2016年7月31日日曜日

宮田又鉱山⑧ - 学校生活(1)

小中学校の歴史 宮田又鉱山の児童・生徒が通う小中学校の変遷は複雑である。明治10年(1877)に荒川鉱山主瀬川安五郎が自費にて私立大盛(たいせい)学校を創立し、大盛尋常高等小学校と改名した後、同22年に荒川村の本校となり、同27年に徳瀬分教室<33>の校舎が建てられた<34>。昭和18年(1943)までは宮田又鉱山には教育施設がなく、小学校14年生は約2.5km離れたこの徳瀬分教室に通学し、積雪で通学不能となる冬期間は境の朝日小学校近くの農家に寄宿した。寄宿生活の様子は、鉱山から境に出張した職員が立ち寄り、また児童が書く日誌が鉱山の事務所を通して各家庭に回覧されていた。
徳瀬分教室は大盛小学校に属しており、朝日小学校には属していない。大盛小学校本校近くに寄宿させないのは、寄宿先の有無の問題と、境には宮田又鉱山の関連施設があり、鉱山関係者が訪れる頻度が高かったためと思われる。
昭和18年(1943)に鉱山飯場の一部を利用して宮田又に冬期分教室が設置され、14年制は分教室で学びこととなった。すなわち、冬が終わると4月より宮田又冬期分教室は閉校し、徳瀬分教室に通い、冬が始まると1月からはまた宮田又分教室を開き、14年生はそこに通うのであった。高学年の56年生は通期本校に通学していた。
  昭和19年(1944)に荒川村立大盛国民学校宮田又分教室が新築され、同207月からは1年生から6年生までの全小学生がここに通学することとなった。同22年の学校教育法施行により、宮田又の分教室は荒川村立大盛小学校宮田又分教室となり、中学校は荒川村立荒川中学校が開校し(同26年に朝日中学校に改称)、宮田又鉱山地域の中学生は大盛小学校に併置された朝日中学校大盛分校に通学することとなった。同30年の町村合併で荒川村立が協和村立に改まり、同314月には協和村立宮田又小学校として独立することとなった。小学生は宮田又鉱山社宅地域北側の小高い位置にある小学校に通い、中学生は片道2km強の朝日中学校大盛分校に通うこととなった。峠を上り下りし、図M-520160726 宮田又鉱山③)に示す大盛小学校(1)“の学校まで毎日通い、同3412月からは大盛小学校の移転に伴い、”大盛小学校(2)“のところまで通学路が延長となり、標高差約90mの往復約6km強の毎日の通学であった。
中学校へは、社宅のグランドに集まり、集団で杉林を抜け、川にかかる吊り橋<35>を渡り、峠を越える通学であった。冬には風吹の中で道が消えていることもあり、スキーで通学することもあった。

小学校の様子 昭和25年(1950)頃にかけては宮田又鉱山だけでなく、日本全体もまだ貧しい時代であり、前の席の生徒の頭から虱が出てきたり、着物を着ている同級生もいれば、下の子を背負ってくる生徒もいた。入学前の子供たちも終日小学生と一緒の行動が許され、小学校入学時には3年年までの勉強をほぼ覚えていたとする人もいる。家に戻って昼食を摂り、そしてまた学校に戻る生徒もいた。
  小学校の教室は3教室であり、教師も3人の複式学級であった。6年間の複式授業を受けていると、1時限の半分は授業、残りあと半分は自習となり、小学校6年間のうち半分の3年間は自習していたことになる。ゆとり教育というか、あるいは自らで学ぶという側面を捉えるのか、あるいは学習の遅れとするのかは様々であろうが、鉱山での教育の成果はおおむね好意的に捉えられている。
宮田又小学校として独立した同31年には入学者が27人であり、この時は1年、2年、3-4年、5-6年の4クラスとなっている。教室は普通教室の3室しかなく、学級数は4であるので、教室をどのように使用したのか疑問が残るが、実態は私には判っていない。

小学校の関連写真を載せる。図M-9は宮田又小学校第1期生の27人である。右端に渡部貞準校長先生、左端は菅原愛子先生である(私は生徒最上段の右から2番目)。図M-9(2)は同1学年の授業風景である。左端は菅原先生、右上部には進藤ミヤ先生である。中央最後部の背中の男子は私らしい。図M-9(3)はその1年生の通信簿である。宮田又小学校の児童数推移を図M-10に示す。

運動会 宮田又小学校が大盛小学校分教室であった頃、運動会は大盛学区にある大盛小学校とその二つの分校(宮田又および徳瀬)、朝日中学校大盛分校の合同で5月に開催された。運動会は子どもたちにとっても親にとっても大きな行事であり、鉱山は休日となり社宅に住む者は大半が荒川の大盛小学校に出かけ、鉱山社宅は静かになった。運動会には弁当以外に薬罐や七輪も持ちこまれた。グラウンドに流れる音楽や、生徒と親たちの歓声のなかで父親たちは酒も飲み、親子の一大イベントであった。
小学校が独立してからの運動会は従業員の運動会と一体になり、5月に春季総合運動会として鉱山の広場で行われた。宮田又小学校主催の運動会であるのに「春季総合運動会」と呼ぶのは、秋には鉱業所の主催で行われる運動会があったからである。主催がどこであろうと、住民から見れば鉱山の全社宅あげての「総合運動会」だったのである。

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<33> 1『宮田又鉱山誌』では「分教場」と書かれ、註5『協和町史』下巻では「分教室」に改められている。本稿では分教室を採る。
<34> 5『協和町史』下巻:84-8587頁。
<35> 「村内唯一の吊橋」『広報きょうわPR』(協和村役場)第31号昭和35101日:1頁 http://daisen.in.arena.ne.jp/daisen/koho/M/ky/kyowa0031-0001.jpg

2016年7月30日土曜日

宮田又鉱山⑦ - 鉱山社宅の福利施設

主に『宮田又鉱山誌』と『鉱山桜』の2点を統合し、何回かに分けて宮田又での鉱山生活を概述する。因みに私の社宅生活は図M-4(“20160726 宮田又鉱山③に既掲)左下の(イ)がはじまりであり、暫くして(ロ)に移った。最初の(イ)では長屋の右端あるいは右端から2番目のところに住んだ記憶がある。流し(水道)は共同で線路側に設けられていた。朝になれば長屋から皆この共同の流しに来ては洗顔をしていた。トイレについてははっきりした記憶はなく、共同便所であった可能性が高い。(ロ)は2世帯続きの社宅で線路側に住んだ。いわばグレードアップしたわけで、ここには水道・トイレが付設されていた。
宮田又鉱山での福利施設の概況を以下に記す。なお、施設の分類は註記<29>に依った。

