2016年7月13日水曜日

日本の鉱山の概要⑬ - 鉱山(やま)神社・禁忌

鉱山神社
前項で述べたように、鉱山労働(特に坑内労働)は危険で、また不治の病ともなる珪肺への罹患も多かった。それだけが理由ではあるまいが、鉱山が開かれると山(やま)神社が建立される。古くは山中に社寺があればそこには必ず鉱山があると言われた。山神社の御神体は高品位な鉱石であるところもあり、自然石のところもあった。山神社は鉱山地域のシンボルであり、社宅から抗口に向かうときは山神社に一礼した。正月は山神社へ参拝し、山神祭(さんじんさい)では近隣の鉱山外集落からも人が集まり、鉱山の祭礼日でもっとも賑やかな日であった。山の守護神は大山祇神(オオヤマツミノカミ)、大山姫神(オオヤマヒメノカミ)であり、総本社は愛媛県大三島の大山祇神社である。製錬の神は金山昆古神(カナヤマヒコノカミ)、金山昆売神(カナヤマヒメノカミ)であり、総元締めは岐阜県南宮大社とされている。
坑内への入口、すなわち抗口の抗木にも神を祀った。抗口より入って左側1本目の抗木は天照大神宮、2本目は八幡大明神、3本目は稲荷大明神を表し、右側1本目は春日大明神、2本目は山神宮、3本目は不動明王であり、3本目までにかかっている天井板12枚は薬師如来、両側の36枚は天の三十六童子を表すとされた。抗口より3本目以内に大小便の不浄をすることは厳禁とされたが、それは不敬を憚る意味でもある。坑内で怪我人や死亡者を出したときは抗口より3本目までの坑木を新しい菰で巻き、掛かっている掛札や御幣を取りはずした後に運び出す。そのときは誰か先頭に立ち鎚とタガネの頭を叩きながら出なければならぬとされていた。<1>

禁忌<2>
坑内の落盤や出水などの災害はいつ起きるか判らない。相手は自然現象でもあり自らの注意だけで防ぎきれるものではない。だからこそ坑内夫たちは不吉な予兆を嫌い、禁忌を犯すことを厳しく禁じた。夢見が悪い、鶏が鳴いたといって気に病み、鶏の鳴き方がいつもと違う、犬の遠吠えにも神経質になり、何か今日はおかしい、といっては不機嫌になり抗口に向かう途中で引き返す。「サル」という言葉は大山衹神が嫌がるから口に出さない。椿やびわの木を使わない<3>。「穴」と言わない、不吉な話をしない。出がけに家庭内で口論をする、不機嫌な顔を見せられる、茶碗が割れると仕事に就かない。茶碗にひびがはいればそれで飯を食うことを嫌って割ってしまう。箸が折れる、紐が切れる、歯が抜ける、ものが倒れる、弁当箱が転がることも嫌った。弁当の中に肉はいいが魚類はだめで<4>、梅干しを入れてもその種を坑内には放らずに持ち帰った。針は「身を刺す」に繋がるので、朝の出がけに針を使わない。漬け物の三切れは身を切る、見切る(帰らない/来るな)に繋がるので忌嫌われた。坑内は生土に入るので生味噌は食わない。飯茶碗に味噌汁や茶をかけて食べると山崩れになって縁起が悪いので、仲間がそれをやると入坑しない鉱夫は多かった<5>
坑内では口笛は厳禁であった。坑道では山の神が天井を支えているので、口笛を吹いたり手を叩いたりすると山の神が喜んでしまい、天井を支えている手が弛み落盤や陥没の事故が起こるからとされた。これの真意は坑内では浮かれ気分ではなく気を引き締めて働くことの重要さを教えるものである。また、坑内の守護神は髪が縮れ毛なので女坑夫が坑内で髪を洗うと神さまが妬むので禁止された。これとても気の弛みを戒めるものであろうし、坑道を水で流すような真似をしてはいけないということであろう。手拭いで頬かぶりする者と仕事をすると事故に遭うとされた。頬かぶりすると落盤の前触れである風圧や岩盤の軋みを感じ取れないからである。草履の紐を短く切って入坑することも戒められ、紐は足にぐるぐる巻きつけておかねばならなかったという。陥没があったときに草履を囓って飢えをしのぎ、命をながらえられたという古事に由来する。入坑する前に釜の灰で顔をなでておくと運がつくとされた。
坑内で死者が出て抗口まで運び出すときには、死者の魂が迷わないように坑道の分かれ目にさしかかる度に鑿と鑿を叩き、そこを通過したことを知らせる習慣があり、そのため、坑内でせっとう(ハンマー)を打ち合わせない、金属と金属の空打ちも厳禁となれていた。家庭に不幸や出産があると一週間の入坑を慎み、抗内で出産すると一人仲間が増えた、抗内の埋蔵量が増えたと喜び、123歳の女子が落盤などで亡くなると、仕事を休んで遠くから葬儀に参列して供養した。それは「穢れない」「陰部に毛がない」が「怪我ない」に通ずるからであった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
<1> 坑内への入口、すなわち抗口の抗木にも神を・・・・・タガネの頭を叩きながら出なければならぬとされていた」は、松島静雄『友子の社会学的考察』(御茶の水書房、1978年)42頁より引用している。
<2> 禁忌については以下を参照した。
佐藤一男『ふくしまの鉱山』(歴史春秋社、年)158-161頁。
斎藤實則『鉱山と鉱山集落 -秋田県の鉱山と集落の栄枯盛衰-』(大明堂、1980年)36-37頁。
高田源蔵『鉱夫の仕事』(​​無​明​舎、1990年)84頁。
トリヨーコム編『松尾の鉱山(復刻版)』(八幡平市教育委員会事務局、2012年)72頁。
高橋勤『鉱山はかげろうの如く』(岩手日報社、1991年)77-78頁。
松本通晴「鉱山労働者の生活史」(庶民生活史研究会編『同時代人の生活史』未来社、1989年)200-201頁、216-217頁。
鷲山義雄『田代の思いで』(私家版、1997年)4頁。
<3>  椿は首が落ちる。びわの木はよく茂るので家を暗くしてしまい病人が出る、あるいはびわは薬効性を有しているので病人がそれを求めて訪れてくるのでいつも病人がいる家となってしまう、そのようなものであるらしい。
<4>  私には納得する理由が分かっていない。山神は女性であって美しい生き物に嫉妬を抱き醜い生き物を好む。だから姿の醜いオコゼは神が好む、オコゼは魚、ひいては魚は神の食べ物だから坑夫の弁当には相応しくないと言う説もあるらしいが、真偽の程は分からない。単に骨が出る、骨を残すということに縁起を担いでいるのかもしれない。個人的には骨説(?)を採りたい。
<5> 単に山崩れに繋がるということだけではなく、真意は味噌汁をかけて飯を食べるような不摂生な者とは危険な仕事を共にしたくないということである。

