前回の「日本の鉱山の概要 - 鉱山集落・社宅」の註記6に記載した宮田又鉱山は秋田県のほぼ中央部、現在の大仙市協和地区にあった鉱山で、社宅地域は他の集落とは離れて存在し、隣接する地域は約2.5km離れた十数戸ほどの徳瀬集落と、約90メートルの高低差の山越えとなる荒川鉱山集落であった。交通は旧国鉄羽後境駅から社宅まで約11kmの距離に渡って敷設されていた営林署の森林軌道(通称ガソリンカー)である。操業開始は昭和8年(1933)年であるが、本格的稼行は同15年に国策会社である帝国鉱業開発株式会社傘下に入ってからである。戦後は新鉱業開発株式会社の主力鉱山となった。ピーク時の従業員は約250人(昭和31/32年)で地区住民は約800人であった。昭和40年(1965)年に閉山となった。
近世から明治にかけて開発が進められた歴史の深い、大規模の日立鉱山・別子銅山における鉱山生活史の研究から上記宮田又鉱山のような中小規模の鉱山を見ると、そこには大きな違いが幾つかある。ここでは別子銅山と宮田又鉱山を例として鉱山生活共同体の分化について述べる。
分化の典型的な表れ方は日常生活の中の区別あるいは差別である。どの鉱山でも職員と鉱員の社宅は区別されるが、別子銅山では多くの場面で区別(差別)があった。東平(とうなる)尋常高等小学校では職員と労働者の児童が分けられており、山神祭や映画などの催し物の際には観覧席が別々に区分け管理され、共同で利用される風呂も区別され、抗内に入る職員の弁当は小使いが昼時に家を回って取りに行き、それを職場で配るが、労働者は自ら持参する。買い物では、職員宅へは人夫が品物を運び、労働者は自ら運ぶ。昭和4年(1929)以前の別子銅山専用鉄道では、職員用の客車と一般労働者の客車は別々で作りも違っていた。戦前という時代のなかで、「一山一家」が「美徳のイデオロギーとして強調されればされるほどに、そこに現出している社会は秩序維持のために厳しい格差を生み出して」(『鉱山と市民
聞き語り日立鉱山の歴史』)いたのであろう。
別子銅山には多くの社宅群があり、山(採鉱地区)の社宅と浜(精錬所地区)の社宅は地理的にも離れ、労働形態も異なり、山の社宅生活者と浜の生活者は分断している。また、長屋にも分化があった。歴史の長い鉱山では社宅での定住も長くなり、そこには親族関係が発生し、また同郷人が結合することで分化が生じる。親分・子分の関係維持のための引き継ぎもあった。
翻って歴史の浅い宮田又鉱山を見れば、職員と鉱員の社宅形態はもちろん異なるが、小学校における児童の扱い、供給所での扱い、鉱山に繋がるガソリンカーでの客車の区別などはまったくなかった。それは、別子や日立との年代の違いもあり、また、鉱山の規模と稼行の短命さにも大きく関係する。すなわち、宮田又鉱山は昭和15年からの本格稼行であり、親分・子分の関係や友子制度を構成するほどの歴史はない。短命な鉱山であるがゆえに鉱山集落の地で生活の代を重ねることもなく、親族関係は生じない。社宅も一つの地区だけである。製錬所をもたないために、大規模鉱山のような労働形態の多様性はあまりない。そもそも、小さな単一集落内では差別意識は生じにくい。
したがって、大規模鉱山で研究される鉱山生活は中小規模鉱山のそれを包括するものではないことを強調しておきたい。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
主とする参考文献は以下
-
松本通晴「鉱山労働者の生活史」(庶民生活史研究会編『同時代人の生活史』未来社、1989年)。
-
鉱山の歴史を記録する市民の会編『鉱山と市民 聞き語り日立鉱山の歴史』(日立市、1988年)。
-
進藤孝一『宮田又鉱山誌』(協和町公民館、1980年)。
-
進藤孝一『協和町の鉱山』(秋田文化出版社、1994年)。
-
協和の鉱山と松田解子文学を伝える会・宮田又会『宮田又鉱山思い出文集〝鉱山桜〟』協和の鉱山と松田解子文学を伝える会・宮田又会、2013年。
0 件のコメント:
コメントを投稿