2018年12月10日月曜日

横田鉱山・二本木橋

何回か書いてきた横田鉱山や二本木橋であるが、あるブログ(詳細は省く)に二本木橋と横田鉱山を関連付けて写真が載っている。二本木橋関連と、探鉱ボーリングの写真であり、後者の撮影場所はほぼ特定できたと思っている。その根拠は写真の背景にある山斜面の形状などであり、それは案外とすぐに分かった。ちなみに問題とした写真は「横田鉱山」と「二本木橋」の両者のキーワードで引っかかるようである。しかし、二本木橋と判断されている写真を見ると「二本木橋」と酷似しているが、違和感が生じた。その違和感は主に次のようなものである。
①親柱の形状、②背景にある山の形状、③橋から下に至る道路補強形状、④稲架の位置
などである。過去に撮影した写真やwebに載っている写真、当時に近い時期に撮影された空中写真などを参照にして調べてみたが、決定的な違いは①と③。もしも、確認される方がおられるならばとその正しい二本木橋の写真を載せておく。写真は公的機関の写真もあれば、個人のブログにも少なからず載っている。そちらの方がより詳しく撮影されているが、ここでは2010年11月に自分が撮影した写真をアップする。但し、周知のことだがこの橋は2011年に崩落している。それまでは手すりやアーチ部の補強、橋に至る道路の舗装を除けば架橋された当時のままである。

2018年11月2日金曜日

宮田又鉱山と唐松神社

近くの書店の中をぶらついているときに原田実『偽書が描いた日本の超古代史』(KADOKAWA夢文庫、2018年)があり、ちょいと手に取って頁を捲ったら「物部文書」のところで偶然にも「秋田県の山中、大仙市協和」の文章が目に入った。そしてそこに「唐松神社」や「宮司物部家」、「進藤孝一」の名もある。かつて暮らしたことのある宮田又鉱山について調べていたときに登場する地名・神社・人名である。ただそれだけでこの文庫本を購入した。かつてここのブログにも書いていたことと重複するが、以下をメモっておく。

宮田又鉱山は長い間放置された後、明治初年(1868)に境唐松神社神主物部長之が畑鉱山開発に着手したが本人の死去により権利が放棄された。唐松神社は代々「長」を付して命名されるらしく、長仁・長輝の名があり、日本の(著名らしい)物部長穂やその弟で陸軍中将だった長鉾はこの唐松神社での生まれである。
内容を公表した『物部文書』の研究を託された郷土史家の進藤孝一は旧協和町にあって鉱山の歴史を探り『宮田又鉱山誌』などの鉱山誌や協和町の歴史を編んだ人である。

『物部文書』や唐松神社の歴史・伝承には関心がなく、上記だけのメモであるが、妙に繋がりを感じたので書いてみた。
 唐松神社のある羽後境はかつての宮田又鉱山への入口ともなる地であり、近くを走る国道13号線は何度も通っているし、境駅周辺も4年程前に車で巡っている。しかし、この神社には足を運んでいない。今にして思えばその時にもうちょっと調べておけば訪れたであろうにと悔いてしまう。

2018年8月6日月曜日

奥会津横田にある二本木橋の歴史(7)-参考とした資料

会津史学会『会津の街道』(歴史春秋出版社、1985年)
金山町教育委員会『金山の民俗』(金山町、1985年)
金山町教育委員会『金山町の文化財』(金山町教育委員会、1990年)
金山町史出版委員会『金山町史 下』(金山町、1976年)
渡辺一郎他「国道252号二本木橋災害復旧事業について」
http://www.hrr.mlit.go.jp/library/happyoukai/h26/c/05.pdf
岩崎誠他「国道252号 二本木橋災害応急復旧工事の報告について(豪雨災害発生~応急復旧工事完成まで)、http://210.148.110.37/library/happyoukai/h24/c/12.pdf
福島県史料集成刊行会『福島県史料集成第三輯』(福島県史料集成刊行会、1952年)
金山町役場『広報”かねやま”縮刷版』第1版~第5版
「土木学会付属土木図書館デジタルアーカイブス」
「橋梁史年表」より二本木橋・西部橋
国立公文書館デジタルアーカイブより「天保国絵図 陸奥国(会津領)」
国土地理院(http://geolib.gsi.go.jp/)における地図、空中写真