住居 敗戦直後鉱員は長屋に住み、4軒長屋や5軒長屋で水道もなく、畳もほとんどない状態であったが、昭和27年(1952)頃より2戸建てが新築され、同30年頃までには旧住宅もリフォームされて畳や建具も入り、水道も設備もされ、屋根も杉皮葺きからトタン葺きとなった。
私が記憶する上記(ロ)の社宅は二間の部屋と縁側、トイレ、流し(台所)、押し入れの二軒棟続き平屋建てであった。
  社宅の電気・水道は無料で、電熱器や電気器具の使用は許可されていなかったが、昭和33年(1958)になって希望者には各戸ごとにメーターを取り付けた上で使用許可となり、定量を超える分の電気料金を徴収するようになった。 閉山の年である同40年の社宅は合計117戸であった。
社宅以外には職員合宿所、鉱員合宿所、境寮がそれぞれ1棟あり、境寮は羽後境駅の前にあって、来客の接待や従業員・家族の旅行時の一時宿泊、従業員子弟の高校通学の寄宿舎として利用された。私も5歳頃に父とこの寮に宿泊したことがあり、雨の日に寮の窓から蝸牛を眺めていた記憶だけが妙に残っている。
保健・衛生 共同浴場があり、抗内より温泉を引き加熱していた。採鉱が深くなると熱水や高温で作業が困難になるのであるが、熱水はこのように利用もされていた。理髪店は鉱員の妻が営んでいた(夫である鉱員は坑内で落下して死亡した)。火葬場は境の旧荒川村役場近くにあった。
戦後まぢか、診療所には衛生管理人がおかれ、境の医師の指導のもと治療に当たり、週1回は境からの回診もあり、昭和31年(1956)からは週1回の歯科の出張診療も行われた。境から距離があり、宮田又地域に近い部落の人たちからは宮田又診療所は重宝がられた。病人は一応会社の医務室で衛生管理人が診て、症状が重い場合は境に運んだ。冬は箱橇で運んだ。
ここでも私事になるが、霜焼けになり右足甲を切り開くことになり、私は痛みで泣きながら「藪医者」と叫び、“医者”はどこでそう言っているのを聞いたのかと私に問い、母は気まずさで一杯だったと後日何度か聞かされた。『宮田又鉱山誌』をひもといて宮田又鉱山の医務室に常駐する人は医師ではなく衛生管理人であったらしいことを知り、「藪医者」を気に掛けた“医者”の気持が何となく分かったような気がした。
慰安・娯楽 宮田又鉱山には娯楽に特化した設備はなく、人が集まる設備としては小学校の講堂が利用された。
  祭祀 「鉱山地域では、鉱業施設の建設と同時に、必ず山神社(さんじんじゃ)が建立される。山神社は鉱山地域のシンボルであり、山神社の施設と山神祭(さんじんさい)の規模は、鉱業所の経営規模とほぼ一致する<30>」のであり、「昔からの言い伝えであるが、山中に社寺があればそこには必ず鉱山がある、とはいまでも言われている言葉<31>」であった。宮田又には「鉱山の安全を祈願するため大山祇大神が祀られる社殿」が宮田又小学校の正面に向かって左側に建てられていた。この場所は、抗口や選鉱所などがある鉱山区域の入口に近いところであり、やや高台であったためにこの場所が選ばれたと私は捉えている。社殿と言っても鉱山の規模を反映した小さなもので、「御神体は水晶や硫化鉄をちりばめた高品位の銅鉱石であった<32>」。
体育 社宅地の中央付近に広場があり、ここは盆踊りや野球・ソフトボールに利用された。小学校近くの職長社宅近くにはテニスコートがあった。
教育 宮田又鉱山地域にある教育施設は、3教室と講堂(体育館)その他職員室などがある小学校と、鉱山の人から選ばれた人が先生を務める保育所が1棟あった。昭和29年(1954)に小学校教師同士が結婚をし、鉱山の小学校という特徴から、彼らの新居は会社の社宅であった。また、荒川にある朝日中学校大盛(たいせい)分校に赴任した教師は宮田又鉱山に下宿をしていた。
必需品販売 供給所では他の鉱山にもよくあるように、通帳で商品を購入し給料で清算するシステムであり、食料・酒・煙草・衣料品・薬品・家庭の金物など、広範囲に商品を扱っていた。呉服や家電商品は、専門店が年2回秋田市から来ては小学校体育館で2日間展示し月賦販売をしていた。それ以外に子ども相手の駄菓子程度の店が2店あった。
通信 郵便は荒川郵便局より局員が回ってきていた。
交通 交通手段は既述したように森林軌道に連結した客車、あるいは徒歩、冬期は橇(箱橇・馬橇)あるいは徒歩であった。境からの通勤者は、冬以外は自転車で冬期は徒歩かスキーであった。
保安警備 所轄は境の警察にあった。抗内で転落死亡する事故があったとき、警察は境から鉱山に来て処理をしていた。
  その他 鉱業所内特設消防団が組まれ、消防用具・ポンプを格納する消防小屋が社宅地域の中央に建てられていた。

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<29> 施設の分類はつぎの文献に基づいた。
第一住宅建設協会『近代日本における企業社宅街の成立と展開に関する研究-金属鉱山系企業社宅街の比較分析-』(第一住宅建設協会、2008年)5頁表1
<30> 斎藤實則『鉱山と鉱山集落❘秋田県の鉱山と集落の栄枯盛衰❘』(大明堂、1980年)36-37頁。
<31> 進藤孝一「鉱山開発と信仰❘協和町荒川の場合」(秋田地名研究会、『秋田地名研究会年報』2号、1986年)19頁 http://www.geocities.jp/pppppppihyghhg/Web-Ani/akita-chimei/nenpoxx/nenpo02/861924.pdf
<32> 註3123頁。