2016年7月12日火曜日

日本の鉱山の概要⑫ - ヨロケ

鉱山における死傷には落盤・転落・出水・坑内火災・ガス中毒・粉塵/火薬爆発・墜落・鉱石/浮石落下・巻揚機事故・白蝋病等々と多岐に及ぶが、気絶えと珪肺がもっとも顕著であり、特に珪肺は「日本の労働衛生のショウウィンドウといわれ」<1>、坑内労働者には宿命ともいえる職業病で悲惨な状況をもたらす。気絶えとは坑内の換気不良・照明灯火による酸欠、あるいは一酸化炭素やその他の中毒によって気絶し、死に至る病気である。珪肺は鉱石粉塵の常時吸入によって肺機能の低下が進行する病である。いわゆる塵肺であるが、石綿による塵肺とは区分される。古くは灯火の油煙を吸うために煙()病とも称されたが実態は珪肺である。肺機能の低下によって呼吸は困難となり、歩くたびに軀はヨロヨロとヨロケ、ためにヨロケと呼ばれる<2>。鉱山の病と言えばこのヨロケ=珪肺に代表されるほど罹病率は高く、また死亡率も高かった。現在においても決定的な治療法はない。
大正14年発行の『ヨロケ』<3>からヨロケの症状を要約すると、症状は初期には殆ど分からず、少し咳があるとかという程度であり、やや程度が進むと聴診器にて多少の病変がみとめられる。そのうちに素人が分かるほどに進行する。すなわち、疲れやすくなる、風邪を引きやすくなる、軀が弱ってくる、特有の咳を連発する、痩せてくる、顔色が悪くなる、だんだんと黒い痰を出すようになる。呼吸が困難となり、脈拍もあがる。重篤化すると仕事は全くできなくなり、安静にしていていても呼吸がさらにせわしく困難となり、頻りに咳をする。そのうちにぜいぜいした苦しい発作をおこし、肺結核をおこし、あるいは極度に身体が衰弱して死に至る。
珪肺で死に至った遺体を荼毘に付すと、肺のところだけがなかなか焼けず、赤茶けた色をして最後まで焼け残るものが多かったという。肺に入った粉塵が肺に沈着し、やがて塊状になり「石の肺」へと変貌させてしまうのである<4><5><6>
江戸時代、坑夫は40歳まで生きる人がまれなほど労働条件が悪かった。13,4歳で堀子として入坑すると、20代前半に発病、その殆どが30代で死亡した。金堀りの多くは30歳前後で死亡し、その妻は23度となく再婚したという。近代になっても「抗内鉱夫を亭主に持てば、女一代に男が三人」とも言われた。近世における坑内夫の短命については秋田の鉱山を描いた菅江真澄の『すすきのいでゆ(秀酒企乃溫濤)』、佐渡金山における川路三左衛門聖謨『島根のすさみ』に詳述されている。『すすきのいでゆ』(1803-享和3-年)には次のように描かれている(渡部和男『院内銀山史』165頁より要約)。すなわち、金堀りで40歳を迎える者はまれで、金堀りの家では男の42歳の厄年祝いを32歳でおこない、女は若くして男に取り残され、老いるまでは7回から8回夫を持つことが多い。『島根のすさみ』でも同様に記されている。すなわち、(坑内で金銀を掘る)大工になって7年の寿命を保つものはない。みな病に倒れ、咳を出し、煤のようなものを吐いて、ついには死んでしまう。金銀を掘るもので40を過ぎたものはなく、多くは3年、5年のうちに肉は落ち、骨は枯れて頻りに咳を出し、煤のようなものを吐いて死ぬ。佐渡では25歳になると、男は賀の祝いがある。厄年とはいわない。金穿大工で、30を超えたものは稀だったので、25歳になれば、60くらいの心にもなるので、年の祝いをした。