二本木橋は横田鉱山とは直接的な関係はない。だが横田鉱山社宅に帰るべき居所があった12年間の中でこの橋は自分にとってランドマークのような位置づけである。土倉に住む友人の家に行くときはこの橋を渡るし、大塩の温泉に入るときもそうである。横田鉱山の2度目の社宅は二本木橋から上横田方面に入り只見川のすぐ近くにあった。その橋が落ちてからは自分の消えてしまった想い出を取り戻すかのようにこの橋の歴史をたどってみようと資料を読んだ。現地に生活している人びとにとっては二本木橋は(西部橋もそうだが)父祖から続く生活史の中に染みこんでいるだろう。だが意外にもこの橋の来歴全般を記しているものには触れることがなく、ならば自分でたどってみようと思ったのがそもそもの始まりで、リタイア後の毎日が日曜日状態の時間潰しにも適していたようである。今年の4月頃から手をつけ、途中でサボったりして今やっと終えた。
生まれた地でもないし、親戚や親しい友人がいるわけでもない。だからこそなのか、この地が懐かしいし、愛着が薄れることはない。

奥会津横田にある二本木橋の歴史(6)

まとめの意味を込めて二本木橋の位置と西部橋の位置の変遷について以下に記す。



上図のa付近に天保年間に橋が架けられ、明治31年(1898)に木橋に変わり、大正2年(1913)にaの位置に木造吊り橋となり、昭和29年(1954)にコンクリート永久橋となってbの位置(aより約50m上流側)に架け替えられ、平成23年(2011)新潟・福島豪雨で落橋し、仮橋として約2年間運用された後の同25年(2013)に約270m上流側のCの位置に現在の二本木橋が架けられた。

一方、越川から西部に架けられた西部橋が最初に確認されるのはX地である。大正2年(1913)測図同3年発行の地図にはその橋が確認できるが、昭和6年(1931)修正後の地図(同8年発行)、および同27年修正後(同年発行)の地図には越川・西部間の橋は確認できなかった。同33年(1978)にはyの位置に橋長121.6m/幅3.5mの鋼下路ランガー桁橋が架けられたとある。そして前記豪雨で落橋して現在はzの位置に移っている。

 前にあげた大正2年測図の地図に比べて川幅が広くなっている。これはダムによって川が堰き止められた結果である。




















奥会津横田にある二本木橋の歴史(5)

天保期に架けられた二本木橋の名称が次に登場するのは明治31年(1898)1月のことである。仮に天保期に架けられた橋がこの年まで存続したとすれば約60年間近く利用され続けたことになる。この明治31年に新たに架けられた経緯や場所は特定できていない。二本木橋とあるからには前と同一位置かごく近場であったろう。「土木図書館デジタルアーカイブス」には、橋長58m/幅員2.7m 形式は木橋、と記されている。

 大正2年(1913)8月に洪水が発生し、現金山町内で二本木橋を含む3つの橋が流失してしまった。同11月には木塔の木造吊り橋が二本木橋となって新生した。架橋の様子は下の写真に示される。



吊り橋は昭和29年(1954年)に架け替え行われ、全長80m/幅員6mのコンクリート製永久橋と生まれ変わった。私の思い出の中に残っている二本木橋はこの橋である。前記吊り橋より約50m上流側に移った。架け替えの経緯は把握していないが、只見特定地域総合開発計画(只見川電源開発計画)の一環でもあったろう。伊北街道が国道252号と指定されたのは永久橋となって9年後の昭和38年(1963)のことである。
永久橋とされた二本木橋は下の写真である。



東日本大震災のあった平成23年(2011)7月29日、新潟・福島大豪雨によりこの永久橋/二本木橋は落橋してしまった。鉄道橋も消失した。近隣の2箇所の町道橋も落橋した。田子倉ダム下流に浚渫船があり、ダム放流によってこの浚渫船が流され橋を破壊したために鉄道橋や二本木橋が落橋したと、某駅にて某氏より聞いた。また、ダムがあるためにこの惨劇が起きたと主張する人たちがいることは確かである。
田沢橋も越川にある西部橋も落橋し、四季彩橋だけは高い位置にあったために無事であった。尚、新潟・福島大豪雨で浸水被害にあった人たちがダム管理者ニ社に損害賠償訴訟を起こし、裁判は続いている。