2016年7月29日金曜日

宮田又鉱山⑥ - 開発の歴史(3) 新鉱業開発発足から閉山まで

敗戦の翌年昭和21年(1946)から企業整備を図ると共に従業員の約半数を整理し、翌22年には労働組合が結成された。同241月に鉱発は過度経済力集中排除法による指定が取り消され後発の解散は決定的となった。鉱発の解散整理と10鉱山を主体とする新鉱業開発株式会社(以下新鉱発)が同254月に発足し、荒川鉱山の名称にあった宮田又鉱山は新鉱発の主力鉱山として他の9鉱山と共に存続することとなった<24>







M-8に示す宮田又鉱山銅生産高の推移をみれば、昭和19年(1944)から終戦後の同22年では銅生産高は約10分の1に落ち込み、同24年頃から復調の徴しがうかがえる。同256月に勃発した朝鮮戦争で、特需と輸出の急増により鉱業生産がにわかに増大し、新鉱発の柱の一つであった宮田又鉱山の鉱況は概して良好に推移した。労働者数もまた増加し、施設が整備された同25年以降のピークは約250人(地区住民は800人)となった<25>。図M-7参照。
宮田又鉱山は森林軌道の利用によって鉱石を運搬したが、冬期は橇による運搬、あるいは蓄鉱したことは既に述べてきた。昭和22年(1947)には冬期の運搬容易化のため、宮田又鉱山から旧荒川鉱山へ1.7kmの索道を敷設し、叺あるいは南京袋に入れた精鉱をまずは旧荒川鉱山に運び、そこから境に運んだ。同34年からは元山から境までのトラック輸送も開始された<26>
戦後、銅の需要は急激に伸びたが、昭和31年(1956)になると銅地金の海外依存率も上昇し輸入量は急増した。戦後の経済復興期から目覚ましい発展期に転じた日本は欧米から貿易、為替の自由化を強く求められ、同35年以降、政府は自由化を推進する政策をとった。しかし、日本の鉱業の国際際競争力は弱かった<27>。結局は宮田又鉱山のみならず、日本の多くの鉱山が閉山への方向に突き進むことになった。
新鉱発の主柱であった宮田又鉱山の鉱況は昭和36年(1961)頃から急激に悪化した。新規鉱床探査の成果は上がらず、鉱量は減少し、品位の低下に加え、採掘の深部移行に伴って作業条件は悪化し、採算性は悪化していった。一部に比較的高品位の鉱脈を捕捉したが、小規模な鉱量では発展が期待できず、行き着く先は鉱山の宿命である閉山であった。同40831日のことであった。まさに「鉱山は時の経過とともに探鉱→起業→発展→繁栄→衰退と変遷<28>」したのであった。

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<24> 既掲『帝国鉱業開発株式会社社史』426。新鉱発の10鉱山は、野田玉川(岩手県)、柳沢(岩手県)、宮田又、高旭(たかひ)(山形県)、石川(福島県)、釜の沢(栃木県)、天生(あもう)(岐阜県)、第一多賀(京都府)、鯛生(たいお)(大分県)、大口(鹿児島県)である。
<25> 「宮田又鉱山、近く閉山」『秋田魁新報』1965820日金・朝刊:31-3段。
<26> 「宮田又産業開発道路会計検査終了」『広報きょうわPR』(協和村役場)第28号昭和3571日:1頁 http://daisen.in.arena.ne.jp/daisen/koho/M/ky/kyowa0028-0001.jpg
 「大型トラックも入り山林資源の輸送は一段と活発化される」とあり、トラック輸送を可能とする道路はあくまで林業のための産業道路であった。
<27> 石油天然ガス金属鉱物資源機構『銅ビジネスの歴史』(石油天然ガス・金属鉱物資源機構金属資源開発調査企画グループ、2006年)83-87頁。
<28> 丸井博「鉱業の地理学的研究」(人文地理学会『人文地理』第186号、1966年)81頁 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/18/6/18_6_643/_pdf

2016年7月28日木曜日

宮田又鉱山⑤ - 開発の歴史(2) 帝国鉱業開発時代

帝国鉱業開発株式会社(以下鉱発と記す)は、「重要鉱物(金鉱及砂金ヲ除ク以下之ニ同ジ)ノ資源ノ開発ヲ促進シ其ノ増産ヲ図ル為必要ナル事業ヲ営ムコトヲ目的トスル株式会社トスル<15>」ことで、昭和14年(1939)に設立された。重要鉱物の増産上必要な命令を政府は下し、その際に生じた損失は政府により保障され<16>、所得税および営業収益税、地方税は免除された<17>。重要鉱物の資源の開発と増産を図る国策に従って、鉱発は経営危機にあった宮田又鉱山を同15年に支配下においた。
開発費用獲得に悩まされることがなくなり、新鉱脈発見に努力した結果、同17年に大鉱脈が発見された。裸馬𨫤<18>と名付けられたこの大鉱床は閉山まで続いた大鉱床であり、近隣地域に労務者を募集するなど増産が図られた。年数が前後するが、同16年の秋田県の地元紙朝刊一面にこの鉱脈と思われる発見が報じられている<19>
中小鉱山の開発を推し進める鉱発は、宮田又鉱山の開発は荒川鉱山と亀山森鉱山を合わせて行うこととし、宮田又鉱業所は昭和18年(1943)荒川鉱業所と改称された。これらの動きと関係するのであろうし、また軍事指定工場であったからであろう、逓信省より「昭和18426日ヨリ左記鉱業特設電話所ヲ設置セリ/名称位置/宮田又鉱業特設電話所 秋田県仙北郡荒川村<20>」と告示がなされている。
戦時の国策にしたがって増産徹底に努める宮田又鉱山であったが、選鉱は臨時選鉱婦の労力をもたのみとする手選鉱が主体であり、昭和19年(1944)に浮遊選鉱場が設備されてようやく近代化の鉱山となった。ちなみに、荒川鉱山は大正13年(1924)に高能力の浮遊選鉱場が設備されて大規模に選鉱しており、宮田又鉱山と荒川鉱山の規模の違いをここに見ることができる。採算度外視の国策会社である鉱発の傘下でなければ設備投資は実現しなかったであろう。