近代化の中で1882(明治15)年に阿仁鉱山から様式鑿岩機が導入された。しかし、これは珪肺を多発させ、「後家新作機」<7>とも称された。その理由は鑿岩機によって採鉱効率は上がったが、それは乾式であったがために粉塵を多く発生させたのである<8>。マスク(手ぬぐい)で口をふさげば粉塵の吸入は減じられるが、それは呼吸を阻碍してしまい作業効率が下がり、ひいては賃金の低下に繋がるので予防をしない人も多かった。
国レベルでの珪肺対策は随分と遅れた。敗戦後GHQからの強烈な指示があって珪肺巡回検診が行われ、昭和24(1949)年に鬼怒川沿いに国立珪肺療養所および試験室が設置された<9><10>。前者は後の珪肺労災病院となり(2005年に廃止となり現在は獨協医科大学日光医療センター)、後者は現在の産業医学総合研究所に繋がっている。かなりの長い年月を経て、法律としては、昭和30(1955)年に「けい肺法」、同35年「塵肺法」が施行された<11>
珪肺は鉱山のダークな最たるものであろう。宿命といわれるが、それを覆い隠した経営者もあり、政府も腰は重く、GHQによって厳しく指摘されたことは日本という国全体を覆うダークな部分でもあるといえる。一般には馴染みのない「珪肺」であるが、鉱山集落に生活した人たちにとっては普通に耳にした病であった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
<1>  阿部達馬「金属鉱山の労働衛生について」(日本産業衛生学会『産業医学』第5巻第12号、1963)。
<2> 採鉱石の品位が落ちてくると「「鉱山(ヤマ)がよろける」といった。高田源蔵『鉱夫の仕事』(無明舎出版、1990年)130頁。
<3> 全日本鉱夫総連合会・産業労働調査所『ヨロケ』(産業労働調査所、1925年)。
<4> 沢田猛『石の肺』(技術と人間、1985年)。遠州じん肺訴訟を追ったルポである。
<5> 金沢医師会『すこやか』(第137号、2012年)。
<6> 静岡県浜松市天竜区(旧磐田郡佐久間町)西渡(にしど)にあった古河鉱業久根鉱山は1970年に閉山したが、閉山後40年経過した時点でも人口540人の西渡集落で38人の珪肺(塵肺)患者がいる。この地区を追いかけたドキュメンタリーが以下のように過去何度か放映されている。
SBSテレビ「よろけ」(1977年放送)・SBSテレビ「死の棘」(1981年放送)、2013.5.29放送SBSスペシャル「死の棘」、2014.09.29NHK「ザ・ベストテレビ2014第二部」。
<7> 前掲『鉱夫の仕事』141-142頁。
<8> 1954(昭和29)年の保安規則改正により、使用する鑿岩機はすべて水を使用する湿式となった。
<9> 阿部達馬「鉱業」(日本産業衛生学会『産業医学』特別号、1979年)。
<10> 外資系製薬会社に勤務していた友人の談:珪肺病院は一般の病院とは異なる独特のにおい-クレゾールでなくキシドールっぽいにおい-がした。当時は某大学の島流しの場所のようだった。

<11>  ベルナール・トマン(関口涼子訳)「日本における職業性疾患としての珪肺症 ――その認知と補償への長い道程」(『大原社会問題研究所雑誌』 No.6092009.7http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/609/609-04.pdf。

