ここからやっと二本木橋が登場する。
横田と大塩の間に橋が架けられる契機になったのは一つの惨事からであった。二本木橋そのものの歴史はそこから始まり、現在に至っている。
天保4年(1833)から同10年まで東北に大飢饉が襲った。飢饉末期の天保10年6月(旧暦)、大塩にある宇奈多理神社に豊作祈願の意味も込めて芝居の奉納が催された。近隣の村々から人びとが境内に集まり、夜になり奉納が終わると横田方面の人びとは急ぎ足で帰途につき、船渡場に向かった。帰りを急ぐ人びとは船頭の制止も聞かずに舟に乗り込み、そして船は闇の夜の只見川に転覆してしまった。船頭を除く20名は皆川に流れ、後遺体となって発見された。
この惨事に心痛め、架橋の必要性を強く思った名主たちが奔走し、天保12年(1841)に初めての橋が架けられた。地名をとって二本木橋と名付けられた。これが二本木橋の初代である。長さ約42m、幅3m余、水面より約19mの高さの橋であった。翌年には橋のすぐ近くに「長橋碑」が建立され、この碑は大塩から土倉に向かう入口にいまも見られ、Googleにても確認できる。
国立公文書館デジタルアーカイブにて「天保国絵図 陸奥国(会津領)」を見ると横田村と大塩村の間に橋が架かっている。これが前記する初代の二本木橋かと思ったが、「天保国絵図」の完成は天保9年であり、前記天保12年の架橋と年代が合わない。惨事が天保10年に起きたとするならば絵図の橋のように見えるのは橋ではなくて渡舟の経路を示しているのであろうか。しかし、絵図上の別の箇所で橋が描かれていない箇所には「舟渡り川幅二拾五間」との文字が確認できて渡舟であることが分かる。二本木橋と思われるところには単に「川幅弐拾間」とあるからこれは絵の通り間違いなく橋である。天保12年完成の橋が、天保9年の絵図に描かれている、この矛盾が分からない。また、「土木図書館デジタルアーカイブス 橋梁史年表」にて二本木橋を検索すると、1839年12月開通の下部工形式とあって、長橋碑に書かれている(とされる)年代と合致しない。この二つの年代の違いが何故なのか分からない。長橋碑の現物確認もせず、インターネットから掴むことの出来る範囲で調べている限界なのかもしれない。
下図は上記の「天保国絵図 陸奥国(会津領)」を一部切り出したものである。
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