2016年8月1日月曜日

宮田又鉱山⑨ - 一休み

既に述べたように私は昭和32年秋に宮田又を離れた。もっとも親しく、よく一緒に遊んだ友人とだけは小学校高学年まで年賀状のやりとりをしていた。高校時代の日記の住所録に二人の名前と住所を記している。一人は秋田市、一人は三陸村の住所であるがいずれにしても50年以上前のものである。
前回載せた写真の中で、名前を特定できるのは2人だけ(奥山繁俊・片山實)であり、あとはミナトルリコという名が記憶にあるがどの女の子かは判らない。
2年前に大仙市大盛館の方が昭和40年の中学校卒業生36名の名簿を送ってくださった。その中で知っているのは片山だけであり、奥山は既に物故者の中にあり、新たに畠山を思い出し、あとは誰一人として分からなかった。中学校は宮田又地域だけからの通学ではなく、また私の家族のように離山した人も多かったろうから、知っている人がほとんどいないのは当然のことである。

いろいろ調べているときに、偶然にも埼玉県某市某部長が定年年退職したときの挨拶文をウェブで見つけた。『鉱山桜』にも寄稿していることは後に知ったが、宮田又で生まれ、恐らく私より1歳ほど年長で13年間を宮田又で過ごしたと記してあった。父親と思える人の名前が『宮田又鉱山誌』に載っているが、その名字には記憶がない。
もしかしたら今の私の身近に当時の小学校同級生が暮らしているかもしれないと思いを巡らすが、確かめようもない。宮田又の思い出は誰とも共有せず(できず)に独りで懐かしむしかない。

宮田又のことはもう少し続け、その後福島県横田鉱山に移ろうと思う。両者について何かご存じの方がいらっしゃれば下記へのメールにて教えいただきたい。
akahac.toc@gmail.com

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