2016年7月11日月曜日

日本の鉱山の概要⑪ - 賃金

坑内に働く者は常に死と直面し、特に採鉱夫は短命であった。採鉱夫や支柱夫になるには技術も必要であり、また災害・疾病にも直面するだけに賃金も高かった。他の職業と比較して賃金の過多を論じるには、地域性、生活様式、時代の経済状況などを考慮する必要があり、容易なことではない。給与所得生活者と非給与生活者との経済的比較は簡単なことではないし、同じ給与所得者であっても企業や役所によって設備される社宅や福利厚生設備などには差異があり、給与だけで生活状況を比較できるものではない。ここでは単に坑内労働者の賃金が他の鉱夫よりは高かったことのみを文献から拾い出しておくにとどめる。尚、採鉱夫・堀大工・採掘夫は同じ意味である。
江戸期、秋田藩の堀分山(藩が直接に支配する鉱山で直山-じきやま-ともいう)では、堀大工(採掘夫)の賃金は他の緒稼ぎより2.5倍に設定されていた<1>。また、佐渡では弁当持ちで銀山に通うものは28文くらいの安い日雇銭であるが、堀大工は日に400文も500文もとると『島根のすさみ』<2>に書かれている。
明治の時代はどうであったろうか、1906(明治39)年の東北における鉱山の日給を以下示す<3>。金銀山では坑内夫=523厘、支柱夫=580厘、手子(男)=350厘、選鉱夫(男)=310厘、製煉夫(男)=350厘、運搬夫坑内(男)=337厘、職工坑内(男)=3?0厘、職工坑外(男)395厘、雑夫坑外=32銭?厘。女の日給は男に比してかなり低く、選鉱夫(女)=11銭0厘、製煉夫(女)=130厘であった。金銀山以外では、坑内夫=627厘、支柱夫=535厘、手子(男)=289厘、選鉱夫(男)341厘、製煉夫(男)=397厘、運搬夫坑内(男)=445厘、職工坑内(男)=406厘、職工坑外(男)=43?厘、雑夫坑外=335厘、選鉱夫(女)=144厘、製煉夫(女)=142厘であった。坑内夫・支柱夫の賃金が他よりも2倍近いことが判る。支柱夫が高いのは高度な技術を要するためである。また、女性の賃金は男の36%から42%程度と低く抑えられている。
昭和29(1954)調査による主要鉱業企業における賃金(円)を企業名/坑外夫給与/坑内夫給与で示す<4>。日鉱/10,109/15,129、三井/12,152/18,793、同和/10,148/14,541、三菱/10,100/14,520、住友/10,120/14,897、古河/9,727/13,618。坑内夫は坑外夫の約1.41.55倍の給与となっている。
秋田県協和町(現大仙市協和)に新鉱業開発(株)宮田又鉱業所<5>があった。昭和31(1956)に大学新卒で入社し、宮田又に配属になった人の初任給は12千円で、寮費が引かれて手取り7千円ほどであった。そこでの鉱夫の賃金は日当であり、多くは請負計算による出来高払いとなっており、鑿岩夫は1m掘削で2千円であるが火薬代その他を差しひいて日給700800円、運搬夫は一屯車一台あたり6円、六分屯車一台当たり4円の単価で日給は400500円、支柱夫は同じく500600円であった<6>
秋田県北鹿地域に位置した相内鉱山<7>における昭和41(1966)時点の坑内夫の平均賃金は4.6万円、坑外夫は3.5方円であった。ここは秋田県内の中小鉱山で最も高い賃金であり、鉱山の福利厚生施設を考慮すると周辺の農業・林業労働者や地方公務員に比して高賃金であった<8>と論じられている。
鉱山の規模は考慮せず、経時的に坑内夫の賃金を大雑把にみてきた。坑内夫は高い賃金ではあるが、命を縮める過酷な労働であるために、得てして坑内夫の生活は刹那的になる。宵越しの金は持たず、酒を飲んで、派手な生活をする。時代を超えてすべての坑内夫がそうであると断じることは到底できないが、得るもの(賃金)が大きければ失うもの(命・健康)も大きいといえる。別な言い方をすれば、鉱山を営む側には、危険な状況を作り出す状況においては、金を出せばいいのだろうという浅ましい根性も窺える。それは何も鉱山だけではなく、現代においても類似する事象は多く見られる。つまり、「法に則って粛々と進める」論理の裏に見え隠れする「最後は金目でしょ」と言ってしまう意識である。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
<1> 荻慎一郎『近世鉱山をささえた人びと』(山川出版、2012年)62頁。
<2> 礒辺欣三『無宿人 佐渡金山秘史』(株式会社人物往来社、1964年)167頁。
<3> 農商務省鉱山局『鉱夫待遇事例』(農商務省鉱山局、1908年)56頁。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801074にて判読できない数字があり、それを「?」と記した。
<4> 日本人文科学会編『近代鉱工業と地域社会の展開』(東​京​大​学​出​版​会、1955年)59-60頁。
<5> ピークの労働者数は246人(昭和31年および同32年の)の中小鉱山であった。協和町公民館『宮田又鉱山誌』(協和町公民館、1980年)75頁。
<6> 協和の鉱山と松田解子文学を伝える会・宮田又会編『宮田又鉱山思い出文集 鉱山桜』(協和の鉱山と松田解子文学を伝える会・宮田又会、2013年)83-84頁。鉱山桜には「やまざくら」のルビが付される。
<7> 昭和40年の従業員は447人。斎藤實則「黒鉱の開発と地域社会の展開 日東金属鉱山KK、相内鉱山の場合」(日本地理教育学会『新地理』Vol. 16 No. 11968) 55頁。
<8> 前掲<7>59頁。

