秋田県/宮田又鉱山や奥会津/横田鉱山を調べているなかで、横田鉱山近傍の田代鉱山についてもブログのなかで触れてきた。この鉱山についてはもう少し追加してメモしておこうと思う。
記述にあたってはほとんどを『黒鉱鉱床調査報文 第二回』<1>を参考としている。国会図書館からダウンロードしたpdfは文字の解像度が低く、また字画数の多い旧字もあり誤読している漢字があるかもしれないが、そこは想像力を働かせて読み解くこととする。
『黒鉱鉱床調査報文 第二回』の執筆者をめぐって
明治41年(1908)に『黒鉱鉱床調査報文 第一回』が、3年後の同44年に第二回が上梓されている。第一回・第二回を通して、黒鉱鉱山43鉱山が詳記され、秋田県の16鉱山に次いで会津の鉱山は7山が載っている。二つの報文は農商務省鉱山局技師の平林武が執筆しており、Wikipediaによると平林武は1872年生まれ(1935年歿)の鉱床学者で「黒鉱」を定義し、「黒鉱鉱床」の成因解明に端緒を開いたとある。鉱山に関する資料であるこの報文に「平林武」の名を目にしたときはすぐに「平林武雄」に結びついた。平林武雄は横田鉱山に勤務し、探鉱調査の報告を行っていた人物で、私(筆者)が両親とともに横田鉱山社宅に生活していたときその人は近隣の役職者社宅に住んでいた。専門とする職業や氏名から思うに、平林武と平林武雄は父子あるいは縁戚関係にあろうかと想像している。
鉱床探査と鉱石分析というような高度な専門技術職であったために平林は一般的な鉱山労働者からは一目置かれ、ためにやっかみのような気持ちも抱かれていたのではないかと思う。あくまでも私の空想めいたことである。平林さんを揶揄するように大人の人たちが喋っていた「たいらばやしかひらりんかいちはちじゅうのもーくもく」を耳にして以来その言葉はいまもって記憶に残っている。
田代鉱山の周辺
下図はGoogle Earthをキャプチャーし地名などを追記したものである。昭和35年(1960)以降の田代鉱山本山は左側の「田代鉱山(大塩)」の位置にあり、それ以前は右側の田代鉱山にあった。
Google
Earth の画像取得日は2015年10月15日となっており、明治41年からは108年が経っている。明治41年当時は只見川にかかる橋はなく、横田地区と大塩・土倉地区の間は舟渡しであった<2>。図中左側に見える橋は4度目の橋である。図で見る只見川は満々とした水の流れであるが、それは発電所のダムに堰き止められているからであり、ダムのない明治の頃、水面は下に落ちており只見川は渓谷の様相を示していた。よって舟渡しと言っても道路との間には上り下りがあり利用するには労苦があったと思われる。
田代集落を経て頂上まで登られる高森山は地元では田代山と呼ばれており、私が小学生の時には学校の行事で年に1回その頂上まで登っていた。尾根は狭く、うっかりすると転落するほど危険であったが、頂上から見下ろす奥会津の地は素晴らしかった。頂上を目指す途中の平地(田代集落地区)に人家を見たときは、こんな山の中に人が住んでいるのかと驚きを覚えたものである。現在その地には居住者はいない筈である。55年ぶりほどに再び山の頂上に立ってみたいものだが独りで出向く勇気がない。
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<1> 農商務省鉱山局『黒鉱鉱床調査報文 第ニ回』(農商務省鉱山局、1911年)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847345 。『黒鉱鉱床調査報文 第一回』も国立国会図書館デジタルコレクション にて閲覧およびダウンロード可能である。
2016年8月21日ブログ「奥会津横田鉱山⑨ - 田代鉱山、そして鉱山の終焉」の註記にて同文献の発行年を1922年と記入しているのは1911年の間違いだった。
<2> 『広報かねやま』(金山町)6月号[234号]昭和59年(1984)6月10日:1頁。
二本木橋の渡り初めの写真を指して、「この橋(二本木橋:筆者註)がかかったのは(中略)大正2年ごろではないかな。この橋がかかる前は西部や滝沢と同じように、舟渡しだった。(中略)今の(昭和59年当時:筆者註)橋は、三度目の橋で、国道にもなっているので、(後略)」。
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