花岡事件で知られているように、戦時下の鉱山には労働者不足を補うために朝鮮人が配属されている。昭和18年頃から敗戦まで宮田又鉱業所地域には100人前後の朝鮮人が徴用されていた<21>
当時の児童たちに朝鮮人(宮田又では半島人が通称であった)の記憶が残されている。朝鮮人は道路工事をし、ガソリンカーが運休になる冬期は叺にいれたどろどろの鉱石を背負って境まで下り、帰りは鉱山で使用する資材を背負っていた。朝鮮人は朝鮮人と言われるとばかにするなと怒り、子ども同士の話しの中でも朝鮮人というのは禁句になっていた。子どもたちは、朝鮮から来た人が日本人に痛めつけられてかわいそうだったという話しは何回となく聞かされていたという<22>

昭和20年(1945)、敗戦が決定した直後817日の軍需省鉱山局からの緊急示達は、地下資源の開発はこれまで通り行うこととしながらも、戦時下の要請で生産を強行した非能率の鉱山は操業を停止させること、というものであった。鉱発は11月に事業所整理方針を決定し、11の鉱山を敗戦後も継続させることとした<23>。この中には荒川鉱山と改称した宮田又鉱山が含まれていた。

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<15> 「帝国鉱業開発株式会社法」(昭和14年・412法律第82号)第1条。
<16> 1524条。
「政府ハ帝国鉱業開発株式会社ノ業務ニ関シ監督上又ハ重要鉱物ノ増産上必要ナル命令ヲ為スコトコトヲ得前項ノ規定ニ依リ重要鉱物ノ増産上必要ナル命令ヲ為シタルトキハ政府ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ之ニ因リ生ジタル損失ヲ補償ス〔後略〕」
<17> 1531条。
「帝国鉱業開発株式会社ニハ命令ノ定ムル所ニ依リ開業ノ年及其ノ翌年ヨリ十年間其ノ事業ニ付所得税及営業収益税ヲ免除ス」、同第32条「北海道、府県及市町村其ノ他之ニ準ズベキモノハ前条ノ規定ニ依リ所得税及営業収益税ヲ免除セラレタル期間帝国鉱業開発株式会社ノ事業ニ対シ地方税ヲ課スルコトヲ得ズ〔後略〕」
<18> 「𨫤」(ひ)は鉱脈のこと。鉱脈には一般的にこの用語を用い、𨫤の頭に固有名詞をつける。
<19> 「帝国鉱業開発会社の経営になる本県仙北郡の宮田又鉱山に新鉱脈が発見された、この宮田又鉱山は事業成績思はしくなく荒川鉱山の如き末路を辿るに忍びず一昨年帝国鉱業に身売りしたもので〔中略〕所長〔中略〕以下の所員が一縷の望みを掛けて探鉱してゐたが〔中略〕銅の含有量が20パーセントという素晴らしい鉱脈が凝灰岩と頁岩の間に入つて発見された〔中略〕秋田鉱山専門学校助教授は〔中略〕語る/更に50尺掘り下げておりますが鉱質は殷賑を極めた荒川鉱山同様で実に素晴らしいものです〔後略〕 」
「新銅鉱脈を発見 宮田又に凱歌」『秋田魁新報』昭和16年(1942811日・朝刊:13-6段。
探鉱調査が継続されていることから、記事にある新鉱脈は裸馬𨫤であると思われる。但し、20パーセントの含有量はありえず2パーセントの間違いであろう。
<20> 「逓信省告示第564号」(官報 第1896号)
<21> 野添憲治『秋田県における朝鮮人強制連行』(社会評論社、2008年)32-34頁。
<22> 2『宮田又鉱山思い出文集〝鉱山桜〟』 12-13頁、20頁。
<23> 帝国鉱業開発株式会社『帝国鉱業開発株式会社社史』(金子出版、1970年)313-315頁。
このときの11鉱山は次の通りである。
余市、玉川、銭亀沢、野田玉川、不老倉、荒川、川尻、高旭、釜ノ沢、天生、大口。

なお、ここで書かれている、天生(An)、大口(An)は、正しくは天生(Au)、大口(Au)である。

2016年7月27日水曜日

宮田又鉱山④ - 開発の歴史(1) 発見から鉱山発足、基礎を築いた時代

宮田又鉱山の歴史を述べる場合は協和町にあった近隣の鉱山にもふれることになる。図M-6にそれらの位置を示しておく。
鉱業権者を基準にして宮田又鉱山の歴史を四区分する<12>。まずは発見から物部長之および金沢市・横山鉱業部の時代を経て宮田又鉱山発足までの時代とし、次ぎに宮田又鉱山の基礎を築いた昭和9年(1934)から同15年までとする。同15年から同25年は帝国鉱業開発株式会社傘下の時代であり、最後は、新鉱業開発株式会社傘下となって同40年に閉山となるまでの時代である。
発見から鉱山発足
『東北鉱山風土記』<13>に記述される、宮田又鉱山の初期の歴史を要約する。
享保7年(1722)に畑銀山の抗内にて大きな崩壊があり、入坑していた坑夫500人が流血に染まった。これによって畑銀山は廃山の憂き目になった。そのときの坑夫総取締役が荒川村官有山奥の蛇石明神に参拝して鉱山発見を祈願した帰途、鍋倉に大露頭を発見した。藩の直山(じきやま)として試掘したが次第に鉱況が減退し、鍋倉は見棄てられ長い間放置された。明治初年(1868)に境唐松神社神主物部長之が畑鉱山開発に着手すると同時に鍋倉、葦倉にも坑道を開鑿したが本人が死亡して権利を放棄した。同41年に貴族院議員である金沢市横山章の鉱業部が経営することとなった。重要鉱山に準じる鉱山として盛んに稼行したが湧水が多く、また交通不便のために採算が合わないこと、また、当時の財界に変動があって放棄することとなった。その後権利は転々としたが昭和9年に宮田又鉱山株式会社の所有となった。
宮田又鉱山の事業運営上の大きな障碍は、羽後境駅までの鉱石運搬にあった。横山鉱業部の経営当時は、馬車鉄道が敷設されていた隣の荒川鉱山まで、鉱石を背負って山を越えて運んだ<14>。横山鉱業部が鉱山を手放す直接的原因は、この運搬の困難さにあった。

