2016年11月14日月曜日

農中茂徳 『三池炭鉱 宮原社宅の少年』

鉱山に関するブログが続かなくなった。強く興味を持っているのだが如何せん最近はまったくこのテーマに触れるようなことはしていない。
それで、鉱(砿)山に関するものは読書を含めてこちらに記そうと思い、先ずはもう一つのブログの方に書いた本のことをこっちに移転した。最初に載せたときの日付は変えていない。

<農中茂徳 『三池炭鉱 宮原社宅の少年』(石風社、2016年)>:朝日新聞に文芸評論家・斎藤美奈子の評価が載っていた。炭鉱・社宅の二つの言葉に惹かれ、時代的には著者が3才年上で自分と重なる。炭鉱が鉱山であれば尚良しであるがそれはしようがない。すぐに読みたくなるが、朝日新聞に載っていたせいであろう、アマゾンもヨドバシも楽天ブックスも、他のネット書店でも在庫がない。増刷を待って購入し読んでみた。しかし、期待が大きければ落胆の度合いも大きいとの箴言を味わうこととなった。(大学時代も描かれるが)少年の頃の思い出を淡淡と記しているだけで、「三池炭鉱宮原坑跡は昨年、ユネスコ世界文化遺産のひとつに登録された。そのすぐ側にあった暮らしがいまはない。クラッとするような感覚に襲われる」という斎藤美奈子の「クラッとする感覚」は皆無である。かつての炭鉱社宅での生活史としての価値はあるであろうが、自分にとってはつまらない深味のない記録本であった。

2016年11月8日火曜日

明治41年頃の田代鉱山(3)

明治41年頃の田代鉱山を調べていたなかで気付いたことを記しておく。

何回も取上げている『黒鉱鉱床調査報文 第二回』には「田代鉱山地形及地質図」が提示されており、鉱床のあった大松沢と志保沢の位置が確認できる。しかし国土地理院のHPあるいは取り寄せた地図に志保沢の名称は確認できていない。小さな沢であるからそれはやむをえないと思っているが、大松沢については疑問が出ていた。昭和40年測量昭和42530日発行の地図(国土地理院に複製を依頼したもので縮尺25千分の1)には大松沢ではなく金山沢とされている。国土地理院のHPから見る同じ昭和40年の地図では大松沢となっていて気になっている。もっともこれ以上はいまは調べようもないが。

上記の大松沢近辺の地図を眺めていたら、只見川を少し下ったところ(地図上では東北)に流れる霧来沢があり、その沢の支流ともいえる大松沢が別にあった。10kmも離れていないところに大松沢が2箇所ある。ならば大松沢という名称には共通する由来があるのではないかと思い、ネットで探してみたらつぎのような記述にあたった。すなわち「マツサワ(松沢)は山に纏わりつくように流れている沢。あるいは松の木が生えている沢」であり、その規模が大きくなれば「大」の冠が付くのであろう。出典は戸澤敬三郎『地名へのいざない』(私家版、2010年)を引用しているネット記事からの孫引き。

大正2年(1913)測図の地図、その測図に昭和6年(1931)要部修正した地図があったので国土地理院から複製を取り寄せた。5万分の1なので何か新しいことがわかるとはさほど期待していなかったが、三つのことが確認できた。一つは大正2年に二本木橋がかかっていること。即ち前々回の註記2に示すように確かに大正2年にはこの橋が存在した。二つには大正2年測図においては、大松沢入口付近から横田村への橋がかかっていることである。居住地のある西部地区からは離れた位置であり、鉱山への道もあった大松沢の入口に接していることから、これは田代鉱山運営のために架けられた橋であろう。三つにはこの橋が昭和6年要部修正では消えていることである。

『黒鉱鉱床調査報文 第二回』を読んでいて明治の頃の田代鉱山に触れてきたが、これでお終いとする。PCに向かってこの鉱山を調べるのは限界となった。かといって現地に足を運んで調査する気持はない。ただ言えることは、こうやって地図や資料を見ていて当時の鉱山の様相に思いをめぐらすのは楽しいことではある。つぎに会津横田を訪れるとき(来年ヵ)は立ち寄る場所を増やすことになりそうである。