2016年7月10日日曜日

日本の鉱山の概要⑩ - 生活共同体の分化

前回の「日本の鉱山の概要 - 鉱山集落・社宅」の註記6に記載した宮田又鉱山は秋田県のほぼ中央部、現在の大仙市協和地区にあった鉱山で、社宅地域は他の集落とは離れて存在し、隣接する地域は約2.5km離れた十数戸ほどの徳瀬集落と、約90メートルの高低差の山越えとなる荒川鉱山集落であった。交通は旧国鉄羽後境駅から社宅まで約11kmの距離に渡って敷設されていた営林署の森林軌道(通称ガソリンカー)である。操業開始は昭和8(1933)年であるが、本格的稼行は同15年に国策会社である帝国鉱業開発株式会社傘下に入ってからである。戦後は新鉱業開発株式会社の主力鉱山となった。ピーク時の従業員は約250人(昭和31/32年)で地区住民は約800人であった。昭和40(1965)年に閉山となった。
近世から明治にかけて開発が進められた歴史の深い、大規模の日立鉱山・別子銅山における鉱山生活史の研究から上記宮田又鉱山のような中小規模の鉱山を見ると、そこには大きな違いが幾つかある。ここでは別子銅山と宮田又鉱山を例として鉱山生活共同体の分化について述べる。
分化の典型的な表れ方は日常生活の中の区別あるいは差別である。どの鉱山でも職員と鉱員の社宅は区別されるが、別子銅山では多くの場面で区別(差別)があった。東平(とうなる)尋常高等小学校では職員と労働者の児童が分けられており、山神祭や映画などの催し物の際には観覧席が別々に区分け管理され、共同で利用される風呂も区別され、抗内に入る職員の弁当は小使いが昼時に家を回って取りに行き、それを職場で配るが、労働者は自ら持参する。買い物では、職員宅へは人夫が品物を運び、労働者は自ら運ぶ。昭和4年(1929)以前の別子銅山専用鉄道では、職員用の客車と一般労働者の客車は別々で作りも違っていた。戦前という時代のなかで、「一山一家」が「美徳のイデオロギーとして強調されればされるほどに、そこに現出している社会は秩序維持のために厳しい格差を生み出して」(『鉱山と市民 聞き語り日立鉱山の歴史』)いたのであろう。
別子銅山には多くの社宅群があり、山(採鉱地区)の社宅と浜(精錬所地区)の社宅は地理的にも離れ、労働形態も異なり、山の社宅生活者と浜の生活者は分断している。また、長屋にも分化があった。歴史の長い鉱山では社宅での定住も長くなり、そこには親族関係が発生し、また同郷人が結合することで分化が生じる。親分・子分の関係維持のための引き継ぎもあった。
翻って歴史の浅い宮田又鉱山を見れば、職員と鉱員の社宅形態はもちろん異なるが、小学校における児童の扱い、供給所での扱い、鉱山に繋がるガソリンカーでの客車の区別などはまったくなかった。それは、別子や日立との年代の違いもあり、また、鉱山の規模と稼行の短命さにも大きく関係する。すなわち、宮田又鉱山は昭和15年からの本格稼行であり、親分・子分の関係や友子制度を構成するほどの歴史はない。短命な鉱山であるがゆえに鉱山集落の地で生活の代を重ねることもなく、親族関係は生じない。社宅も一つの地区だけである。製錬所をもたないために、大規模鉱山のような労働形態の多様性はあまりない。そもそも、小さな単一集落内では差別意識は生じにくい。
したがって、大規模鉱山で研究される鉱山生活は中小規模鉱山のそれを包括するものではないことを強調しておきたい。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
主とする参考文献は以下
-   松本通晴「鉱山労働者の生活史」(庶民生活史研究会編『同時代人の生活史』未来社、1989年)。
-   鉱山の歴史を記録する市民の会編『鉱山と市民 聞き語り日立鉱山の歴史』(日立市、1988年)。
-   進藤孝一『宮田又鉱山誌』(協和町公民館、1980年)。
-   進藤孝一『協和町の鉱山』(秋田文化出版社、1994年)。
-   協和の鉱山と松田解子文学を伝える会・宮田又会『宮田又鉱山思い出文集〝鉱山桜〟』協和の鉱山と松田解子文学を伝える会・宮田又会、2013年。