基礎を築いた時代
熊谷富治が昭和8年(1933)に宮田又抗を探鉱して大鍋倉沢に黄銅鉱の大鉱脈を発見し、同9年に宮田又鉱山株式会社を発足させ、以降の盛況の礎を築いた。
宮田又鉱山は、叺にいれた精鉱を森林軌道の鉱車に載せて羽後境駅まで運搬した。羽後境には鉱山ホームがあり、そこから精鉱は県内外の製錬所へ運ばれた。冬期になると積雪のために12月からは運休となり、鉱石運搬ができなくなる。よって冬期は付近の農家の人たちの賃仕事として橇に積んで運搬、あるいは蓄鉱した。
昭和14年には新たな鉱脈が発見されたが、その開発計画をめぐって経営陣は二分し、宮田又鉱山の存続は危うくなった。

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<12> 秋田県生活環境部環境保全課『秋田県の主な休廃止鉱山の沿革』(秋田県生活環境保全課、1989年)145-146頁。
<13> 和田豊作『東北鉱山風土記』(私家版、1942年)100-101頁 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1060452
<14> 岡本憲之『全国鉱山鉄道』(ジェーティービー出版、2011年)38-39頁。























2016年7月26日火曜日

宮田又鉱山③ - 近隣都市との交通


宮田又鉱山の略図を図M-4に示す。この図は今後も何度か参照する。図M-4をずっと空高くから俯瞰すると図M-5の地図に描かれるようになる。
宮田又鉱山地域と繋がる地域は、西側にほぼ平地で繋がる徳瀬集落と、南側に約90mの高低差の山越えとなる荒川鉱山集落であった。徳瀬集落は戸数が十戸前後の集落であり、宮田又社宅域までは約2.5kmある。荒川鉱山集落は昭和初期まで日本の銅鉱産を支えた銅山の集落であり、宮田又鉱山から荒川鉱山に行き来するには山を越えなければならず、2km強の徒歩のみの山道である。

宮田又鉱山が位置する地域は国有林の場所であり、大正4年(1915)に、羽後境から宮田又沢沿いに大曲営林署の森林軌道が敷設された(既掲の図M-3参照)。宮田又鉱山が本格的に操業されたときは選鉱所付近までの支線も増設され、宮田又鉱山と羽後境を結ぶ重要な交通となった。羽後境から居住域まで約11km、選鉱所までは約12kmであり、軌道車-ガソリンカーと称した-での所要時間は約60分であった。

  宮田又に近い都市は秋田市と大曲市(現大仙市)であり、奥羽本線で繋がる秋田駅・大曲駅のほぼ中間に位置する羽後境駅から秋田駅までは路線上約27kmであり、昭和40年(1965101日現在の時刻表<10>によれば、112本の普通列車と1本の急行列車が運行しており、所要時間は急行で29分、普通列車で35分~58分。同じく大曲駅には約25kmで、1日に普通列車が12本運行し所要時間は3052分であった。従って旧大曲市や秋田市にでかけるときは、森林軌道を利用して社宅から羽後境に出て、そこから奥羽本線の列車に乗ることとなる。しかし、冬期になると森林軌道は運休<11>するので、羽後境駅までの交通手段は徒歩のみとなる。

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<10> 奥羽本線汽車時刻表(40101現在)」『広報きょうわ』(協和村役場)第89号昭和40年(19651015日:4頁 http://daisen.in.arena.ne.jp/daisen/koho/M/ky/kyowa0089-0004.jpg
<11> 「協和村の奥地」にある宮田又鉱山は雪のために出荷できず、昭和38年(1963)には約1ヶ月にわたって出荷ができなかった。
「銅鉱出荷で活気づく/雪で不通だった宮田又鉱」『秋田魁新報』昭和38年(1963220日・朝刊:63-6段。

2016年7月25日月曜日

宮田又鉱山② - 位置・気候

 宮田又鉱山は秋田県のほぼ中央部、現在の大仙市協和地区にあった鉱山である。図M-1は秋田県における大仙市の位置と広さを示すもので、斜線と黒塗りしたエリアを併せた地域が現在の大仙市である。平成17年(2005)に旧協和町や大曲市など近隣の市町村と合併して大仙市が発足した。本ブログでは大仙市にはふれずに「旧協和村(町)のなかの宮田又鉱山」という取り扱いをする。旧協和町成立の変遷を図M-2に示す。

説明を追加
宮田又鉱山は、旧荒川村の四方山に囲まれた山間部に位置していた。図M-3に位置を示す。宮田又鉱山は国有林のなかにあり、その鉱区所在地は「秋田県仙北郡協和町荒川牛沢又沢国有林39林班の中に位置し、宮田又沢川の源流というべき大鍋倉山の山麓に開かれた海抜220米の地」<3>あるいは「秋田県仙北郡荒川村宮田又国有林地内」<4>とされている。
宮田又鉱山社宅域にあった小学校の設立当時の住所は「荒川村字宮田又一番地」<5>であった。すなわち、宮田又は荒川村の字(あざ)の住所を有し、番地も組み入れられていた。荒川村が合併し協和村になり、さらに大仙市に合併したので、旧荒川村の地域の住所は大仙市大字協和荒川の下に小字が付せられる。すなわち、もし宮田又が今もまだ生活域として存在しているならば、現住所は大仙市協和荒川字宮田又○○番地となっているはずである。しかし、現在において、協和荒川の小字に宮田又が見られるのは「宮田又沢牛沢又」<6>があるのみで、かつての宮田又鉱山の地に繋がる住所は存在しない。
鉱山職員や鉱員が居住する社宅域は宮田又沢川に沿って位置し、鉱山の採鉱事務所や選鉱所は宮田又沢川支流である利沢川の大鍋倉沢<7>に沿って設備されていた。
宮田又は12月に降雪期に入り、積雪期間は長く、4月までの間60cmから2m余りの積雪量となる<8><9> 