 下は一昨年5月に四十九院から上横田・土倉を眺めた写真で、中央よりやや右側に高く見える山は高森山(田代山)で、左側の人家より上に伸びている山は袖山である。



2016年11月7日月曜日

明治41年頃の田代鉱山(2)

『黒鉱鉱床調査報文 第二回』に描かれる田代鉱山の概要
明治41年の田代鉱山は福島県岩代国大沼郡大瀧村大字大塩字田代にあって、只見川畔の一村大塩村より東北一里の渓谷にあって、当時は鉱山によって大松沢に沿って新道を開墾しており、それが開通すると大塩村を迂廻せずに横田村の東〇(判読できず)にでることができ、柳津まで一里の短縮になる計画であった。
物資は坂下町あるいは若松から供給していた。横田村までは馬車か牛車を利用するが横田村から鉱山までは馬や牛の背に乗せており、冬になれば坂下町から宮下もしくは水沼道は橇を用い、そこから先は人が背にして運ぶしかなかった。若松から鉱山まで物資の運賃は、百貫につき平時は530銭だが冬になると5割増しになった。奥会津は交通の不便さと冬の雪がいつも発展の妨げになることは現在まで変わりはない。
1838(天保9)年頃、鉛山として稼行したことがあるらしい。明治38(1905)1月に若狭七之介ほか4名で稼行し、小規模な銅製錬を行っていたが、半年後の同年7月からは久原房之助が譲り受けて探鉱をしている。使役人は坑夫11名、車夫16名、選鉱婦4名で、賃金はそれぞれ55銭、50銭、20銭であった。ちなみに明治39年の東北金銀山における一日の平均賃金は次のようである<1>。坑夫が52.3銭、運搬夫が35.7銭、選鉱婦が11.1銭であった。久原の日立鉱山では坑夫が72銭、運搬夫が44銭、選鉱婦が18.5銭であった。採鉱の難易度、労働奨励金や精勤手当、生活品の支給などの違いがあるため、ここでは賃金の多寡は比較できない。いえるのは田代鉱山の賃金は他山に比して格別に高くもなく低くもないということである。
前回に示した図を参照しながら記すと、大松沢沿いのa地域には高盛鉱床と俎倉鉱床があり、志保沢近傍b地域に志保沢鉱床があった。高盛鉱床が最も大きく探鉱も進んでおり、その近傍cの辺りに鉱山事務所があった。鉱床の位置は2016821日のブログに示す図Y-9(0)も参考になろう。

悲観的な展望
前記報文において、鉱山経営についてはかなり悲観的な意見が論じられている。すなわち、田代鉱山は運搬上極めて不便な辺陬(へんすう)の地にあって、且つ鉱石は亜鉛鉱を含み鉄分が少ないので製錬するには多量の溶解剤を要する。しかし溶解剤運搬には多額の運賃を要し、また粉鉱が多いので〇鉱<2>する必要もあり得る。更には製錬すべき鉱石の銅分が貧弱で金銀も全く含有していない有様なので遠方より溶解剤を運搬することは到底稼行するに能わない。かといって鉱山付近に望むことは困難である。
悲観的な意見が述べられた後希望的観測も併記されている。それは、用水用材には障害がないし鉱量も多く、探鉱がうまくいけば多少の増量もあるだろうし、手選鉱にて銅の含有品位も3%位にすることは決して難事でもない。だから溶解剤を得るか、なるべく溶解剤なしで製錬できれば幸いである。そして磁選鉱あるいは浮選鉱を施せばもしかしたら好結果を得ることもあるかもしれないと結んでいる。
要は明治41年時点で鉱山経営への見通しは暗く、あるのはもしかしたら上手く行くかも知れないという観測であった。しかし、『東北鉱山風土記』<3>の田代鉱山の項には一時は従業員300名にも達して製錬を行い大きな業績をあげたと記されている。これがいつの頃のことなのか私には判っていない、というよりも「従業員300名で大きな業績をあげた」という記述を他の資料から見出していない。交通不便な田代の山中で300名も鉱山労働に加わっていたならば、近隣在所にその住居や生活の記録、記憶が残っていても良さそうであるがそれがない(少なくとも私はみつけていない)。
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<1> 農商務省鉱山局『鉱夫待遇事例』(農商務省鉱山局、1908年)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801074
<> 判読できないが「粉鉱を固める」の意であろうヵ。
<3> 和田豊作『東北鉱山風土記』(私家版、1942年)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1060452