 兎にも角にも馴染みのあった二本木橋は消滅してしまった。この橋の重要性は極めて高く、すぐに仮橋が設けられ、新しい二本木橋が2013年に完成した。


















































奥会津横田にある二本木橋の歴史(4)

ここからやっと二本木橋が登場する。
横田と大塩の間に橋が架けられる契機になったのは一つの惨事からであった。二本木橋そのものの歴史はそこから始まり、現在に至っている。

天保4年(1833)から同10年まで東北に大飢饉が襲った。飢饉末期の天保10年6月(旧暦)、大塩にある宇奈多理神社に豊作祈願の意味も込めて芝居の奉納が催された。近隣の村々から人びとが境内に集まり、夜になり奉納が終わると横田方面の人びとは急ぎ足で帰途につき、船渡場に向かった。帰りを急ぐ人びとは船頭の制止も聞かずに舟に乗り込み、そして船は闇の夜の只見川に転覆してしまった。船頭を除く20名は皆川に流れ、後遺体となって発見された。
 この惨事に心痛め、架橋の必要性を強く思った名主たちが奔走し、天保12年(1841)に初めての橋が架けられた。地名をとって二本木橋と名付けられた。これが二本木橋の初代である。長さ約42m、幅3m余、水面より約19mの高さの橋であった。翌年には橋のすぐ近くに「長橋碑」が建立され、この碑は大塩から土倉に向かう入口にいまも見られ、Googleにても確認できる。


国立公文書館デジタルアーカイブにて「天保国絵図 陸奥国(会津領)」を見ると横田村と大塩村の間に橋が架かっている。これが前記する初代の二本木橋かと思ったが、「天保国絵図」の完成は天保9年であり、前記天保12年の架橋と年代が合わない。惨事が天保10年に起きたとするならば絵図の橋のように見えるのは橋ではなくて渡舟の経路を示しているのであろうか。しかし、絵図上の別の箇所で橋が描かれていない箇所には「舟渡り川幅二拾五間」との文字が確認できて渡舟であることが分かる。二本木橋と思われるところには単に「川幅弐拾間」とあるからこれは絵の通り間違いなく橋である。天保12年完成の橋が、天保9年の絵図に描かれている、この矛盾が分からない。また、「土木図書館デジタルアーカイブス 橋梁史年表」にて二本木橋を検索すると、1839年12月開通の下部工形式とあって、長橋碑に書かれている(とされる)年代と合致しない。この二つの年代の違いが何故なのか分からない。長橋碑の現物確認もせず、インターネットから掴むことの出来る範囲で調べている限界なのかもしれない。

 下図は上記の「天保国絵図 陸奥国(会津領)」を一部切り出したものである。






奥会津横田にある二本木橋の歴史(3)

横田周辺の地図は国土地理院のウェブにて容易に確認できるし、空中写真も古地図も見ることが出来る。空中写真の高解像度データも地図も取り寄せができて、手元には国土地理院から入手したデータや地図がある。それらを、例えば昭和22年(1947)、同39年、同51年の空中写真を並行して眺めると年月の経過と共に、只見川の川幅の変化や建物の変化、地勢の変化などが確かめられる。
生地でもなく,、短期間しか居住していなかった地ではあるが、かつての生活の場を空からの写真で眺めると懐かしさとともにかつての鉱山社宅での暮らしや学校生活、再び会うこともない人たちの50年以上前の姿が思い出される。鉱山生活者はデラシネの如くであるからこそ昔の生活の地を俯瞰してそこに自分の根を張ろうとしているのかもしれない。

 江戸期寛文年間(1661-1672年)まで伊北街道は越川手前で西部(にしぶ)側すなわち只見川北岸に船で渡り(地図3-1の図中①)、土倉-大塩-滝沢と通じる道が本道であった。越川手前で分岐した道は横田を通り上横田と田沢を経て小見の端村が終端となっていた。(出典は『会津の街道』。