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<3> 註1『宮田又鉱山誌』1頁。社宅地域の標高は140m前後である。
<4> 秋田県経済部鉱務課編『秋田県鉱山誌』(秋田県経済部鉱務課、1951年)73頁。
秋田県地下資源開発促進協議会編『秋田県鉱山誌 2005』(秋田県鉱山会館、2005164頁では単に協和町と記されている。
<5> 協和町史編纂委員会『協和町史』下巻(協和町、2002年)87頁。
<6> 協和町史編纂委員会『協和町史』上巻(協和町、2001年)71頁。
<7> 利沢川の名称は国土数値情報(河川データ)平成18年国土交通省による(http://nlftp.mlit.go.jp/ksj/jpgis/datalist/KsjTmplt-W05.html)
大鍋蔵沢の名称は進藤孝一『宮田又鉱山史(第一集)』(私家版、1973年)1-2頁による。
<8> 註4『秋田県鉱山誌』73頁。
<9> 旧協和町は平成26年(201441日現在、国土交通省によって特別豪雪地帯に指定されている(https://www.mlit.go.jp/common/001029280.pdf )


2016年7月24日日曜日

宮田又鉱山① - はじめに

私が秋田市将軍野で生まれた頃は貧乏生活であり、その後父は失対事業の仕事から脱けて宮田又鉱山の工作係に職を得た。戦後になって鉱山復興が活発化し、多くの人たちが鉱山に職を得たなかの家族の一つであった。貧乏生活は続いたが、鉱山生活の中では多くの家族が似たような境遇であり、日々の生活を嘆くことはなく、逆に謳歌していたようでもある。

その宮田又鉱山の歴史について最も詳しいのは、秋田県協和町(現大仙市)の郷土史家、進藤孝一が著した『宮田又鉱山誌』である。進藤はほかにも宮田又鉱山に関する執筆があり、それらには小さな修正が認められるものの、内容的はすべて『宮田又鉱山誌』に繋がっている<1>
このブログにおいて新しいことはほとんど何も描けない。ただただ個人的関心のもとで、この鉱山誌を一度分解し、そこに『宮田又思い出文集〝鉱山桜〟』(以下、『鉱山桜』)<2>やほかの文献・資料を参照し、戦後の鉱山生活に視座をおいて『宮田又鉱山史』を再構築してみたいと思っている。
タイトルは“宮田又鉱山〇-XXXX”とし、註記や図表には通し番号を付ける。

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<1> 進藤孝一『宮田又鉱山誌』(協和町公民館、1980年)。
進藤孝一『協和町の鉱山』(秋田文化出版社、1994年)。         
協和町史編纂委員会『協和町史』下巻(協和町、2002年)。
協和町には宮田又鉱山以外に荒川鉱山やその他幾つかの鉱山が稼行していた。進藤の郷土史研究がなければ宮田又鉱山のみならず、協和町の鉱山全体の歴史は明らかにならなかったといえる。
民俗資料展示館である大仙市大盛館を2014年に訪れたとき、進藤氏は入院中であると聞き、会って話を聞くことは叶わなかった。
<2> 協和の鉱山と松田解子文学を伝える会・宮田又会『宮田又鉱山思い出文集〝鉱山桜〟』協和の鉱山と松田解子文学を伝える会・宮田又会、2013年。“鉱山桜”には“やまざくら”とルビが付されている。

2016年7月22日金曜日

日鉱記念館、高取鉱山③

ナビをセットして高取鉱山に向かう。原則高速道路は利用しないことにしているので国道6号線を南下して水戸で右折して県道51号線(水戸茂木線)を走る。目的地に近くなりナビが右折を指示するけれどどの道なのかはっきりしない。一度右折した道をすぐに引き返し、今度は右折すべき所を通り越してしまったことで本来の道が特定できた。車1台しか通れない道を進めば左右は木が生い茂り、道は凸凹で、小心な自分は少し不安になる。1kmほど進んでもう少しかと思ったら、通行禁止になっていた。「無断立入を禁ず 公益財団法人資源環境センター高取事業所 エコマネジメント株式会社高取事業所」と記されたプレートがかかったフェンスがあり、鍵がかかっていた。帰宅後確認したら、この処置は何年も前からなされていた。迂闊だった。細い道をバックして戻り、県道51号線にでようとしたら、目の前のカーブミラーにペンキの剥げかかった「高取鉱山」の案内があった。意識してこれを見る人は殆どいないだろう。



鉱石を探すマニアはいる、廃墟/廃鉱を巡る人もいる。軍艦島は観光地になって多くの人を集めている。私は高取鉱山に行って何を見たかったのだろうか、何を見つけたかっただろうか、確認したかったのだろうか、どこか鉱山の跡地があったらまた行こうとするのだろうか、何を求めているのだろうか、そんなことを繰り返し自問しながら春日部に向かって車を運転し、帰宅した。

日鉱記念館、高取鉱山②

宿泊した鵜の岬から日鉱記念館までは約30分。6号線を右に折れると日立製作所やJX金属の工場、日立金属を右に見て坂道を上り、日鉱製錬所を通過し、かつての姿を想像をもさせない日立鉱山を左に見やって日鉱記念館に到着。開館時間の10時を少し過ぎた程度の時間であるし、そもそも鉱山の記念館を訪れる人はいないであろうから、この日の最初の訪問者と思っていたが、駐車場には1台だけ水戸ナンバーの車が駐まっていた。記念館は立派な建物であり、企業側の維持管理に基づいており入館料は無料。
案内所で名前や住所を書いて受付を済ませ、順路に従って館内を進む。最初に目に入るのは現JXまでの基礎を築いた久原房之助。久原は秋田県小坂銅山の藤田組から始まって1905(明治38)年に赤澤銅山を買収し、久原鉱業-日本産業-日本鉱業と続いた。現JXグループの系列にはないが、日立製作所を中核とする日立グループも起点は久原鉱業/日立鉱山の工作部門にある。
余談だが、日本産業は日産自動車へと繋がっており、私が北陸の某企業で工作機械設計を担当していた頃、日産自動車向けの工作機械でのモーターには日立のものを使うことが厳守されていた。
記念館の企業経営展開には興味がなく、簡略的に掲示されるかつての鉱山の写真を眺め歩く。最初に目を引くのは鉱山の鉱床および抗道の透視模型。地下深く複雑に張り巡らされた抗道の模型にはいつも感動する。尾去沢鉱山に行ったときもそうだし、まるで体内に巡らされた血管のように見える。この抗道の中を血流の如くに坑夫たちが竪坑から入り、歩き、上や横に鉱石を掘り、運び、そして地上にかえる。この透視模型は持ち帰りたいほどである。観光地化したところでは鉱石をアクセサリーにし、また鉱石を販売しているが(秋田大学鉱業博物館で購入した黒鉱を持っている)、この抗道透視模型を販売しているのは見たことがない-あっても一般には売れないだろうが、私なら少々高くとも買う-。