2016年11月6日日曜日

明治41年頃の田代鉱山(1)

秋田県/宮田又鉱山や奥会津/横田鉱山を調べているなかで、横田鉱山近傍の田代鉱山についてもブログのなかで触れてきた。この鉱山についてはもう少し追加してメモしておこうと思う。
記述にあたってはほとんどを『黒鉱鉱床調査報文 第二回』<1>を参考としている。国会図書館からダウンロードしたpdfは文字の解像度が低く、また字画数の多い旧字もあり誤読している漢字があるかもしれないが、そこは想像力を働かせて読み解くこととする。

『黒鉱鉱床調査報文 第二回』の執筆者をめぐって
明治41年(1908)に『黒鉱鉱床調査報文 第一回』が、3年後の同44年に第二回が上梓されている。第一回・第二回を通して、黒鉱鉱山43鉱山が詳記され、秋田県の16鉱山に次いで会津の鉱山は7山が載っている。二つの報文は農商務省鉱山局技師の平林武が執筆しており、Wikipediaによると平林武は1872年生まれ(1935年歿)の鉱床学者で「黒鉱」を定義し、「黒鉱鉱床」の成因解明に端緒を開いたとある。鉱山に関する資料であるこの報文に「平林武」の名を目にしたときはすぐに「平林武雄」に結びついた。平林武雄は横田鉱山に勤務し、探鉱調査の報告を行っていた人物で、私(筆者)が両親とともに横田鉱山社宅に生活していたときその人は近隣の役職者社宅に住んでいた。専門とする職業や氏名から思うに、平林武と平林武雄は父子あるいは縁戚関係にあろうかと想像している。
鉱床探査と鉱石分析というような高度な専門技術職であったために平林は一般的な鉱山労働者からは一目置かれ、ためにやっかみのような気持ちも抱かれていたのではないかと思う。あくまでも私の空想めいたことである。平林さんを揶揄するように大人の人たちが喋っていた「たいらばやしかひらりんかいちはちじゅうのもーくもく」を耳にして以来その言葉はいまもって記憶に残っている。

田代鉱山の周辺
下図はGoogle Earthをキャプチャーし地名などを追記したものである。昭和35年(1960)以降の田代鉱山本山は左側の「田代鉱山(大塩)」の位置にあり、それ以前は右側の田代鉱山にあった。
Google Earth の画像取得日は20151015日となっており、明治41年からは108年が経っている。明治41年当時は只見川にかかる橋はなく、横田地区と大塩・土倉地区の間は舟渡しであった<2>。図中左側に見える橋は4度目の橋である。図で見る只見川は満々とした水の流れであるが、それは発電所のダムに堰き止められているからであり、ダムのない明治の頃、水面は下に落ちており只見川は渓谷の様相を示していた。よって舟渡しと言っても道路との間には上り下りがあり利用するには労苦があったと思われる。
田代集落を経て頂上まで登られる高森山は地元では田代山と呼ばれており、私が小学生の時には学校の行事で年に1回その頂上まで登っていた。尾根は狭く、うっかりすると転落するほど危険であったが、頂上から見下ろす奥会津の地は素晴らしかった。頂上を目指す途中の平地(田代集落地区)に人家を見たときは、こんな山の中に人が住んでいるのかと驚きを覚えたものである。現在その地には居住者はいない筈である。55年ぶりほどに再び山の頂上に立ってみたいものだが独りで出向く勇気がない。



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<1> 農商務省鉱山局『黒鉱鉱床調査報文 第ニ回』(農商務省鉱山局、1911年)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847345 。『黒鉱鉱床調査報文 第一回』も国立国会図書館デジタルコレクション にて閲覧およびダウンロード可能である。
2016821日ブログ「奥会津横田鉱山⑨ - 田代鉱山、そして鉱山の終焉」の註記にて同文献の発行年を1922年と記入しているのは1911年の間違いだった。
<2> 『広報かねやま』(金山町)6月号[234]昭和59年(1984610日:1頁。
       二本木橋の渡り初めの写真を指して、「この橋(二本木橋:筆者註)がかかったのは(中略)大正2年ごろではないかな。この橋がかかる前は西部や滝沢と同じように、舟渡しだった。(中略)今の(昭和59年当時:筆者註)橋は、三度目の橋で、国道にもなっているので、(後略)」。