 以下、『福島県史料集成第3輯』にある『新編会津風土記』を参考にする。巻84の大塩村には、「関梁 船渡場 村より巳の方にて只見川を渡し横田村に通す伊北郷より府下に通る道なり」とあって、大塩と横田の間に渡し船が利用されている(地図3-1の図中②)。田沢村の項にも「只見川 (中略)一里十八町横田村の界に入る小船を以て滝沢村に通す」とあり、対岸の滝沢に渡るのに随分の距離を廻り道するしかなかった。巻83の本名村の項目には「舟渡場 村より未の方大塩組越河村の通路にあり」「只見川を渡す伊北郷より府下に通る路なり」とある(越河は現在の越川)。すなわち、只見川を挟んで2箇所の渡し船が只見川を往復していた。尚、『新編会津風土記』は享和3年(1803)から文化6年(1809年)にかけて編纂されたものである。
文化文政期(1804-1830年)には上横田~大塩の船渡場の整備等が進み、横田を通り上横田で大塩に渡る道が本道になった。
地図3-1に示す①と②の船渡しの位置は『金山の民俗』に依った。

 滝沢・大塩側の人たちが江戸方面に向かうには大塩から上横田に渡り、四十九院の小さな峠(地図3-1の図中③)を上り下りして山入川辺に沿って南会津の布沢(ふざわ)に出た。ここからは前回に書いた駒止峠を越えて田島に抜けた。
 上記地図から時を経て四十九院峠のすぐ横に横田鉱山が稼行された。

2018年7月27日金曜日

奥会津横田にある二本木橋の歴史(2)

二本木橋のある会津横田は現国道252号線にあり、この道は旧街道で言えば伊北(いほう)街道である。伊北街道あるいは伊北道は一般的には馴染みがなさそうであるが、沼田街道(会津沼田街道)の一部といえば少しは分かりやすくなるし、ウェブ上で国土地理院の地図をみれば国道252号線には沼田街道の文字が確認できる。
沼田街道は群馬県沼田より会津若松を結び、江戸期、幕府直轄地である南山(みなみやま)御蔵入領を貫通する3本の街道がつなぎ合わされている。南から北に向かって上州街道-伊北街道-越後街道と結ばれる道である。伊北街道は気多宮(現会津坂下)から只見までの約16里である。気多宮から柳津までを柳津街道と呼んでいる場合もあり、その場合は柳津から只見までの約14里を伊北街道としている。
文献には会津田島や伊南(いな)から只見を通り六十里越・八十里越で魚沼や三条に抜ける道を越後裏街道と呼称する記事もあるが、新潟県津川から奥川-山都-喜多方-塩川を経由して若松に向かう道も越後裏街道とするものもあり紛らわしい。また、金山谷や伊北谷から若松に向かう場合は坂下通りや若松街道と呼ばれもした。以上は『会津の街道』に説明されていることで、一冊の本の中でも多様な呼称についてはきちんとは整理および説明されていない。

当初沼田街道は知っていても伊北街道の名が分からず、そもそも伊北はどこの地を指すのかも知らなかった。しかし、南会津の伊南村は知っていたのだからそれに隣接する地域が伊北であろうとはすぐに理解できたはずである。自分の貧困な想像力に落胆した次第。
現只見町地域がかつては伊北と呼ばれていたことにある。1952年までは伊北村であり後に只見村に改称され、現在に至っていっている。

田島から只見の間には駒止峠があり、旧伊北街道には駒啼瀬峠(現三島町)があった。駒(馬)も止まる峠、駒が啼かせられる峠と読めば、伊北街道の奥会津は峠を越えた山中奥深く、交通が不便であった地域であると容易に想像できるではないだろうか。

2018年7月26日木曜日

奥会津横田にある二本木橋の歴史(1)

横田鉱山社宅に住んでいた頃、近くには只見川が流れていて、そこに架かる二本木橋は私にとっては横田のランドマークのような存在だった。奥会津を車で走り横田を通過するときは必ず二本木橋の近くに立ち止まり、橋の上を歩き、少し距離をとっては写真を撮る。橋は小学生や中学の時の想い出が流れている場所である。水面が低くなっているときは川岸の岩まで降り、そのようなときは父親がときおり釣をやっていた。橋のすぐ近くには人びとが出入りする滝沢商店ヒロセが今もある。昭和30年代半ば頃と思うが、橋の上から幼女が落ちて死亡し、すぐ近くで駄菓子屋を営んでいた母親が泣き崩れた橋であり、秋田市から従姉妹が来たときは川幅の中心に立って写真を撮った橋である。

