2016年7月29日金曜日

宮田又鉱山⑥ - 開発の歴史(3) 新鉱業開発発足から閉山まで

敗戦の翌年昭和21年(1946)から企業整備を図ると共に従業員の約半数を整理し、翌22年には労働組合が結成された。同241月に鉱発は過度経済力集中排除法による指定が取り消され後発の解散は決定的となった。鉱発の解散整理と10鉱山を主体とする新鉱業開発株式会社(以下新鉱発)が同254月に発足し、荒川鉱山の名称にあった宮田又鉱山は新鉱発の主力鉱山として他の9鉱山と共に存続することとなった<24>







M-8に示す宮田又鉱山銅生産高の推移をみれば、昭和19年(1944)から終戦後の同22年では銅生産高は約10分の1に落ち込み、同24年頃から復調の徴しがうかがえる。同256月に勃発した朝鮮戦争で、特需と輸出の急増により鉱業生産がにわかに増大し、新鉱発の柱の一つであった宮田又鉱山の鉱況は概して良好に推移した。労働者数もまた増加し、施設が整備された同25年以降のピークは約250人(地区住民は800人)となった<25>。図M-7参照。
宮田又鉱山は森林軌道の利用によって鉱石を運搬したが、冬期は橇による運搬、あるいは蓄鉱したことは既に述べてきた。昭和22年(1947)には冬期の運搬容易化のため、宮田又鉱山から旧荒川鉱山へ1.7kmの索道を敷設し、叺あるいは南京袋に入れた精鉱をまずは旧荒川鉱山に運び、そこから境に運んだ。同34年からは元山から境までのトラック輸送も開始された<26>
戦後、銅の需要は急激に伸びたが、昭和31年(1956)になると銅地金の海外依存率も上昇し輸入量は急増した。戦後の経済復興期から目覚ましい発展期に転じた日本は欧米から貿易、為替の自由化を強く求められ、同35年以降、政府は自由化を推進する政策をとった。しかし、日本の鉱業の国際際競争力は弱かった<27>。結局は宮田又鉱山のみならず、日本の多くの鉱山が閉山への方向に突き進むことになった。
新鉱発の主柱であった宮田又鉱山の鉱況は昭和36年(1961)頃から急激に悪化した。新規鉱床探査の成果は上がらず、鉱量は減少し、品位の低下に加え、採掘の深部移行に伴って作業条件は悪化し、採算性は悪化していった。一部に比較的高品位の鉱脈を捕捉したが、小規模な鉱量では発展が期待できず、行き着く先は鉱山の宿命である閉山であった。同40831日のことであった。まさに「鉱山は時の経過とともに探鉱→起業→発展→繁栄→衰退と変遷<28>」したのであった。

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<24> 既掲『帝国鉱業開発株式会社社史』426。新鉱発の10鉱山は、野田玉川(岩手県)、柳沢(岩手県)、宮田又、高旭(たかひ)(山形県)、石川(福島県)、釜の沢(栃木県)、天生(あもう)(岐阜県)、第一多賀(京都府)、鯛生(たいお)(大分県)、大口(鹿児島県)である。
<25> 「宮田又鉱山、近く閉山」『秋田魁新報』1965820日金・朝刊:31-3段。
<26> 「宮田又産業開発道路会計検査終了」『広報きょうわPR』(協和村役場)第28号昭和3571日:1頁 http://daisen.in.arena.ne.jp/daisen/koho/M/ky/kyowa0028-0001.jpg
 「大型トラックも入り山林資源の輸送は一段と活発化される」とあり、トラック輸送を可能とする道路はあくまで林業のための産業道路であった。
<27> 石油天然ガス金属鉱物資源機構『銅ビジネスの歴史』(石油天然ガス・金属鉱物資源機構金属資源開発調査企画グループ、2006年)83-87頁。
<28> 丸井博「鉱業の地理学的研究」(人文地理学会『人文地理』第186号、1966年)81頁 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/18/6/18_6_643/_pdf

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