2016年7月9日土曜日

日本の鉱山の概要⑨ - 鉱山集落・社宅

現地採用者を除外すれば、鉱山労働者やその家族たちは鉱山集落に居住する。川崎茂は『日本の鉱山集落』のなかで、「鉱業の重要な特性は、人間の仕事を、急激にして一時的にあるにせよ、少なくとも一定期間はある定められた地点に固定せしめ」、鉱山集落は、「不毛な荒野のなかに突如として出現した」「一時的な一つの大きなキャンプ」であるとする。そして、鉱山集落は、「鉱山開発によって成立する人間の土地占拠の一形態であり」、「主要抗口付近の鉱山事業機能(選鉱・製錬など)を核として、住宅機能、さらにそれらを対象としたサービス諸機能などにより基本的に構成されるが、それら諸機能の結合を基礎とした自己完了性に富む空間的領域」であると述べる<1>。鉱山に生活した自らの経験から、これらの考察は鉱山集落の概念を適切に表現していると捉えている。
そして、「ある特定企業のもとに統一された個々の鉱山集落が、ある一つの行政体のもとに統括され、さらに商業的・文教的機能地域を共有した場合、それらのサービス諸機能地域を結節点として、個々の鉱山集落よりさらに次元の高い」地域が形成され、その行政体自体が「鉱山町」として形態や機能を備えるようになる<2>。足尾銅山など、「鉱山町」という名にふさわしい町は国内に多く存在した。
鉱山集落は、農業集落とは異質な鉱山経営という経済基盤のうえで成り立ち、集中的かつ局地的投資によって突然の土地占有からはじまり、鉱石を掘り尽くせば急激に衰微する。これは近世から近現代まで共通することであり、周辺地域は鉱山が出現してはじめて鉱山と鉱山集落を意識することになる。よって、周辺地域との関係性を考察する場合、鉱山集落の内側と外側の周辺地域の両側に視座をおくことが重要である。
川崎は同じく鉱山集落の類型化を試み、「歴史的鉱山集落」と「近代的鉱山集落」の概念を定義づけた<3>。近世封建時代からの発達史をもつ「歴史的鉱山集落」は通洞抗や鉱山事務所に近接し、一般的に番所によって外部との遮断された地域を形成する<4>。明治以降の近代的な鉱業投資を契機にしてはじめて本格的に形成された「近代的鉱山集落」は、鉱山社宅を主とした企業共同体社会地域と捉えられ、居住地域と鉱山事業諸施設地域に分かれる。
川崎は「鉱山集落の衰退様相に関する概略的展望」<5>を示し、たとえば、近代的鉱山集落が「空間的孤立性(国有地)」にあれば衰退は急であり<6>、「農山村民有地」にあれば、鉱山地域と近隣都市との位置関係によって衰退の緩急に差異が生じ、「農山村民有地」が商店街地域にあれば衰退はやや緩やかであると分析している。
『近代日本における企業社宅街の成立と展開に関する研究』では、川崎の「集落」には企業による住宅地経営という視点が読み取れないとして、鉱山集落に対して「社宅街」を用いている。そして、その「社宅街」を「企業が所有する、社宅を含む各種建物、都市基盤施設、病院、生活必需品販売所、運動施設などにより構成された施設」<7>と定義している。この企業社宅に関する研究の資料は戦前(191040年代)の大学鉱山科・採鉱科学生の実習報文であり、小坂・日立・生野・別子と大規模鉱山を調査対象としたものであった。一般的に鉱山社宅といえばこのように大規模鉱山の社宅を脳裏に浮かべる人が多いのではないかと思う。しかし、中小規模鉱山の集落には企業が所有する病院はなく、もちろん諸設備の設置数や内容も大規模鉱山のそれらとは大きくかけ離れている。この社宅街の研究には、これら中小規模鉱山の視点が欠けていると考えるのは、中小鉱山社宅に生活した私の僻みであろうか。少なくとも生活していた当時から「社宅街」という概念はなく、「鉱山社宅」「鉱山部落」と呼ばれることにはなじんでいた。 