2011年に東日本大震災があり、原発の原子力事故があったその年の7月末に新潟・福島豪雨で金山町は大きな被害を受け、只見川の3箇所の橋が落ち、JR只見線の只見と川口間は不通になった。いまも線路は雑草に覆い被さっている。二本木橋も消失し、2年後には新たな橋が架けられた。橋が落ちる前年(2010年)、仮橋だった2013年夏、新二本木橋が完成した翌年2014年の春、さらにその翌年2015年の春と横田を訪れている。訪れる度に二本木橋周辺は変貌し、自分の思い出は希釈されていくようであった。
そのようななか、二本木橋の歴史を知ろうとして町史や郷土史を開いても何れも断片的で満足できないでいた。ならばと、自分なりに納得できるようにまとめようと思った。資料は手持ちの町史や郷土史、ウェブから集められる情報だけである。といってもそれ以外には何もないに等しい。
以下、何回かに分けて(脇道にそれながら)記載する。

2018年3月5日月曜日

鉱山つながりで栃木県某所にでかけた

さんざんサボっているこの鉱山関連のブログに対し、栃木県某町(以下Z町)在住の某氏(以下Aさん)よりメールをいただき、それが縁で3月1日にAさん宅に伺うこととなった。Aさんは「鉱山と鉱物などに興味がありいろいろやって」いらっしゃる方で、グーグルで鷲尾義男さんを検索したところ私のブログを知ったとのことである。鷲尾氏は会津若松市の駅近くに住んでいらっしゃった方で会津の民俗や鉱山に造詣の深く、私はその著作や他の鉱山関連の資料を求めて福島県立図書館などに足を運んだことがある。既に鬼籍に入られたと聞いた。

8時頃に東武線に乗り栃木県方面に向かった。この日は天気予報にて朝の強風や降雨への注意が呼びかけられていたが、自宅を出るそのときに雨は止み、風も気にするほどではなかった。しかし、気温が20度近くまで上昇するということで着たレインジャケット一枚ではまだ朝は寒かった。北関東方面に向かって電車に乗るのは、多分、酔って春日部駅を乗り過ごしたとき以来と思う。通勤時間帯に東京と反対方面に乗ると乗客は少なく、時間が経つにつれてその人数は減っていく。数日前に購入したワイレスレシーバーにShureのイヤホンを接続し、ケルティック音楽を耳に流し、建物が疎らになる風景をぼんやりと眺め、何回かの乗り換えを経て初めてのz駅に降りた。

駅に迎えにきていただき、ピックアップしてもらった車でAさんの自宅に向かった。閑静な住宅地にある家の玄関に入ると目に飛び込んだのは標本棚の鉱石で、これでもうAさんの入れ込み度合いがうかがえた。リビングに入るとまたもや鉱石-「鉱物」の方がより広い意味を有するが自分には「鉱石」がしっくりくる-が沢山並んでおり、本もある。本の背表紙を眺めると、私が図書館で写真を撮り、あるいは借りだしたものがあり、4~5年前に鉱山関連文献に取り組んでいた時間を思い出した。鷲尾さんの数々の著作や『東北鉱山風土記』、小和田淳さんの鉱山史の本等々、周りに鉱石、目の前に鉱山の本、美味しいコーヒー、・・・・幸せな時間である。友子の取立免状の原本を手にしたときも何といえばいいのだろう、感激であった。
2階に案内されて標本室に入ったときは一言でいえば喫驚、感激。いろいろと説明していただくなかで、掌にのる透明感のある鉱石をみればチェーンやピンを付ければ素適なアクセサリーになるなどと、そのアクセサリー化した不埒なイメージが頭に浮かぶ。正直、これらが誰のものでもなければポケットに入れたいほどであった。時間をかけ、自分の足で鉱石を捜し、あるいは購入し、その厖大な労力と集中する姿勢にただただ敬服するばかりである。

