2016年7月22日金曜日

日鉱記念館、高取鉱山②

宿泊した鵜の岬から日鉱記念館までは約30分。6号線を右に折れると日立製作所やJX金属の工場、日立金属を右に見て坂道を上り、日鉱製錬所を通過し、かつての姿を想像をもさせない日立鉱山を左に見やって日鉱記念館に到着。開館時間の10時を少し過ぎた程度の時間であるし、そもそも鉱山の記念館を訪れる人はいないであろうから、この日の最初の訪問者と思っていたが、駐車場には1台だけ水戸ナンバーの車が駐まっていた。記念館は立派な建物であり、企業側の維持管理に基づいており入館料は無料。
案内所で名前や住所を書いて受付を済ませ、順路に従って館内を進む。最初に目に入るのは現JXまでの基礎を築いた久原房之助。久原は秋田県小坂銅山の藤田組から始まって1905(明治38)年に赤澤銅山を買収し、久原鉱業-日本産業-日本鉱業と続いた。現JXグループの系列にはないが、日立製作所を中核とする日立グループも起点は久原鉱業/日立鉱山の工作部門にある。
余談だが、日本産業は日産自動車へと繋がっており、私が北陸の某企業で工作機械設計を担当していた頃、日産自動車向けの工作機械でのモーターには日立のものを使うことが厳守されていた。
記念館の企業経営展開には興味がなく、簡略的に掲示されるかつての鉱山の写真を眺め歩く。最初に目を引くのは鉱山の鉱床および抗道の透視模型。地下深く複雑に張り巡らされた抗道の模型にはいつも感動する。尾去沢鉱山に行ったときもそうだし、まるで体内に巡らされた血管のように見える。この抗道の中を血流の如くに坑夫たちが竪坑から入り、歩き、上や横に鉱石を掘り、運び、そして地上にかえる。この透視模型は持ち帰りたいほどである。観光地化したところでは鉱石をアクセサリーにし、また鉱石を販売しているが(秋田大学鉱業博物館で購入した黒鉱を持っている)、この抗道透視模型を販売しているのは見たことがない-あっても一般には売れないだろうが、私なら少々高くとも買う-。

久原鉱業傘下の鉱山は日本全国に散在し、各地の鉱山で採石される鉱石が展示されている。その中に田代鉱山(福島県金山町)の黒鉱があり、おおっと思う。田代鉱山はかつて身近にあった短命な鉱山(別置の資料室には同鉱山の重晶石-黄銅鉱-も展示されていた)。各地の鉱山は地図上に示されており、田代鉱山と並んで軽井沢鉱山(福島県柳津町)もあった。
摸擬抗道は近代的な抗道で、例えば佐渡金山で見られるような悲惨さはない。鉱山の全景写真を見るといかに日立鉱山は大きな鉱山であったのかが分かる。かつての鉱山電車の映像も流され、活況であった昔の様子が、私は日立には無関係であったが懐かしく感じる。有名な日立の大煙突については鉱山が環境に取り組んだ経緯が示されている。JXグループの現況コーナーには全く興味なくただ通り過ぎただけ。
館外には旧久原本部、山神社(さんじんじゃ)、電気機関車、竪坑などを見学できる。機械設計の仕事に従事したせいであろう、資料室内の機械に身を乗り出す。巨大な巻揚機、ボールミル(小さなものしかなかった)、浮選機の写真、ROKU ROKU SYOTEN(碌々商店-現碌々産業)のプレートが打たれている海外(英国製だったヵ)の旋盤、コンプレッサーなどなど。圧巻なのは鑿岩機。重火器にも似たこの機械、ストーパー、ドリフター、ハンドハンマー、H式鑿岩機が中心に展示されている。国内製、海外製(アメリカやスウェーデン)などこれほどの多種多機を見たのははじめてのこと。手にとって見たいが多分その重さは我が身をよろけさせるであろう。これら鑿岩機の機能美に感じ入ってしまう。
これほどキチンとした鉱山記念館があることに感激した。日鉱=日本鉱業の時代は近代以降に限られているが、以前訪れた秋田大学鉱業博物館(正式には秋田大学大学院国際資源学研究科附属鉱業博物館)より充実していると思う部分が多かった。秋田大学の博物館は鉱業全般を扱い、日鉱記念館は日立鉱山という一鉱山が対象であるから差異は当然にあるのだが、近現代の鉱山という自分の関心に対しては日鉱博物館が充実していると思った。ただ、企業の施設であるからして、全体的に鉱山のダークな部分も経営側からの視点で捉えて所謂企業努力を前面に出し、鉱山生活の負の部分については無きに等しいのはもちろんである。見学者側はそれを心しておくべきであろう。受付に戻ったとき、簡単に入手できないであろう資料を3冊購入した(『日立鉱山史』-追補あり・『日立鉱山山神社物語』・『ある町の高い煙突』-新田次郎)

1時間少し経ってから駐車場に戻ったら、駐車場には自分の車を含めて3台に増えていた。私の車が中央にあり、その隣は私と同じ春日部ナンバーだった。

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