2016年9月13日火曜日

コメントがありました

私的で狭い範囲でしか書いていない鉱山の記事に初めてコメントをいただいた。「201685日金曜日」の「宮田又鉱山⑬ - おわりに」に公開されている。
宮田又鉱山の地における空間と時間に浸った気分になり嬉しくなった。

秋田を訪れたのは2年前で、そのときは秋田市旭南にある両親の墓のあるお寺、県立図書館、秋田大学鉱山博物館、県立博物館、宮田又鉱山跡地や大盛館などを訪れ、ついでに秋田市役所に近接する酒処で痛飲した。それから2年が経ち、自分の拙いブログに大仙市在住の方からコメントをいただき、再び秋田に行きたくなってきた。親戚と顔を合わせることもないし、行くところといえば飲み屋さんくらいしかないのだが。(コメントをくださった方の地、大仙市には刈穂・福乃友・秀よしの銘酒がある-すべて飲んだことがある。)

google傘下のbloggerでのブログであるせいであろう、この拙いブログは私の予想を超えた拡がりでアクセスされている(アクセスされた)。トータルのアクセス回数は僅かではあるが、1回でもアクセスした国は多い順に日本・アメリカ・フランス・中国・オーストラリア・ラトビア・ロシア・サウジアラビア・ドイツ・香港であり、日本以外の国名を見ると気恥ずかしさが先に出てくる。

宮田又鉱山や横田鉱山などに関して何か情報をお持ちの方がいらっしゃったら、ブログのコメントに限らず、下記のアドレスにメールをいただいても有り難いです。
 takahac.toc@gmail.com

2016年9月2日金曜日

中学同級生の名字

小学校2年の時に秋田県から奥会津/金山町横田に移ったとき、馴染みのない名字に触れたことが印象に残っている。秋田県に居住していた時には三浦・佐々木などを耳にしていたことを覚えている。ところが、横田に来たときは、菅家(かんけ)や須佐、横田、奥などは初めて知った名字であった。世の中に多くある田中や高橋、佐藤は一人もいなかった。どんな名字が身近にあったのかそれこそ身近な資料でちょいと分析してみた。

 『若い芽 昭和39年度卒業記念文集 大沼郡金山町立横田中学校』が手もとにある。学校長による巻頭言に続いて頁を捲ると「卒業生に送くる(ママ:筆者註)言葉」になり、教頭を筆頭に8人の教師の言葉が記載されている。そして同級生94人の50年前の文章を読むことが出来る。文集に掲載されていない一人を加えて95人は男50人、女45人である。95人の名字は下図のようになっている。




菅家は金山町で一番多い名字である。渡部は3番目、滝沢は5位、横田は9位である<1>。“菅家”は菅原家が縮まったものであると何かで見たことがある。また、菅家=菅原家は会津山内氏にも繋がる。“渡部”は福島県に多く、サラリーマン時代の私の知人渡部某は自己紹介の時には「“ぶ”のわたなべです」と一々断わっていた。“横田”は地名と同じで、“奥”は土倉集落に集中し、 “滝沢”も滝沢という集落があり、“新国(にっくに)”は只見町に多く、“三瓶”も同じ。会津に多い“目黒”は二人で、“栗城”は一人だけ。同じく会津に多い“星”はいない。“五十嵐”は新潟から会津に多いらしく、高校同窓の親しい友人に二人いる。“須佐” については分からない、
鉱山社宅に住んでいた者は上図の太字で示した奥井・御法川・高橋・白川で、横田に居たときに地元の人でこの名字には出会ったことはない。
ちなみに、就職してから“星”さん3人と知り合った。「会津に縁がないですか」と尋ねたら3人とも会津に関係していた。一人は我が家の裏の星さんで田島町(現南会津町)出身、一人は会津に親戚がおり、もう一人は父親が私の高校の先輩だった。ついでに書くと、私が勤務していた会社の同僚である“栗城”は母親が金山町の出身で、夏にはよく金山町を訪れていると言っていた。

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<1> 「奥会津金山町観光物産協会official」(http://ameblo.jp/town-kaneyama/entry-12001020748.html)より、2016年8月30日。































