鉱山を渡り歩く
鉱山で働く人たちの出生地は二つに大別できる。一つはよその地より移り来る人たちであり、もう一つはその地で生活していた人たちである。両者の比率は鉱山が位置する地理的条件によって異なる。鉱山が在村とかけ離れた地にあればほとんどの人がよそから移り来る人たちであるし、既存の村に鉱山が起こればその地は労働供給源となり、そこの人々は現金収入を得るために鉱山で働くようになる。一般的には鉱山は山間部僻地に多く存在しており労働力供給源より離れていること、また鉱山労働特有の技術・能力が求められるため、鉱山労働は移入する人たちで支えられている。
鉱山経営側に立つ者を除けば、移入する人たちは、生地が山奥にあって働く場がない、長男でないために家督を継げない、貧乏である、そもそも職に就けない等々、移動することが必然的に運命づけられている階級の人たちである。鉱山が好調であればそこにとどまり、妻帯して代を重ねる人たちも出てくるが、一箇所にとどまらない社会集団もあった。すなわち、鉱夫には諸処の鉱山を渡り歩く者と、一箇所の鉱山に居住あるいは村に帰着することを望む者がいる。前者は渡り鉱夫(坑夫)あるいは渡り金堀りと称し、後者は自鉱夫(坑夫)あるいは村方もの(村方金堀り)と呼んだ(1)。渡り鉱夫(坑夫)は生地との縁を切って鉱夫仲間に所属し、生涯を鉱夫として生きる決心をした者である。渡り鉱夫の仲間組織に入るときは認知を受ける儀式があり、盃をかわすのであるが、それはそれまでの社会から断絶し鉱山社会に生きることを意味した。
渡り鉱夫は原則として独身者であったが近代に入ってからは妻帯の制限はなくなった。彼ら渡り鉱夫は流れ歩くことに誇りを持っており、村方ものを一段低く扱い、定住することを蔑んだ。渡り鉱夫は仲間組織の中で技術を磨き、新鉱山が発見されたときや増産要請のある鉱山に移動し、稼行の円滑化に貢献した。すなわち鉱山採鉱上の中核となる存在であった。
近世において、鉱夫は山師を中心に鉱山を渡り歩き、明治・大正期は鉱山経営とは無関係に、飯場頭を核とする組夫(下請け)と友子(ともこ)制度に基づく移動が特徴となり、大正中期あるいは昭和初期からは会社系統によって移動することが多くなった。
一方、渡り歩くということは地元から見ればどこの馬の骨か判らない余所者で疎んじる存在でもあった。地元の人たちが鉱山に入ればその余所者と同じ場所で働き、余所者に使われる身になり、それを嫌悪して地元の人たちは鉱山に入らないことにも繋がった。渡り鉱夫という余所者は地元の人たちとは基本的に相容れない存在でもあった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1) 文献によって「鉱夫」「坑夫」「金堀り」と異なって記述されており、どれがより適切な記述なのか筆者には判断がつかないので、「渡り鉱夫(坑夫)あるいは渡り金堀り」のように全てを包含して記した。渡りは「亙利」とする文献(松島静夫著書)もある。
0 件のコメント:
コメントを投稿