久原鉱業傘下の鉱山は日本全国に散在し、各地の鉱山で採石される鉱石が展示されている。その中に田代鉱山(福島県金山町)の黒鉱があり、おおっと思う。田代鉱山はかつて身近にあった短命な鉱山(別置の資料室には同鉱山の重晶石-黄銅鉱-も展示されていた)。各地の鉱山は地図上に示されており、田代鉱山と並んで軽井沢鉱山(福島県柳津町)もあった。
摸擬抗道は近代的な抗道で、例えば佐渡金山で見られるような悲惨さはない。鉱山の全景写真を見るといかに日立鉱山は大きな鉱山であったのかが分かる。かつての鉱山電車の映像も流され、活況であった昔の様子が、私は日立には無関係であったが懐かしく感じる。有名な日立の大煙突については鉱山が環境に取り組んだ経緯が示されている。JXグループの現況コーナーには全く興味なくただ通り過ぎただけ。
館外には旧久原本部、山神社(さんじんじゃ)、電気機関車、竪坑などを見学できる。機械設計の仕事に従事したせいであろう、資料室内の機械に身を乗り出す。巨大な巻揚機、ボールミル(小さなものしかなかった)、浮選機の写真、ROKU ROKU SYOTEN(碌々商店-現碌々産業)のプレートが打たれている海外(英国製だったヵ)の旋盤、コンプレッサーなどなど。圧巻なのは鑿岩機。重火器にも似たこの機械、ストーパー、ドリフター、ハンドハンマー、H式鑿岩機が中心に展示されている。国内製、海外製(アメリカやスウェーデン)などこれほどの多種多機を見たのははじめてのこと。手にとって見たいが多分その重さは我が身をよろけさせるであろう。これら鑿岩機の機能美に感じ入ってしまう。
これほどキチンとした鉱山記念館があることに感激した。日鉱=日本鉱業の時代は近代以降に限られているが、以前訪れた秋田大学鉱業博物館(正式には秋田大学大学院国際資源学研究科附属鉱業博物館)より充実していると思う部分が多かった。秋田大学の博物館は鉱業全般を扱い、日鉱記念館は日立鉱山という一鉱山が対象であるから差異は当然にあるのだが、近現代の鉱山という自分の関心に対しては日鉱博物館が充実していると思った。ただ、企業の施設であるからして、全体的に鉱山のダークな部分も経営側からの視点で捉えて所謂企業努力を前面に出し、鉱山生活の負の部分については無きに等しいのはもちろんである。見学者側はそれを心しておくべきであろう。受付に戻ったとき、簡単に入手できないであろう資料を3冊購入した(『日立鉱山史』-追補あり・『日立鉱山山神社物語』・『ある町の高い煙突』-新田次郎)

1時間少し経ってから駐車場に戻ったら、駐車場には自分の車を含めて3台に増えていた。私の車が中央にあり、その隣は私と同じ春日部ナンバーだった。

日鉱記念館、高取鉱山①

716()の朝、同窓会の解散の前にKT(“20160709 日本の鉱山の概要⑨ - 鉱山集落・社宅”の註記<4>。)と短時間だが話をした。彼は、「八総鉱山は住友金属鉱山だったから閉山したときは別子に移った人も多かった、だから別子を訪れてみようかと思っている。もしかしたら知っている人がいるかもしれない。また、石見銀山にも行ってみたい」と言っていた。鉱山社宅で暮らした人間は鉱山そのものに郷愁を感じ、また、誰か鉱山生活者と繋がりを持ちたい、話をしたい、もっと簡単に言えば、オレも鉱山にいたんだよと共通の場に身をおきたいと思っている(と思う)。かつて暮らしたことのある鉱山が廃墟、あるいは全く姿を消してしまえば余計にそう思うであろう。KTには別子に行ったら必ず東平(とうなる)に行けよ、と言ったが、それは言わずもがなのことであった。機会を作って私も東平や石見には行ってみたいが、東平が「東洋のマチュピチュ」と宣伝され、石見銀山が「石見銀山世界遺産センター」と喧伝されることには引っかかりを感じてしまう。それは鉱山という空気が流れる円管の入口にオリフィスプレートが設けられているような思いである(機械工学的表現すぎるかな)。

 この日訪れようとしていたのは第一に日鉱記念館。それ以外に候補にあげていたのは栃原金山と高取鉱山で、距離は離れるが足尾銅山もリストに載せていた。構想時点ではあっちもこっちもとなるが、いざ当日となると早く家に帰りたいとの怠け癖がでてしまう。前日、車で大子町(袋田の滝)に向かっていたときにチラリと見えた栃原金山の案内看板が記憶にあって同じ道を走るのは嫌になり、また足尾は遠すぎるので止めにし、春日部までの自宅帰還ルートを考慮して日鉱記念館と高取鉱山だけに寄ることとした。

2016年7月18日月曜日

日本の鉱山の概要⑯ - 修正メモ

(1) 一目で順番が分かるようにタイトルに連番を付した。
(2) 高校同窓会にてKTに再確認したことを踏まえ、追記修正。修正箇所は、“20160709 日本の鉱山の概要⑨ - 鉱山集落・社宅”の註記<4>
(追記箇所が分かるように本文にマークを付したのだが、そこで使用した文字がどうもHTMLの禁則に触れたようで、その修正の方に時間を費やしてしまった。)

2016年7月15日金曜日

日本の鉱山の概要⑮ - 鉱山を舞台にした小説など

鉱山(炭砿は対象外)を舞台にした小説などを記しておく。
-   松田解子 『乳を売る/朝の霧』(講談社文芸文庫、23013年):著者は1905年秋田県荒川鉱山に出生。191020年代の鉱山が舞台。秋田県大仙市の大盛館に松田解子文学記念室が設けられている。
-   夏目漱石 『坑夫』(岩波文庫、2014年):1908年より新聞連載。舞台は足尾銅山。漱石自身は足尾の地を踏んでいない。
-   高橋勤 『鉱山はかげろうの如く』(岩手日報社、1991年):鉱山での実生活をもとにした物語。舞台は硫黄鉱山である松尾鉱山。
-   宮嶋資夫『宮嶋資夫著作集 第1巻』(慶友社、1983年):全5編、初出は19161926年。
-   渡邊十千郎『鉱山物語』(新光社、1924年):小説ではない。学術的な視点で物語のように鉱山を語る。国立国会図書館デジタルコレクションで入手可。
-   佐藤たけを『句集 鉱山神 やまがみ』(本阿弥書店、2012年)。小説ではなく句集。迂闊にも句集とは知らずに購入した。二つの句を載せておく。「鉱山神(やまがみ)にまづは供へて今年酒」「山眠る流れ鉱夫の墓いくつ」。著者は菱刈鉱山金鉱床発見に大きな貢献をした。