2016年8月30日火曜日

横田小学校、横田中学校

福島県横田鉱山の社宅に住んでいた頃、通学していた小中学校は大沼郡金山町立横田小学校および横田中学校であった。小学校は現在もまだ存在するが、中学校は2009年に廃校となり金山中学校に統合された。金山町にはかつて中学校は3校あったのだが、現在は金山中学校1校となっている。町は過疎化が進んでおり、2015年現在横田小学校は全校生徒11人、金山中学校は同じく32人でしかない(http://www.gaccom.jp/、2016年8月29日)。
私が横田中学校を卒業した1965年の集合写真を見ると1クラスが47人と48人の2クラス、合計95人が在籍していた。ちなみに昭和40(1965)の横田小学校全校生徒数は197/6クラスで<1>、横田中学校は同じく227/6クラスであった。金山町全体での小中学校生徒数は1,735人であった<2>。それが今、201681日現在では全町民人口が2,203人である(金山町HPより)。広報には「児童生徒数の社会的増(ママ:筆者註)は鉱山関係に期待される以外は、工場誘致でもない限り見込めない現在、年度毎の減少傾向は、(昭和:筆者註)45年以降も続くものと予想され、町学校教育の重要な課題となっているのであります」と記載されているが<3>、鉱山の閉山と50年後の今を想像できえたであろうか。

私は横田小学校・横田中学校の卒業アルバムを持っていない。紛失したとかではなく、卒業アルバムはもともと製作されていない。手もとにあるのは集合写真と卒業記念文集の二つだけである<4>。その集合写真にしても生徒の氏名が書かれたものはないので、今となっては写真に写っている同級生が誰なのか判らない人も多い。文集に記載されている名前を参照し、確実に特定できる人と、多分この人であろうと想う人数を合計しても、47人中9人が分からない。これは私が在籍したクラスの場合であり、学年すべてに渡ると95人中31人が分からない。特に女性のほうが分からない。見覚えはあるような気がするだが
そもそも、小中学校とも校歌なるものがなかった。中学3年の時に校歌を作りたいと行動したのであるが、実現しなかった(経緯は記憶している)。自分が在籍する学校の校歌を歌えるのは会津高校入学後からであった。

2年前の2014年に、2009年現在の同級生の住所録を入手できた。83人の名前が載っているのだが2人については全く記憶がなく、卒業文集にもその名はない。「昭和44年度 金山町成人者名簿」にも掲載されていない。なぜなのか、誰なのか、さっぱり分からない。

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<1> 現在横田地区には横田小学校1校しかないが、昭和40年には横田小学校以外に横田小学校山入分校・大塩小学校があり、3校を合計すると学童数・クラス数は399/15となる。
<2> 『広報かねやま』(金山町)第10号昭和40(1965)31日:2頁。
<3> 前掲註11頁。
<4> 写真に写っている人数は合計95人だが、卒業文集に載っているのは94人でなぜか一人が文集から欠けている。しかし、現在も地元に居住しているようである。

2016年8月23日火曜日

その他の参考文献

「日本の鉱山の概要」「宮田又鉱山」「奥会津横田鉱山」の註記に記載したものを除く。

秋田大学大学院工学資源学研究科附属鉱業博物館『鑛のきらめき』秋田大学大学院工学資源学研究科附属鉱業博物館、2014年。
礒辺欽三『無宿人 佐渡金山秘史』人物往来社、1964年。
金山町役場『広報”かねやま”縮刷版』金山町役場、1977年。
福島県立博物館『企画展 ふくしま 鉱山のあゆみ-その歴史と生活-』福島県立博物館、1992年。
国立科学博物館『日本の鉱山文化』財団法人科学博物館後援会、1996年。
通商産業大臣官房調査統計部編『本邦鉱業の趨勢50年史 続篇』通商産業調査会、1964年。
文化庁文化財部記念物課『近代遺跡調査報告―鉱山❘』文化庁文化財部記念物課、2002年。
吉岡宏高『明るい炭坑』創元社、2012年。
桶谷繁雄『金属と日本人の歴史』(講談社学術文庫)講談社、2006年。
国民生活調査会編『日本の国民生活 働くものの職場とくらし』三一書房、1955年。
斎藤實則『あきた鉱山盛衰記』秋田魁新報社、2005年。
三浦豊彦『日本人はこんなに働いていた ―聞き書きのなかの働く人びと-』(労働科学叢書105)財団法人労働科学研究所出版部、1997年。
秋元勇巳「我が国鉱業の現状と21世紀の展望」(資源・素材学会『資源と素材』第114巻第6号、1998年) https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigentosozai/114/6/114_6_389/_pdf
松本通晴「鉱山労働者の生活史調査」(社会学研究会『ソシオロジ』第102号、1988年)。
沢田猛『石の肺 ある鉱山労働者たちの叫び』技術と人間、1985年。
竹田和夫編『歴史のなかの金・銀・銅』勉誠出版、2013年。
渡部和男『院内銀山史』無明舎、2009年。
萩慎一郎『近世鉱山をささえた人びと』(日本史リブレット89)山川出版社、2012年。
有沢広巳編『現代日本産業講座Ⅱ』岩波書店、1959年。

