2016年8月13日土曜日

奥会津横田鉱山③ - 金山町の成り立ち、交通

前回の「奥会津横田鉱山②」に載せた「図Y-2 金山町の人口と世帯数」をみると大きく二つの特徴が確認できる。一つは昭和35年(1960)頃まで人口は増加しつづけ、ピーク時は1万人を越えており、その後急激に減少していることである。これは金山町を流れる只見川―ダム銀座只見川と呼ばれたーの電源開発計画(只見特定地域総合開発計画)に基づいて昭和25年(1950)以降5カ所のダムが町内に建設され、その建設作業のために多くの人々の流入があったことが大きな要因である。ダム建設の終了とともに建設従事者は流出し、人口は急激に減った。横田鉱山(および田代鉱山)の操業と閉山による人口・世帯数の推移は後述する。
二つ目には人口の減少に比べて世帯数の減少が緩やかであることである。昭和35年の世帯数対人口の比率は5.49/戸であるが、平成22年では2.30/戸となっている。要は日本のどこにでも見られる核家族化であり、農村の過疎化である。ちなみに、金山町のホームページ(http://www.town.kaneyama.fukushima.jp/)によれば201671日現在の人口と世帯数はそれぞれ2,210人、1,100世帯である。世帯数対人口比率は2.01/戸とさらに低い数値である。

横田鉱山の記述の準備として、この金山町と成り立ちと集落、交通について概述しておく。

金山町の成り立ち
金山地域にはかつて23の村があり、明治22年(1889)年の市制町村制、昭和28年(1953)年の町村合併促進法を経て、同30年に金山村が発足し現在の金山町に至っている(図Y-3参照)<7>
多くの市町村にも見られるように、明治22年以前の村は現在の大字にあたり、金山町もほぼそのように住所が編成されている。現在の金山町は、同8年の村やその小字にあたる合計30箇所の地区が設定され、それぞれに地区長が立てられている<8>


金山町の集落構成
金山町は、尾瀬沼に源を発する只見川流域約30キロメートルに沿う町であり、只見川両側には標高600mから1,300mの急峻な山岳が連なっている。
金山町の生活圏は川口生活圏、横田生活圏の二つに分かれ<9>、それぞれの生活圏の中でさらに地区が細分化されている。図Y-4は金山町のほぼ全体を示し、只見川およびその支流の川沿いに集落が散在する。集落は昭和40年(1965)時点を示している。人口の減少や洪水などのために、現在では消滅した集落も数カ所ある。


交通
奥会津の人びと、特に金山町と只見町にとっては、会津若松から新潟県魚沼地方小出に繋がる鉄道開業は、大正年間からの強い希望であった。それはひとえに東京に繋がる交通が欲しかったのである。横田鉱山においては会津若松へ繋がる鉄道が鉱石運搬のうえで重要であった。
会津若松から会津坂下・会津柳津を経て会津宮下までは昭和16年(1941)に開業したが、そこから先の会津川口までの敷設工事は戦争で中断していた。一方、小出・大白川間は戦前に開業していた。会津宮下から金山地域・只見を経て大白川までの交通の便は道路しかなく、かなりの悪路であった。
会津宮下からの鉄道延伸が実現する契機になったのは国家レベルの只見川電源開発計画である。まず、昭和31年(1956)に会津川口まで開業され、その後会津川口から田子倉ダム建設現場までの、「田子倉発電所建設資材輸送専用線」が翌32年に開通した<10>
昭和34年(1959)の田子倉発電所完成で運搬専用線はその役割を終え、会津川口・只見間は紆余曲折を経て旧国鉄に編入された。開業したのは同38年のことである。
会津横田駅開業によって、ここから会津若松駅へは73.2km2時間半から3時間の乗車時間であった。冬期、会津若松・会津川口間は除雪され、列車運行に支障はなかった。一方、会津川口・只見間は、ラッセル車の除雪能力を超える積雪量になると運行休止となった。しかし、川口・只見間の道路は除雪され、車輌の通行は可能であった<11>
会津若松・小出間が全線開通したのは昭和46年(1971)のことであり<12>、それまでは只見線・只見中線・会津線と分かれていた名称が只見線に統一された。

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<7> 金山町史出版員会編『金山町史』下巻(金山町、1976年)354頁。
<8> 「新しい区長さんの顔ぶれ」『広報かねやま』(金山町)第44号昭和43年(1968430日:41-3段。
<9> 金山町役場は川口地区におかれ、唯一の出張所が横田地区にある。保育所は川口地区と横田地区にそれぞれに1箇所設けられている。
「学校統合や保養センター建設」『広報かねやま』(金山町)第102号昭和48年(1973520日:4頁。
<10> 一城楓汰『只見線敷設の歴史』(彩風社、2014年)。
      この本は、会津の人々の鉄道に対する熱い思い、幾つかにわたる鉄道ルート案、田中角栄の影響力等々只見線敷設の歴史が詳述されており、好著。会津-特に奥会津-に興味のある人には是非とも読んでいただきたい。
<11> 「国鉄について」『金山町公民館報』第14号昭和39年(1964131日:7頁。
平林武雄「横田鉱山の鉱床の内部構造とくに本山鉱床について」(資源地質学会『鉱山地質』第1676-77号、1966年)106-115頁 https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigenchishitsu1951/16/76-77/16_76-77_106/_pdf
「只見線43日ぶりで運転」『広報かねやま』第114号昭和49年(1974510日:3頁に次の内容の記事がある。
会津川口~只見間は昭和39年(1964)に83日間、同42年に54日間連続運休、同49年は3番目の記録で43日ぶりに421日に運転再開。間引運転も度々ある。
<12> 現在会津川口と只見間の鉄道は不通となっている。それは、平成23年(2011729日からの豪雨による只見川の増水・氾濫によって只見川の二つの橋梁が完全に流失し、現在に至るも復旧していないためである。マイクロバスによる片道167便の代行バスが運行されている。復旧には約85億円の費用と4年以上の工期を要すると見積もられており、金山町では復旧復興活動を行っているも、実現には大きな困難が横たわっている。私(このブログの筆者)自身、復旧の可能性はないと思っている。

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