2016年7月14日木曜日

日本の鉱山の概要⑭ - 再び鉱山とは

国内の金属鉱山は敗戦後の一時期に立ち直りをみせたものの、昭和30年前後から同48年頃までの高度成長期の中で斜陽化し衰退を続けた。鉱山労働者は鉱山での職を失うのであるが、高度成長の中で他の職種への転換が比較的容易にできた。鉱山は山間部に位置するのでこの職種転換は山間部から都市部への移動も伴うことになる。また、鉱山という名で括られる価値に集約された空間(山)から多種多様の生活が混じり合う開かれた空間(都会)への生活様式の変化ともなる。その変化に適応するにはかなりの努力を要したと思われる。また、都会人から見る田舎者という視線、さらに加えて馴染みのない鉱山生活経験者へ向けられる偏見めいた感情もあったようである。

私が東京の私大に入学したとき、同じクラスの生まれも育ちも東京・荻窪である友人に、オレの父親は鉱山で働いていると言ったら、鉱山を経営しているのかと聞き返された。鉱石を採取している奥会津の小さな鉱山の普通のサラリーマンだと説明したらその友人は意外な表情をしていた。戸惑っているような彼の表情はいまも記憶に残っている。それは、鉱山という全体像をイメージできず、また私大に通わせる経済力は山奥の会社員には備わっていない筈だという漠然とした思いであったようだ。

鉱山への一般的イメージを考えてみる。ただし、鉱山都市といわれるような大規模な鉱山ではなく、文献調査および実体験に基づく小規模な(あるいは狭い空間に閉ざされた)昭和後期の鉱山を前提しとしている。
①余所者、異質な空間
鉱山は突然に何もなかった地に現れ、その地と無関係なところから移住してくる人びとが、一定の区域を占有する。そしていつかは消えてしまう。何代も前からその地に暮らして生活習慣や文化を築いてきた人びとからみれば、それまで見たことのない社宅・長屋に、よその土地から、異なる文化を身にまとった人たちが集団で来るのである。物珍しさとともに、異質な世界・生活を見るというのが近現代の鉱山に対する農村の人びとの実際であろう。
②異質な生産活動
鉱山は山間部に発生する。山間部の主要生産活動は農業である。地表に種を蒔き日の光と水と土によって生産される植物を収穫し、それを繰り返す。農産物は直接的に人びとの生活の糧となる。鉱山での生産は、地中に眠る鉱物を地下にもぐって採り、よその地に送り、働く人々は賃金を得る。つまり、生産手段は目に見えない地下にあり、選鉱所から出される収穫物は無機的な鉱物であり、生活へ直接的に結びつくことはなく、人々の生活基盤は賃金を介して商品を購入することにある。鉱山の生産生活は自給的側面もある農村とは全くかけ離れている。
③一般的な負のイメージ
異質な世界に営まれる鉱山生活は過酷な抗内労働によって語られることが多く、負のイメージを伴う。すなわち、鉱山労働とは鉱石採掘の労働であり、特別に高度な知識は必要とせず、筋肉労働に堪えうる体力があればよいとするイメージである。そこには、無宿人や囚人による佐渡金山の抗内水替労働、炭砿における囚徒使役のたこ部屋、朝鮮人連行による強制労働、飯場・納屋などの暗いイメージが重なっている。近世から現在まで、鉱山生活を表現する言葉は多くの著作物に載せられてきた。山師・渡り坑夫・気絶え・よろけ・珪肺などなどである。いずれも異端および負のイメージに繋がる言葉である。特に珪肺は鉱山固有の病であり、近世では「よろけ」「煙病」「煙食病」とも呼ばれ、鉱山閉山後も、坑内労働者にとっては死と直結するものであった。近年テレビで放映された久根鉱山労働者の記録は、かつての鉱山の悲惨さを知らしめるものである。鉱山は負の側面から描かれることが多い(多すぎる)。
④一時の恩恵と裏切り
鉱山はよその地から多くの人びとが移住するが、高度な技術を要しない労働は地元に求めることが多い(隣接する農村とは隔絶していた鉱山もあった)。現金収入に繋がる労働の場を農村に提供し、その地の人びとの商品経済参画が加速する。商品流通が進めば現金収入を多く求め、ひいては商品産業を望むこととなる。鉱山の操業は農村に大きな期待を膨らませ、新しい生活へと転換させる契機となる。しかし、採鉱される鉱物には限りがあるし、また資源があっても採算性の縛りがあり、いつかは終末を迎えることとなる。また、採鉱に伴う硑(ずり)やスライムは自然の中に廃棄し、場合によっては鉱害へと繋がり、鉱害は農業生産の妨げとなる。鉱山が廃山に近づくと地元の期待は急速に萎み、鉱害があると反発は大きくなり、閉山は落胆あるいは恨みへと繋がる。初期の期待が大きければ大きいほど落胆の度合いが深くなるのは世の摂理である。

結論から言えば(少々僻みっぽいかもしれないが)、鉱山という空間あるいはそこでの生活者へのイメージはポジティブなものではない。鉱山という括りは、農業、漁業、工場勤務、商店経営、医者、公務員、等々に抱かれるイメージとは一線を画する、「何かよく判らない」「とらえどころのない」「一過性」のものと思われている、と私は捉えている。
鉱山労働を蓋っているイメージをまとめると、鉱山労働=坑内での採鉱労働であり、それは暗い地中での、重筋肉労働で低知識の単純労働であり、そこに「佐渡の金山この世の地獄」のようなイメージが重なる短絡的なダークでネガティブなものではなかろうか。