2016年8月22日月曜日

奥会津横田鉱山 - 修正

「奥会津横田鉱山⑥ - 鉱山社宅の生活」にて以下を追記
「社宅」の箇所の(*)。戸数をより詳しく記述した。
「福利施設」の箇所の(**)

奥会津横田鉱山⑩ - 横田鉱山、その後

秋田県小坂鉱山のように大規模な鉱山は事業形態を変遷させながら継続し、町は長年にわたって培われた鉱山文化の記憶を継承・活用し未来へつなごうとしている。しかし金山町の横田鉱山や田代鉱山は記憶が薄れる一方でもはや鉱山の記憶すらないようである。実体として残っているのは、現在不通となっている只見線会津横田駅近くに「鉱山第二踏切」の標識があり、かつて横田鉱山があったことを微かに思い出させてくれるようである。

Y-11は昭和34年(1959年)頃の横田鉱山選鉱所であり、図Y-12は同57年の選鉱所廃墟正面からの撮影である(8mm撮影から切り出したため粗い絵となっている)。図Y-13は平成26年(20145月に、図Y-11とほぼ同じ場所から同方向に撮影した写真である。山の上に立つ木々の姿が55年経っても似ているように見えるのは私の思い入れの強さのせいであろうか。






平成26年(2014)の5月、偶然にかつての小中学校の同級生に会うことができた。たまたま横田小学校で「横田大運動会」が催されており、そこに立ち寄った。子供と一緒にいた30代の女性に尋ねたところ、横田小学校の運動会であるのだが全校生徒12名しかいないので、住民を含めた地区全体の運動会としているとのこと。その女性に私もここの卒業生ですよと口に出し、話の中で、昔横田鉱山があったときに住んでいて今は誰も知る人もいないと言ったら生年を聞かれ、それに答えたら旦那さん経由で一人の同級生を紹介してくれた。何と中学卒業以来の再会で、更に女性一人と男性3人の同級生がいた。幾つかの偶然が重なって彼らと再開することができた。
いろいろ話をしていると還暦を迎えたときに東山温泉で33人が集まって還暦祝いを実施したらしい。行方知らずになっている私の所には案内が来るはずもなかったのであるが、参加できなかったことに寂しい、やるせない気持になった。海外在住の人や、地元を離れている人たちは、横田に住んでいる親兄弟などに住所を確認し連絡をしたらしいのであるが、デラシネの鉱山生活者には地元に残っている人もおらず、確認のしようもないのが現実である。
その後還暦の祝いでの集合写真や同級生の住所録を送ってもらった。写真ではすぐに分かる人もいれば名前をみても全く覚えのない人もいた。住所録には横田中学校の昭和39年(1964)度卒業生95人のうち80人が載っていた。横田鉱山社宅に住んでいた者は4人いたのであるが、私も含めて4人とも名前すら記されていなかった。


























































































2016年8月21日日曜日

奥会津横田鉱山⑨ - 田代鉱山、そして鉱山の終焉

只見川を挟み、横田鉱山の対岸850mに田代鉱山があった。横田鉱山が閉山となった後、金山町はこの田代鉱山に多大な期待を寄せることとなる。横田鉱山と田代鉱山が並立する昭和44年(1969)頃からは「黒鉱の町金山」への思いが膨らんだ。田代鉱山は、操業開始に向けて総従業員のうち76名を地元から採用することを予定した<43>。そして、会津線(現只見線)会津大塩駅付近の一帯に選鉱所、社宅55戸、独身寮1戸、物品販売所を建築した<44>(図Y-9)。これら鉱山設備は採鉱地域からは約800mの距離にあった。