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
<1>  川崎茂『日本の鉱山集落』(大明堂、1973年)5-6頁、9-10頁。
<2>  同、12頁。
<3>  同、79-80頁。
<4>  私と同年で高校を同じくする友人がおり、彼は小学校1年から福島県南会津の八総鉱山社宅に居住していた。八総鉱山は、田島町立八総鉱山小学校が設備され、最盛期には500名以上の従業員を抱える大きな鉱山であった。彼が思い出すには、八総鉱山には「番兵」がいて閉じられた鉱山であったとのことであり(時の経過とともに形骸化した)、社宅には東京の電波が流れていたとのことである。鉱山には交番もあった。住友の経営下にあった八総鉱山から出される鉱石は、滝ノ原駅(現会津高原尾瀬口駅)から別子に運ばれて製錬された(駅の前に倉庫があり、週に1回ほどの頻度で運搬された)。八総鉱山閉山後に彼の父は岩手県宮古に「帰った」という。彼の父親は現岩手県宮古市津軽石の出身で、遠野の鉱山(大峰鉱山ヵ)に半年ほど在籍してから八総鉱山に移り、その後現宮古市の田老鉱山に移ったとのことであった
2016715-16日に高校同学年の同窓会があり、本人に追加で確認した結果を18日に追記。
<5>  同、460頁表Ⅴ-1
<6>  秋田県協和村(現大仙市)にあった宮田又鉱山は国有林の中に存在した鉱山であり、従業員数はピーク時250人ほどで、近隣からは独立した鉱山集落であった。昭和401965)年9月に閉山が決定した僅か3ヶ月後の1220日までには、鉱山後処理や残務整理にあたる5人を除いて全員が離山し、誰もいなくなった。因みに鉱山稼行時の住所は秋田県仙北郡荒川村宮田又、あるいは協和村発足時は同郡協和村大字荒川字宮田又であった。現在ももし宮田又鉱山が存在していれば、現住所は大仙市大字協和荒川字宮田又となっているはずなのであるが、いま協和荒川の小字には「宮田又沢牛沢又」があるのみで、かつての宮田又鉱山社宅があった地に繋がる地名は存在していない。
<7>  第一住宅建設協会編『近代日本における企業社宅街の成立と展開に関する研究-金属鉱山系企業社宅街の比較分析-』(第一住宅建設協会、2008年)3頁。


2016年7月8日金曜日

日本の鉱山の概要⑧ - 鉱山で働くと言うこと(3)

友子制度
鉱山独特の組織に「山中友子」、あるいは単に「友子」の制度がある。“やまなかともこ”という女性のことではなく、“さんちゅうともこ”と読む。山中とはヤマ(鉱山)の中の意であり、鉱山の中にある友子という制度ということである。友子制度を一言で適切に言い表すのは困難であるが、文献等を総合すれば、友子とは鉱夫の非妻帯を前提に、同職組合で、鎚親性とも称する擬制的親子関係-親分.子分という親方制度-をとりながら技術伝承・熟鍊労働力の養成や社会教育、労働力の供給調整、構成員の老後や疾病時の相互共済、さらに鉱山内の生活.労働条件の維持改善など多様な機能を持っていた(1)
生地から断絶し、終生鉱山に生きることを決め、血縁関係のなくなった坑夫が、親子兄弟関係を結び、親分は父、兄貴分は母代わりであった。友子への加入を「出生」、その儀式を「取立」と呼び、親分子分の固めの「結盃式」の後「出生免状」が与えられた。友子に加入した者は全国の鉱山で働くことができたが、友子の掟を破った者はどこの鉱山でも働くことは出来なかった。鉱山を渡る者は新たに訪れた鉱山での山中友子交際所の入口で仁義を切り、酒と食にあずかり、そこでの就職を希望しなければなにがしかの草履銭をもらって次の鉱山に向かって旅立った(2)
友子は歴史的には江戸時代に成立したとされる。妻子を持つことを恥として諸鉱山を遍歴し、技術を磨き続けたが、家族を持たないがために病気や事故にあい、また、年をとると面倒を見てくれる人がいない。次第に擬制的親子関係(鎚親制度)を結ぶようになった。幕末に「友子」、近代には「友子」制度となり、近代化とともに変容し、明治末から大正初期にかけて最盛期に達し、第一次大戦中に殆ど消滅したが、擬制的鎚親性は敗戦まで継続した。ただ日立鉱山にだけは友子が戦後まで残り、やがて消滅した。
友子に加入するのは原則的に採鉱夫(金堀大工ともいう)、支柱夫(留大工ともいう)、それらの近くで働く手子(堀子)に限られた。それらの労働には技術が必要でありまた常に危険に直面していたからである。友子は一山を中心とするが全国鉱山を包括するネットワークである。経済的に困窮者を救済できない場合は地方まであるいは全国まで範囲を拡大し解決を図った。一方、友子にそぐわない者は除名し、回覧にて他鉱山に展開して坑夫としての道を断ち、共同体の秩序を維持した。友子に見られる非血縁的親族関係は鉱山の特殊性である。友子は東北方面において強力に団結していた。親分・兄分は子分・弟分の面倒を見る。一方、子分、弟分も親分・兄分の生活手助けを要請され、子分の最重要なことは親分の死後の墓石建立、供養の実施にあった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1)   斎藤實則は「鉱山の開発と地域社会の展開-古河鉱業K.K. 院内銀山の場合」(『東北地理』第15巻第1号、1963年)18頁にて次のように断じている。
       「当銀山においては東北の諸鉱山同様に友子制度・飯場制度があった。友子制度は鉱山労務者の変則的な相互連帯扶助組織である。共同救済の形をとりながらも実は完全なる搾取の組織である。このような友子制度が存続したことは日本の社会制度の弱さを物語るとともに,東北鉱山の後進性を示すものといえよう」。
       搾取した側面も否定はできないが、院内銀山には友子の墓が多く存在すること、日清戦争に出征した坑夫たちの家族を鉱山の人間が救済したことなどから、斎藤が上記のように「完全なる搾取の組織」と断じることは適切ではない(参考:渡部和男『院内銀山史』無明舎、2009年)。また、「友子制度が存続したことは日本の社会制度の弱さを物語るとともに、東北鉱山の後進性を示す」と主張するがその論拠は示されていない。院内銀山の時代に「日本の社会制度の弱さ」を論じることは論理の飛躍であろうし、「東北鉱山の後進性」とするならば「他の地域の鉱山の先進性」を対比させなければ説得性はない。
(2)   松島静雄『友子の社会学的考察』(御茶の水書房、1978年)117-118頁。
       仁義を切るシーンが紹介されており、かつての東映の任侠映画での仁義を切るシーンに類似しているまた、村上安正『足尾に生きたひとびと』(随想舎、1990年)30頁には昭和初期の友子の取立式の写真が掲載されている。羽織袴の親・兄の前に子分として取り立てられる若い者が視線を下にして並び、両者の前には盃が置かれ、盃事が行われている。これもまた任侠映画のシーンを彷彿させる。
       トリヨーコム編『松尾の鉱山(復刻版)』(八幡平市教育委員会事務局、2012年)42頁には昭和初期の友子の総会の写真、友子交際所の写真が載っている。

