友子制度
鉱山独特の組織に「山中友子」、あるいは単に「友子」の制度がある。“やまなかともこ”という女性のことではなく、“さんちゅうともこ”と読む。山中とはヤマ(鉱山)の中の意であり、鉱山の中にある友子という制度ということである。友子制度を一言で適切に言い表すのは困難であるが、文献等を総合すれば、友子とは鉱夫の非妻帯を前提に、同職組合で、鎚親性とも称する擬制的親子関係-親分.子分という親方制度-をとりながら技術伝承・熟鍊労働力の養成や社会教育、労働力の供給調整、構成員の老後や疾病時の相互共済、さらに鉱山内の生活.労働条件の維持改善など多様な機能を持っていた(1)。
生地から断絶し、終生鉱山に生きることを決め、血縁関係のなくなった坑夫が、親子兄弟関係を結び、親分は父、兄貴分は母代わりであった。友子への加入を「出生」、その儀式を「取立」と呼び、親分子分の固めの「結盃式」の後「出生免状」が与えられた。友子に加入した者は全国の鉱山で働くことができたが、友子の掟を破った者はどこの鉱山でも働くことは出来なかった。鉱山を渡る者は新たに訪れた鉱山での山中友子交際所の入口で仁義を切り、酒と食にあずかり、そこでの就職を希望しなければなにがしかの草履銭をもらって次の鉱山に向かって旅立った(2)。
友子は歴史的には江戸時代に成立したとされる。妻子を持つことを恥として諸鉱山を遍歴し、技術を磨き続けたが、家族を持たないがために病気や事故にあい、また、年をとると面倒を見てくれる人がいない。次第に擬制的親子関係(鎚親制度)を結ぶようになった。幕末に「友子」、近代には「友子」制度となり、近代化とともに変容し、明治末から大正初期にかけて最盛期に達し、第一次大戦中に殆ど消滅したが、擬制的鎚親性は敗戦まで継続した。ただ日立鉱山にだけは友子が戦後まで残り、やがて消滅した。
友子に加入するのは原則的に採鉱夫(金堀大工ともいう)、支柱夫(留大工ともいう)、それらの近くで働く手子(堀子)に限られた。それらの労働には技術が必要でありまた常に危険に直面していたからである。友子は一山を中心とするが全国鉱山を包括するネットワークである。経済的に困窮者を救済できない場合は地方まであるいは全国まで範囲を拡大し解決を図った。一方、友子にそぐわない者は除名し、回覧にて他鉱山に展開して坑夫としての道を断ち、共同体の秩序を維持した。友子に見られる非血縁的親族関係は鉱山の特殊性である。友子は東北方面において強力に団結していた。親分・兄分は子分・弟分の面倒を見る。一方、子分、弟分も親分・兄分の生活手助けを要請され、子分の最重要なことは親分の死後の墓石建立、供養の実施にあった。
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(1) 斎藤實則は「鉱山の開発と地域社会の展開-古河鉱業K.K. 院内銀山の場合」(『東北地理』第15巻第1号、1963年)18頁にて次のように断じている。
「当銀山においては東北の諸鉱山同様に友子制度・飯場制度があった。友子制度は鉱山労務者の変則的な相互連帯扶助組織である。共同救済の形をとりながらも実は完全なる搾取の組織である。このような友子制度が存続したことは日本の社会制度の弱さを物語るとともに,東北鉱山の後進性を示すものといえよう」。
搾取した側面も否定はできないが、院内銀山には友子の墓が多く存在すること、日清戦争に出征した坑夫たちの家族を鉱山の人間が救済したことなどから、斎藤が上記のように「完全なる搾取の組織」と断じることは適切ではない(参考:渡部和男『院内銀山史』無明舎、2009年)。また、「友子制度が存続したことは日本の社会制度の弱さを物語るとともに、東北鉱山の後進性を示す」と主張するがその論拠は示されていない。院内銀山の時代に「日本の社会制度の弱さ」を論じることは論理の飛躍であろうし、「東北鉱山の後進性」とするならば「他の地域の鉱山の先進性」を対比させなければ説得性はない。
(2) 松島静雄『友子の社会学的考察』(御茶の水書房、1978年)117-118頁。
仁義を切るシーンが紹介されており、かつての東映の任侠映画での仁義を切るシーンに類似しているまた、村上安正『足尾に生きたひとびと』(随想舎、1990年)30頁には昭和初期の友子の取立式の写真が掲載されている。羽織袴の親・兄の前に子分として取り立てられる若い者が視線を下にして並び、両者の前には盃が置かれ、盃事が行われている。これもまた任侠映画のシーンを彷彿させる。
トリヨーコム編『松尾の鉱山(復刻版)』(八幡平市教育委員会事務局、2012年)42頁には昭和初期の友子の総会の写真、友子交際所の写真が載っている。
「鉱山で働くと言うこと」(①~③)では以下も参考にした。
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鉱山の歴史を記録する市民の会『鉱山と市民 聞き語り日立鉱山の歴史』(日立市、1988年)511、563頁。
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松本通晴「鉱山労働者の生活史調査」(ソシオロジ編集委員会『ソシオロジ』第102号、社会学研究会、1988年)162頁。
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松本通晴「鉱山労働者の生活史」(庶民生活史研究会編『同時代人の生活史』未来社、1989年)。
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高田源造蔵『鉱夫の仕事』(無明舎、1990年)40頁。
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トリヨーコム編『松尾の鉱山(復刻版)』(八幡平市教育委員会事務局、2012年)94頁。
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桶谷繁雄『金属と日本人の歴史』(講談社学術文庫、2006年)165頁。
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日本人文科学会編『近代鉱工業と地域社会の展開』(東京大学出版会、1955年)49頁ほか。
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萩慎一郎『近世鉱山をささえた人びと』(山川出版社、2012年)。
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斎藤實則「秋田県の金属鉱山労働力に関する若干の考察」(経済地理学会『経済地理学年報』第15巻2号、1969年)。
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高橋勤『鉱山はかげろうの如く』(岩手日報社、1991年)。
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松島静雄「鑛山に見られる親分子分集團の特質」(日本社会学会『社会学評論』Vol.
1
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No. 1、1950年)。
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村串仁三郎『日本の伝統的労資関係 : 友子制度史の研究』(世界書院、1989年)。
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村串仁三郎『大正昭和期の鉱夫同職組合「友子」制度 : 続・日本の伝統的労資関係』(時潮社、2006年)。
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