田代鉱山の沿革
天保年間(18301843)に発見され、明治38年(1905)に久原鉱業の経営となったが、鉱石の運搬交通の不便さなどで休山となり、昭和13年(1938)日本鉱業下で手堀が開始された。探鉱・試錐を続けたが戦争で中断し、同30年探鉱・試錐が再開された。同36年に田代鉱床(Y-9(0)の高盛・俎倉・志保沢)から約2kmの位置に大塩鉱床を発見し、同42年に日本鉱業株式会社より高玉鉱山株式会社が鉱業権を譲り受け、同46年に操業開始となった<45>

鉱山への期待と落胆 
大塩地区には月産1万トンの選鉱所が完成し、過疎化に悩む金山町にとって「黒鉱」は未来を切り開くものであった。しかし横田鉱山が休山し、昭和46年(1971)から同47年にかけては人口の減少に拍車がかかった。田代鉱山への町の期待は膨らみ、3カ年にわたり、総事業費2,500万円を投資して田代鉱山の専用道路ともいうべき町道を完成させ、自動車による祝賀パレードも行うほどであった<46>
そのような期待をひっくり返すように、田代鉱山は昭和48年(19738月、急激に町に休山を通告した。僅か28ヶ月での休山であった。従業員86人のうち63人が町内出身者であり、横田鉱山に続く田代鉱山の休山は地元民にとっては「鉱山はもうこりごりだ、ドー(銅)にもならない」<47>という気持ちであった。
横田鉱山と田代鉱山の社宅はそれぞれ上横田地区と大塩地区にあった。『広報かねやま』より集計した各地区の世帯数変化を図Y-10に示す。鉱山の閉山時期に合わせて世帯が大きく減少している。
既存の集落に暮らす人たちと鉱山生活者の両者が溶け込んで新しい風土を作るには長い年月が必要であるが、横田鉱山は開発開始から17年であっさりと姿を消し、それに代わる期待を集めた田代鉱山は操業開始後わずか3年足らずで姿を消した。
他所から移ってきた鉱山社宅生活者は再び他の土地へ移動し、鉱山がなくなった集落は長年にわたってその残骸を眺め続けることになった。
鉱山に雇用機会の創出を願う町は、鉱山経営の内実に対しては鉱山側から説明を受けるしかない。従って、休山の告知は急激に知らされることとなる。集落の中に操業する鉱山とその集落との関係性は、一時的な操業期間における土地と労働力の需給の関係でしかない。過疎で悩む金山町はその関係性が強かった。だからこそ大きな期待と大きな落胆であった。



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<43> 「黒鉱開発急ピッチ」『広報かねやま』(金山町)第55号昭和44年(196937日:21-4段。
<44> 『田代鉱山の概要』パンフレット(高玉鉱山株式会社田代鉱業所、1970年)東日本旅客鉄道会津川口駅所有。
<45> 14『東北鉱山風土記』424頁。
44『田代鉱山の概要』。
農商務省鉱山局『黒鉱鉱床調査報文-2回』(農商務省鉱山局、1922年)72頁 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847345
栗山隆勝ほか「田代鉱山の開発について」(日本鉱業会『日本鉱業会誌』第881011号、1972年)241-244頁 https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigentosozai1953/88/1011/88_1011_241/_pdf
松田芳典ほか「田代1万t/月選鉱工場の建設と操業について」(日本鉱業会『日本鉱業会誌』第891022号、1973年)259-261頁 https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigentosozai1953/89/1022/89_1022_258/_pdf
<46> 「田代鉱山の産業道開通」『広報かねやま』(金山町)第91号昭和47年(197267日:2頁。
<47> 「町政の窓」『広報かねやま』(金山町)第106号昭和48年(1973913日:26段。

































