地域内にあり、児童の父兄は全員が鉱山関係者であることを考えれば、結局は、鉱山・学校・地域は、“宮田又鉱山”という共通な言葉で強く結束されていたということにすぎない。

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<36> 1宮田又鉱山誌』95頁。
<37> 昭和の初めから同14-15年にかけて、秋田県の児童の服装が和服中心から洋服中心へと転換した時期があり、「大盛尋常高等小学校と峰吉川尋常高等小学校の昭和2年~18年までの服装の変遷」が調査されている。それによれば「鉱山町の児童が農村部に比べ洋服着用が早く、また女子より男子にその傾向が強かった。
5『協和町史』下巻:231-232頁。
<38> 吉沢正太郎「辺地の学校 3、宮田又小学校」(石川哲三編『教育秋田』第103号、秋田県教育委員会、1958年)14頁。
<39> 30『鉱山と鉱山集落❘秋田県の鉱山と集落の栄枯盛衰❘』33頁。
<40> 5『協和町史』下巻:88頁。
<41> 1『宮田又鉱山誌』92頁。

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