横田鉱山が金山町からどのように捉えられていたのか、『広報かねやま』に見る。
鉱山という枠組み
鉱山社宅地域は、金山町の地区割りでは上横田地域に入るのであるが、持ち回りに近い形で任命される地区長には一度も立っていない。また、町のイベントの表彰などでは人名と所属地区名が併記される。たとえば昭和40年(1965)6月の『広報金山』第12号には「横田(鉱山)」のように鉱山関係者であることが括弧書きで付記されている。町は既存する地区に鉱山社宅地域を形式的に組み込むが、意識は鉱山という枠に組み込んでいる。象徴的であるのは、同46年1月、町の新たな開発を議題とする座談会にて、農業組合長が「あの鉱山の中で働いている労務者」という突き放した言い方をしている<36>ことにある。
鉱山への期待、鉱害への意識
金山町の人口は昭和35年(1960)に「滝発電所建設工事にともなういわば太りすぎ」<37>で10,119人となった。工事完了を境にして急激に人口減少が始まり金山町は過疎を意識するようになる。町内に産業もないために同44年3月の調査では全1,667世帯から約200人の出稼者数を数えた<38>。
鉱山開発促進事業団の探鉱ボーリング開始が契機となって、金山町は鉱山開発の促進を期待している。その一方では鉱害への意識も強まった。開発促進と鉱害・諸問題対策への対処をうたい、昭和43年(1968)、町は「鉱山対策特別委員会」を設置した<39>。町の黒鉱開発への期待は大きく、ボーリングの本格的開始を同43年の町政重大ニュースの2位に上げている<40>。しかし、日曹金属会津工場のカドミニウム汚染に関連して同45年に横田鉱山の排水調査を行なった<41>。
昭和45年(1970)に、町を4地域に分け、町の未来発展について町民意識調査を行っている。「町は今後発展する見込みがある」と応えているのは横田地区で47%であるが、他の3地区は30%以下である。「今後は現状より悪くなると思う」のは横田地区で7%であるのに比して他の3地区は26~33%となっている<42>。横田地区のみが突出して他地区と異なるのはこの地区に鉱山(横田鉱山と後述する田代鉱山)があることに起因していることは容易に推定できる。それだけ横田地区の人びとは鉱山に期待していた。
昭和47年(1972)3月の横田鉱山閉山にあたって町は対策を協議している。それは、休業後も探鉱を継続し早期再開を図ることを求め、人口流出防止のため鉱山に新規事業の誘致を要請するものであった。過疎の進行を防ぎたい目的である。要請と併せて、将来の地盤沈下への保安対策、公害防止も要求している。
産業のない、過疎の進む町にとっては、たとえ小規模の鉱山であっても、そこに労働力供給の永続性と人口流出の防止弁であることを強く望んでいる。「鉱山に新規事業の誘致を要請」するのは、産業の形態を問わないことを意味している。国や県に横田鉱山の保護・再開・新規事業誘致への配慮を陳情するのは、町の過疎対策、すなわち、雇用供給対策でしかなかった。だが、そのような陳情を行っても町の希望が叶えられるはずもないことは、冷たい言い方ではあるが自明であろう。
金山町の地場産業への取り組みは現在も続いていて、様々な活動が行われている。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
<36> 「只見中線の開通と地域開発」『広報かねやま』(金山町)第74号昭和46年(1971)1月7日:3頁5段。
<37> 只見川電源開発計画によって只見川には多くの発電所が建設された。金山町内のダム式の発電所は、上田発電所・本名発電所が昭和27年(1952)から着工となり、続けて同34年に滝発電所が着工した。ダム建設では工事に従事する労働者で金山町の人口は一時的に増え、同35年に10,119人に達した。大滝地区にある滝発電所の工事関係者の児童急増により、大塩小学校は増築を行っている。
<38> 「部落別出かせぎ者数調」『広報かねやま』(金山町)第58号昭和44年(1969)6月7日:2頁。
<39> 「鉱山対策特別委員会設置」『広報かねやま』(金山町)第43号昭和43年(1968)3月20日:4頁4-5段。
<40> 「今年の町政十大ニュース」『広報かねやま』(金山町)第52号昭和43年(1968)12月7日:3頁1-2段。
<41> 「カドミュムは心配なし」『広報かねやま』(金山町)第72号昭和45年1970)11月7日:5頁4-5段。
<42> 「どうなる町の未来」『広報かねやま』(金山町)第64号昭和45年1970)2月7日:2頁5段。
この調査における4地域とは川口地区・本名地区・沼沢地区・横田地区であり、この場合の横田地区は図Y-4の横田生活圏と同じである。また、図Y-3の昭和15年の4村が地区割りの基礎になっている。