2016年8月20日土曜日

奥会津横田鉱山⑧ - 広報紙に見る鉱山

横田鉱山が金山町からどのように捉えられていたのか、『広報かねやま』に見る。

鉱山という枠組み
鉱山社宅地域は、金山町の地区割りでは上横田地域に入るのであるが、持ち回りに近い形で任命される地区長には一度も立っていない。また、町のイベントの表彰などでは人名と所属地区名が併記される。たとえば昭和40年(19656月の『広報金山』第12号には「横田(鉱山)」のように鉱山関係者であることが括弧書きで付記されている。町は既存する地区に鉱山社宅地域を形式的に組み込むが、意識は鉱山という枠に組み込んでいる。象徴的であるのは、同461月、町の新たな開発を議題とする座談会にて、農業組合長が「あの鉱山の中で働いている労務者」という突き放した言い方をしている<36>ことにある。

鉱山への期待、鉱害への意識
金山町の人口は昭和35年(1960)に「滝発電所建設工事にともなういわば太りすぎ」<37>10,119人となった。工事完了を境にして急激に人口減少が始まり金山町は過疎を意識するようになる。町内に産業もないために同443月の調査では全1,667世帯から約200人の出稼者数を数えた<38>
鉱山開発促進事業団の探鉱ボーリング開始が契機となって、金山町は鉱山開発の促進を期待している。その一方では鉱害への意識も強まった。開発促進と鉱害・諸問題対策への対処をうたい、昭和43年(1968)、町は「鉱山対策特別委員会」を設置した<39>。町の黒鉱開発への期待は大きく、ボーリングの本格的開始を同43年の町政重大ニュースの2位に上げている<40>。しかし、日曹金属会津工場のカドミニウム汚染に関連して同45年に横田鉱山の排水調査を行なった<41>
昭和45年(1970)に、町を4地域に分け、町の未来発展について町民意識調査を行っている。「町は今後発展する見込みがある」と応えているのは横田地区で47%であるが、他の3地区は30%以下である。「今後は現状より悪くなると思う」のは横田地区で7%であるのに比して他の3地区は2633%となっている<42>。横田地区のみが突出して他地区と異なるのはこの地区に鉱山(横田鉱山と後述する田代鉱山)があることに起因していることは容易に推定できる。それだけ横田地区の人びとは鉱山に期待していた。
昭和47年(19723月の横田鉱山閉山にあたって町は対策を協議している。それは、休業後も探鉱を継続し早期再開を図ることを求め、人口流出防止のため鉱山に新規事業の誘致を要請するものであった。過疎の進行を防ぎたい目的である。要請と併せて、将来の地盤沈下への保安対策、公害防止も要求している。
産業のない、過疎の進む町にとっては、たとえ小規模の鉱山であっても、そこに労働力供給の永続性と人口流出の防止弁であることを強く望んでいる。「鉱山に新規事業の誘致を要請」するのは、産業の形態を問わないことを意味している。国や県に横田鉱山の保護・再開・新規事業誘致への配慮を陳情するのは、町の過疎対策、すなわち、雇用供給対策でしかなかった。だが、そのような陳情を行っても町の希望が叶えられるはずもないことは、冷たい言い方ではあるが自明であろう。
金山町の地場産業への取り組みは現在も続いていて、様々な活動が行われている。

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<36> 「只見中線の開通と地域開発」『広報かねやま』(金山町)第74号昭和46年(197117日:35段。
<37> 只見川電源開発計画によって只見川には多くの発電所が建設された。金山町内のダム式の発電所は、上田発電所・本名発電所が昭和27年(1952)から着工となり、続けて同34年に滝発電所が着工した。ダム建設では工事に従事する労働者で金山町の人口は一時的に増え、同35年に10,119人に達した。大滝地区にある滝発電所の工事関係者の児童急増により、大塩小学校は増築を行っている。
<38> 「部落別出かせぎ者数調」『広報かねやま』(金山町)第58号昭和44年(196967日:2頁。
<39> 「鉱山対策特別委員会設置」『広報かねやま』(金山町)第43号昭和43年(1968320日:44-5段。
<40> 「今年の町政十大ニュース」『広報かねやま』(金山町)第52号昭和43年(1968127日:31-2段。
<41> 「カドミュムは心配なし」『広報かねやま』(金山町)第72号昭和451970117日:54-5段。
<42> 「どうなる町の未来」『広報かねやま』(金山町)第64号昭和45197027日:25段。
この調査における4地域とは川口地区・本名地区・沼沢地区・横田地区であり、この場合の横田地区は図Y-4の横田生活圏と同じである。また、図Y-3の昭和15年の4村が地区割りの基礎になっている。