2016年7月30日土曜日

宮田又鉱山⑦ - 鉱山社宅の福利施設

主に『宮田又鉱山誌』と『鉱山桜』の2点を統合し、何回かに分けて宮田又での鉱山生活を概述する。因みに私の社宅生活は図M-4(“20160726 宮田又鉱山③に既掲)左下の(イ)がはじまりであり、暫くして(ロ)に移った。最初の(イ)では長屋の右端あるいは右端から2番目のところに住んだ記憶がある。流し(水道)は共同で線路側に設けられていた。朝になれば長屋から皆この共同の流しに来ては洗顔をしていた。トイレについてははっきりした記憶はなく、共同便所であった可能性が高い。(ロ)は2世帯続きの社宅で線路側に住んだ。いわばグレードアップしたわけで、ここには水道・トイレが付設されていた。
宮田又鉱山での福利施設の概況を以下に記す。なお、施設の分類は註記<29>に依った。

住居 敗戦直後鉱員は長屋に住み、4軒長屋や5軒長屋で水道もなく、畳もほとんどない状態であったが、昭和27年(1952)頃より2戸建てが新築され、同30年頃までには旧住宅もリフォームされて畳や建具も入り、水道も設備もされ、屋根も杉皮葺きからトタン葺きとなった。
私が記憶する上記(ロ)の社宅は二間の部屋と縁側、トイレ、流し(台所)、押し入れの二軒棟続き平屋建てであった。
  社宅の電気・水道は無料で、電熱器や電気器具の使用は許可されていなかったが、昭和33年(1958)になって希望者には各戸ごとにメーターを取り付けた上で使用許可となり、定量を超える分の電気料金を徴収するようになった。 閉山の年である同40年の社宅は合計117戸であった。
社宅以外には職員合宿所、鉱員合宿所、境寮がそれぞれ1棟あり、境寮は羽後境駅の前にあって、来客の接待や従業員・家族の旅行時の一時宿泊、従業員子弟の高校通学の寄宿舎として利用された。私も5歳頃に父とこの寮に宿泊したことがあり、雨の日に寮の窓から蝸牛を眺めていた記憶だけが妙に残っている。
保健・衛生 共同浴場があり、抗内より温泉を引き加熱していた。採鉱が深くなると熱水や高温で作業が困難になるのであるが、熱水はこのように利用もされていた。理髪店は鉱員の妻が営んでいた(夫である鉱員は坑内で落下して死亡した)。火葬場は境の旧荒川村役場近くにあった。
戦後まぢか、診療所には衛生管理人がおかれ、境の医師の指導のもと治療に当たり、週1回は境からの回診もあり、昭和31年(1956)からは週1回の歯科の出張診療も行われた。境から距離があり、宮田又地域に近い部落の人たちからは宮田又診療所は重宝がられた。病人は一応会社の医務室で衛生管理人が診て、症状が重い場合は境に運んだ。冬は箱橇で運んだ。
ここでも私事になるが、霜焼けになり右足甲を切り開くことになり、私は痛みで泣きながら「藪医者」と叫び、“医者”はどこでそう言っているのを聞いたのかと私に問い、母は気まずさで一杯だったと後日何度か聞かされた。『宮田又鉱山誌』をひもといて宮田又鉱山の医務室に常駐する人は医師ではなく衛生管理人であったらしいことを知り、「藪医者」を気に掛けた“医者”の気持が何となく分かったような気がした。
慰安・娯楽 宮田又鉱山には娯楽に特化した設備はなく、人が集まる設備としては小学校の講堂が利用された。
  祭祀 「鉱山地域では、鉱業施設の建設と同時に、必ず山神社(さんじんじゃ)が建立される。山神社は鉱山地域のシンボルであり、山神社の施設と山神祭(さんじんさい)の規模は、鉱業所の経営規模とほぼ一致する<30>」のであり、「昔からの言い伝えであるが、山中に社寺があればそこには必ず鉱山がある、とはいまでも言われている言葉<31>」であった。宮田又には「鉱山の安全を祈願するため大山祇大神が祀られる社殿」が宮田又小学校の正面に向かって左側に建てられていた。この場所は、抗口や選鉱所などがある鉱山区域の入口に近いところであり、やや高台であったためにこの場所が選ばれたと私は捉えている。社殿と言っても鉱山の規模を反映した小さなもので、「御神体は水晶や硫化鉄をちりばめた高品位の銅鉱石であった<32>」。
体育 社宅地の中央付近に広場があり、ここは盆踊りや野球・ソフトボールに利用された。小学校近くの職長社宅近くにはテニスコートがあった。
教育 宮田又鉱山地域にある教育施設は、3教室と講堂(体育館)その他職員室などがある小学校と、鉱山の人から選ばれた人が先生を務める保育所が1棟あった。昭和29年(1954)に小学校教師同士が結婚をし、鉱山の小学校という特徴から、彼らの新居は会社の社宅であった。また、荒川にある朝日中学校大盛(たいせい)分校に赴任した教師は宮田又鉱山に下宿をしていた。
必需品販売 供給所では他の鉱山にもよくあるように、通帳で商品を購入し給料で清算するシステムであり、食料・酒・煙草・衣料品・薬品・家庭の金物など、広範囲に商品を扱っていた。呉服や家電商品は、専門店が年2回秋田市から来ては小学校体育館で2日間展示し月賦販売をしていた。それ以外に子ども相手の駄菓子程度の店が2店あった。
通信 郵便は荒川郵便局より局員が回ってきていた。
交通 交通手段は既述したように森林軌道に連結した客車、あるいは徒歩、冬期は橇(箱橇・馬橇)あるいは徒歩であった。境からの通勤者は、冬以外は自転車で冬期は徒歩かスキーであった。
保安警備 所轄は境の警察にあった。抗内で転落死亡する事故があったとき、警察は境から鉱山に来て処理をしていた。
  その他 鉱業所内特設消防団が組まれ、消防用具・ポンプを格納する消防小屋が社宅地域の中央に建てられていた。

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<29> 施設の分類はつぎの文献に基づいた。
第一住宅建設協会『近代日本における企業社宅街の成立と展開に関する研究-金属鉱山系企業社宅街の比較分析-』(第一住宅建設協会、2008年)5頁表1
<30> 斎藤實則『鉱山と鉱山集落❘秋田県の鉱山と集落の栄枯盛衰❘』(大明堂、1980年)36-37頁。
<31> 進藤孝一「鉱山開発と信仰❘協和町荒川の場合」(秋田地名研究会、『秋田地名研究会年報』2号、1986年)19頁 http://www.geocities.jp/pppppppihyghhg/Web-Ani/akita-chimei/nenpoxx/nenpo02/861924.pdf
<32> 註3123頁。

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