只見川を挟み、横田鉱山の対岸850mに田代鉱山があった。横田鉱山が閉山となった後、金山町はこの田代鉱山に多大な期待を寄せることとなる。横田鉱山と田代鉱山が並立する昭和44年(1969)頃からは「黒鉱の町金山」への思いが膨らんだ。田代鉱山は、操業開始に向けて総従業員のうち76名を地元から採用することを予定した<43>。そして、会津線(現只見線)会津大塩駅付近の一帯に選鉱所、社宅55戸、独身寮1戸、物品販売所を建築した<44>(図Y-9)。これら鉱山設備は採鉱地域からは約800mの距離にあった。
田代鉱山の沿革
天保年間(1830~1843)に発見され、明治38年(1905)に久原鉱業の経営となったが、鉱石の運搬交通の不便さなどで休山となり、昭和13年(1938)日本鉱業下で手堀が開始された。探鉱・試錐を続けたが戦争で中断し、同30年探鉱・試錐が再開された。同36年に田代鉱床(図Y-9(0)の高盛・俎倉・志保沢)から約2kmの位置に大塩鉱床を発見し、同42年に日本鉱業株式会社より高玉鉱山株式会社が鉱業権を譲り受け、同46年に操業開始となった<45>。
鉱山への期待と落胆
大塩地区には月産1万トンの選鉱所が完成し、過疎化に悩む金山町にとって「黒鉱」は未来を切り開くものであった。しかし横田鉱山が休山し、昭和46年(1971)から同47年にかけては人口の減少に拍車がかかった。田代鉱山への町の期待は膨らみ、3カ年にわたり、総事業費2,500万円を投資して田代鉱山の専用道路ともいうべき町道を完成させ、自動車による祝賀パレードも行うほどであった<46>。
そのような期待をひっくり返すように、田代鉱山は昭和48年(1973)8月、急激に町に休山を通告した。僅か2年8ヶ月での休山であった。従業員86人のうち63人が町内出身者であり、横田鉱山に続く田代鉱山の休山は地元民にとっては「鉱山はもうこりごりだ、ドー(銅)にもならない」<47>という気持ちであった。
横田鉱山と田代鉱山の社宅はそれぞれ上横田地区と大塩地区にあった。『広報かねやま』より集計した各地区の世帯数変化を図Y-10に示す。鉱山の閉山時期に合わせて世帯が大きく減少している。
既存の集落に暮らす人たちと鉱山生活者の両者が溶け込んで新しい風土を作るには長い年月が必要であるが、横田鉱山は開発開始から17年であっさりと姿を消し、それに代わる期待を集めた田代鉱山は操業開始後わずか3年足らずで姿を消した。
他所から移ってきた鉱山社宅生活者は再び他の土地へ移動し、鉱山がなくなった集落は長年にわたってその残骸を眺め続けることになった。
鉱山に雇用機会の創出を願う町は、鉱山経営の内実に対しては鉱山側から説明を受けるしかない。従って、休山の告知は急激に知らされることとなる。集落の中に操業する鉱山とその集落との関係性は、一時的な操業期間における土地と労働力の需給の関係でしかない。過疎で悩む金山町はその関係性が強かった。だからこそ大きな期待と大きな落胆であった。
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<43> 「黒鉱開発急ピッチ」『広報かねやま』(金山町)第55号昭和44年(1969)3月7日:2頁1-4段。
<44> 『田代鉱山の概要』パンフレット(高玉鉱山株式会社田代鉱業所、1970年)東日本旅客鉄道会津川口駅所有。
<45> 註14『東北鉱山風土記』424頁。
註44『田代鉱山の概要』。
農商務省鉱山局『黒鉱鉱床調査報文-第2回』(農商務省鉱山局、1922年)72頁 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847345
。
栗山隆勝ほか「田代鉱山の開発について」(日本鉱業会『日本鉱業会誌』第88巻1011号、1972年)241-244頁 https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigentosozai1953/88/1011/88_1011_241/_pdf
。
松田芳典ほか「田代1万t/月選鉱工場の建設と操業について」(日本鉱業会『日本鉱業会誌』第89巻1022号、1973年)259-261頁 https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigentosozai1953/89/1022/89_1022_258/_pdf。
<46> 「田代鉱山の産業道開通」『広報かねやま』(金山町)第91号昭和47年(1972)6月7日:2頁。
<47> 「町政の窓」『広報かねやま』(金山町)第106号昭和48年(1973)9月13日:2頁6段。
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