坑内に働く者は常に死と直面し、特に採鉱夫は短命であった。採鉱夫や支柱夫になるには技術も必要であり、また災害・疾病にも直面するだけに賃金も高かった。他の職業と比較して賃金の過多を論じるには、地域性、生活様式、時代の経済状況などを考慮する必要があり、容易なことではない。給与所得生活者と非給与生活者との経済的比較は簡単なことではないし、同じ給与所得者であっても企業や役所によって設備される社宅や福利厚生設備などには差異があり、給与だけで生活状況を比較できるものではない。ここでは単に坑内労働者の賃金が他の鉱夫よりは高かったことのみを文献から拾い出しておくにとどめる。尚、採鉱夫・堀大工・採掘夫は同じ意味である。
江戸期、秋田藩の堀分山(藩が直接に支配する鉱山で直山-じきやま-ともいう)では、堀大工(採掘夫)の賃金は他の緒稼ぎより2.5倍に設定されていた<1>。また、佐渡では弁当持ちで銀山に通うものは28文くらいの安い日雇銭であるが、堀大工は日に400文も500文もとると『島根のすさみ』<2>に書かれている。
明治の時代はどうであったろうか、1906(明治39)年の東北における鉱山の日給を以下示す<3>。金銀山では坑内夫=52銭3厘、支柱夫=58銭0厘、手子(男)=35銭0厘、選鉱夫(男)=31銭0厘、製煉夫(男)=35銭0厘、運搬夫坑内(男)=33銭7厘、職工坑内(男)=3?銭0厘、職工坑外(男)39銭5厘、雑夫坑外=32銭?厘。女の日給は男に比してかなり低く、選鉱夫(女)=11銭0厘、製煉夫(女)=13銭0厘であった。金銀山以外では、坑内夫=62銭7厘、支柱夫=53銭5厘、手子(男)=28銭9厘、選鉱夫(男)34銭1厘、製煉夫(男)=39銭7厘、運搬夫坑内(男)=44銭5厘、職工坑内(男)=40銭6厘、職工坑外(男)=43銭?厘、雑夫坑外=33銭5厘、選鉱夫(女)=14銭4厘、製煉夫(女)=14銭2厘であった。坑内夫・支柱夫の賃金が他よりも2倍近いことが判る。支柱夫が高いのは高度な技術を要するためである。また、女性の賃金は男の36%から42%程度と低く抑えられている。
昭和29年(1954)調査による主要鉱業企業における賃金(円)を企業名/坑外夫給与/坑内夫給与で示す<4>。日鉱/10,109/15,129、三井/12,152/18,793、同和/10,148/14,541、三菱/10,100/14,520、住友/10,120/14,897、古河/9,727/13,618。坑内夫は坑外夫の約1.4~1.55倍の給与となっている。
秋田県協和町(現大仙市協和)に新鉱業開発(株)宮田又鉱業所<5>があった。昭和31年(1956)に大学新卒で入社し、宮田又に配属になった人の初任給は1万2千円で、寮費が引かれて手取り7千円ほどであった。そこでの鉱夫の賃金は日当であり、多くは請負計算による出来高払いとなっており、鑿岩夫は1m掘削で2千円であるが火薬代その他を差しひいて日給700~800円、運搬夫は一屯車一台あたり6円、六分屯車一台当たり4円の単価で日給は400~500円、支柱夫は同じく500~600円であった<6>。
秋田県北鹿地域に位置した相内鉱山<7>における昭和41年(1966)時点の坑内夫の平均賃金は4.6万円、坑外夫は3.5方円であった。ここは秋田県内の中小鉱山で最も高い賃金であり、鉱山の福利厚生施設を考慮すると周辺の農業・林業労働者や地方公務員に比して高賃金であった<8>と論じられている。
鉱山の規模は考慮せず、経時的に坑内夫の賃金を大雑把にみてきた。坑内夫は高い賃金ではあるが、命を縮める過酷な労働であるために、得てして坑内夫の生活は刹那的になる。宵越しの金は持たず、酒を飲んで、派手な生活をする。時代を超えてすべての坑内夫がそうであると断じることは到底できないが、得るもの(賃金)が大きければ失うもの(命・健康)も大きいといえる。別な言い方をすれば、鉱山を営む側には、危険な状況を作り出す状況においては、金を出せばいいのだろうという浅ましい根性も窺える。それは何も鉱山だけではなく、現代においても類似する事象は多く見られる。つまり、「法に則って粛々と進める」論理の裏に見え隠れする「最後は金目でしょ」と言ってしまう意識である。
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<1> 荻慎一郎『近世鉱山をささえた人びと』(山川出版、2012年)62頁。
<2> 礒辺欣三『無宿人 佐渡金山秘史』(株式会社人物往来社、1964年)167頁。
<3> 農商務省鉱山局『鉱夫待遇事例』(農商務省鉱山局、1908年)56頁。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801074にて判読できない数字があり、それを「?」と記した。
<4> 日本人文科学会編『近代鉱工業と地域社会の展開』(東京大学出版会、1955年)59-60頁。
<5> ピークの労働者数は246人(昭和31年および同32年の)の中小鉱山であった。協和町公民館『宮田又鉱山誌』(協和町公民館、1980年)75頁。
<6> 協和の鉱山と松田解子文学を伝える会・宮田又会編『宮田又鉱山思い出文集 鉱山桜』(協和の鉱山と松田解子文学を伝える会・宮田又会、2013年)83-84頁。鉱山桜には「やまざくら」のルビが付される。
<7> 昭和40年の従業員は447人。斎藤實則「黒鉱の開発と地域社会の展開 日東金属鉱山KK、相内鉱山の場合」(日本地理教育学会『新地理』Vol. 16 No. 1、1968年)
55頁。
<8> 前掲<7>、59頁。
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