私が鉱石に触れたのは宮田又鉱山で生活していた幼い頃のことで、ガラス瓶の周囲をセメントで固めてそこに黄銅色の鉱石や水晶などを埋め込んだ花瓶は日常的に目にしていたし、掌にのる小さな鉱石や大きな重い鉱石も当時は珍しいものではなかった。珍しいものではなかったせいなのか特段の興味を抱くことはなかった。鉱石といえば宮田又時代を思い出すのであるが、横田鉱山時代には鉱石には特に思い出すこともない。鉱石花瓶の記憶もないし、社宅内に鉱石を置いていた人も思い出さない。宮田又鉱山時代から横田鉱山時代はテレビが一般家庭に普及する流れの中にあり、鉱山に働く人たちの関心も鉱石などの身近なものから乖離していったのではあるまいか。
現在、私の自宅にある鉱石は秋田大学鉱業博物館(通称)で購入した黒鉱のみで、秋田大学鉱山学部のシンボルマーク(?)が徴されたアクリル様プラスティックで固められている。

昼食をごちそうにもなり、昼過ぎには私が興味を示した鉱山機械の本や砲・列車砲の資料を貸していただけた。これは家に帰って眺め、コピーをとる心算。そして、私のために用意されていた「坑夫取立免状」のコピーと「日本の鉱山絵葉書」の第1~3集を頂戴し(現在は入手が容易くない)、本好きの私にとってはこの上もない嬉しさでいっぱいである。Aさんに深く感謝!

帰宅後、Aさんに奨められた『鉱物コレクション』をすぐに購入した。そして、かつて卒論作成のために集めた論文・文献のタイトルを久しぶりに眺め、当時とは少し違った視点(例えば明治期における鉱山への視点など)でWebcat PlusJ-STAGE、国会図書館、その他のWebにアクセスした。いくつかの資料をDLした。時間をかけて見てみようと思う。何か今までにない気付きがあるかもしれない。

<青木正博監修 『鉱物コレクション ~コレクターが語る鉱物の魅力~』(誠文堂新光社、2014年)>:写真が美しい。鉱物に魅せられた人たちはもうそこから出ることなく深く深く浸っていくばかりのかと思う。この本を読んでから「元素図鑑」を引っ張り出して眺めた。これも美しい。しかし、鉱物にのめり込むことはしない。それは多分に、富士山は登るものではなく遠くから眺めるものと思っていることと相通じるものがあるかもしれない(?)。秋田大学鉱業博物館で購入した『鑛のきらめき』を何年かぶりに開いてみよう。以前とは異なる思いでページを捲られる気も少しある。
コレクター、自分には関係ないと思っていたが実はそんなことはない。60年代70年代の内外のポップスは友人たちに呆れかえられるほどの曲数を集め楽しんでいるし(もうネタ切れに近い)、限られた範囲ではあるが、鉱山関連の資料をPCに入れてミニコレクターに近い傾向がある。
 元素、鉱物、鉱山史とたどると、それは宇宙(元素)-地球(鉱物)-人々の歴史-日本の歴史-鉱山史-個人史・・・・と連なり、自分は最後の方に立っているのだと改めて思う。もちろんそれぞれが別個にある訳でもなくてすべて一直線上に繋がっているわけで、全体を眺める視座をとりあえずはどこに置くのかということに過ぎない。・・・・段々と訳の分からないことを書いてきているようでもありこの辺でやめておこう。

2018年2月6日火曜日

連絡のお願い

 (鉱山関連ではない)もう一つのブログには暇に任せて独り言を書き続けているが、鉱山関連のこのブログでは昨年の5月末から離れてしまっている。鉱山関連の書物は開かなくなってしまったし、正直ネタがなくなってしまったというところである。横田鉱山近傍にあった二本木橋の歴史をまとめようと思って資料も集めたが、鉱山には関連がないので前に進まないままにいる。

 そんな中、私のブログを読まれた方から「連絡先」にコメントをいただいた。鉱山と鉱物を調べており、昨年は横田鉱山を訪れたと記されている。また、「機会を作ってお会いしたい」ともあった。
 返事を差し上げようと思ったが、連絡先が判らない。それで、もし、これを読まれていましたら、次のメールアドレスに連絡していただければありがたいです。         takahac.toc@gmail.com
 あるいは、私のブログの「連絡先」にメールアドレスをお書きなって再度コメントをいただければ、公開することなしに私から返信したいと思っています。宜しくお願いいたします。