2016年8月18日木曜日

奥会津横田鉱山⑥ - 鉱山社宅の生活

社宅 
横田鉱山は既存の集落内に突然に表れた鉱山であり、生活のための福利施設は周辺の集落内施設を利用し、鉱山が新たに設けた福利施設はごく限られている。

Y-7は昭和24年(1949)頃の横田地区である。同31年頃から選鉱所などの鉱山設備aが設備され、田や桑畑のあった平坦地が造成されてbcの社宅群が建てられた。併せて山側と幹線道路の間に田子倉発電所建設資材輸送専用線の線路(図示なし)が敷かれた。周辺の集落にとっては、同30年頃からの急激な変化であった。





社宅群の構成を図Y-8に示す。Aは役職宅で、Bは職長社宅、Cは職員社宅ですべて2戸建てであった。Dは平屋1戸建てで共同浴場管理人が居住し、EFは一般従業員でそれぞれ4戸建て、10戸建てである。Fはアパートとも呼ばれた。Dを除いてすべて2階建てであり、各戸とも外には物置が付設されていた。最初に建てられた社宅はCであり、昭和32年秋だった。翌年になり雪が溶けてから順次他の社宅や設備が建設された。
戸数(世帯数)を数えると、A2戸×2=4戸、B=2戸×5=10戸、C2戸×5=10戸、D=1戸×1=1戸、E4戸×2=8戸、F10戸×3=30戸。合計66戸(世帯)の社宅であった(*)
役職宅は1階がニ間、2階が一間で、この社宅のみに風呂が備え付けられていた。職長社宅・職員社宅は1階が一間で2階は二間、EF12階とも一間であった。社宅以外には独身寮と賄い付きの食堂があり、倶楽部もあった。
Y-8を見ると、社宅は既存農村集落のなかに分かれて存在しており、占有した面積も狭く、後述するように、鉱山が設けたサービス機能はほぼ社宅のみでほかにない。とすれば、「日本の鉱山の概要」で述べた川崎の鉱山集落の概念にはあてはまらなくなる。すなわち、横田鉱山の社宅群を一つの鉱山集落として括るのは不適切であり、単に2箇所の鉱山社宅地域と呼ぶのがふさわしいと考える。それだけ、横田鉱山の規模は小さかった。
 
福利施設
鉱山が鉱山本体設備以外に設けた施設は、共同浴場を含む社宅や独身寮、直営販売所でだけであり、あとは横田地区に既存する医院・理髪店・小中学校・郵便局などを利用すればよかった。直営販売所は現金扱いで、日用品の食糧を中心においてあり、酒類や電気製品などは近くにある商店から購入していた。
 昭和30年代前半に鉱山は水泳ぎのプールを作った。場所は図Y-8の購買前から左下に導かれる道路沿い(図の左下)であった。プールと称しても水は近くの用水路めいたところから引き込んだだけで透明度はなきに等しく、まさしく大きな水溜りといったものでほとんど利用されはしなかった(**)

娯楽 
金山町全体に映画館のような娯楽に特化した施設はない。操業直後、鉱山は散発的に映画会を催すこともあったが、それは鉱山社宅地域の野外広場で夜間に行われ、横田地域で行われる唯一の映画であった。
テレビの普及が始まったころ、横田地区の一般家庭にテレビが設置されることは少なく、最初は、滝沢医院が自宅を開放し、そこに多勢の児童が押しかけて見させてもらっていた。後には地域の公民館に設置されたテレビを見ていた。テレビが普及しても、電波は新潟県からのものであり、昭和42年(1967)にテレビ中継放送所が完成してようやく福島県内の放送を見ることができた。それまでは福島県知事を知らなくとも新潟県知事を知っているという状況だった。
山神祭は行われていたが、鉱山固有の山神社はなかったと考えている。なぜなら、横田鉱山社宅に暮らした私自身の記憶が全くないことにある。横田に移住する前の宮田又鉱山の山神社は覚えているのに、である。『横田の思いで』や『福島の鉱山』に神社の写真は掲載されているが、神社名も撮影年月も記されておらず、建造物の大きさからみても、それらは地元にあるムラの神社であると思われる。
鉱山内に弓道部が設立され、社宅地域内に弓道場を仮設し、一時的にはブームとなって活発に活動した。また、相撲の土俵も私が最初に居住した社宅の前にあった。野球チームも作られ、中学校の校庭などを利用して活発に活動していた。

事故・災害・疾病
鉱山に事故・珪肺はつきものであり、横田鉱山でも発生している。記録するにとどめる。
昭和40年(1965)墜落死亡、同44年鉱車とともに墜落し死亡、同年崩れた鉱石に引き込まれ埋没し死亡<30>
会津労働基準監督署管内の昭和29年以降同5531日現在における珪肺患者は4名が記載されている<31>。死亡者はいない。横田鉱山で発症しているが、珪肺はそれまでに勤務した鉱山の労働環境、坑内労働期間の積み重ねからの発症であり、稼行期間の短かった横田鉱山の労働環境に原因があるとはいえない。

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<30> 佐藤一男『会津の鉱山』(会津民衆史研究会、1984年)233頁。
関東東北鉱山保安監督部編『東北の鉱山保安100年を振り返って』(関東東北鉱山保安監督部、1992年)27頁、31頁。
前者には組夫の事故が記載されているが、後者にはない。後者は事故内容が詳しい。
<31> 30『会津の鉱山』273-274頁。













































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