「鉱山で働くと言うこと」(①~③)では以下も参考にした。
-   鉱山の歴史を記録する市民の会『鉱山と市民 聞き語り日立鉱山の歴史』(日立市、1988年)511563頁。
-   松本通晴「鉱山労働者の生活史調査」(ソシオロジ編集委員会『ソシオロジ』第102号、社会学研究会、1988年)162頁。
-   松本通晴「鉱山労働者の生活史」(庶民生活史研究会編『同時代人の生活史』未来社、1989年)。
-   高田源造蔵『鉱夫の仕事』(​​無​明​舎、1990年)40頁。
-   トリヨーコム編『松尾の鉱山(復刻版)』(八幡平市教育委員会事務局、2012年)94頁。
-   桶谷繁雄『金属と日本人の歴史』(講談社学術文庫、2006年)165頁。
-   日本人文科学会編『近代鉱工業と地域社会の展開』(東​京​大​学​出​版​会、1955年)49頁ほか。
-   萩慎一郎『近世鉱山をささえた人びと』(山川出版社、2012年)。
-   斎藤實則「秋田県の金属鉱山労働力に関する若干の考察」(経済地理学会『経済地理学年報』第152号、1969年)。
-   高橋勤『鉱山はかげろうの如く』(岩手日報社、1991年)。
-   松島静雄「鑛山に見られる親分子分集團の特質」(日本社会学会『社会学評論』Vol. 1
-   No. 11950年)。
-   村串仁三郎『日​本​の​伝​統​的​労​資​関​係​ ​: ​友​子​制​度​史​の​研​究』(世界書院、1989年)。
-   村串仁三郎『大正昭和期の鉱夫同職組合「友子」制度 : 続・日本の伝統的労資関係』(時潮社、2006年)。

2016年7月7日木曜日

日本の鉱山の概要⑦ - 鉱山で働くと言うこと(2)

生産工程
採鉱から精鉱として出荷されるまでの生産工程を大雑把に記すと、採鉱-運搬-篩分-破砕-磨鉱(微細粉末化)-分級-浮遊選鉱-濃縮・濾過(銅系)/精鉱バック(硫化系)-銅精鉱/硫化精鉱となる(1)。出荷された精鉱は製錬所まで運ばれて製錬(精錬)され純度が高められる。
鉱石の品位は13.5%程度(2)であるから、多くは廃石となって棄てられる。価値のない岩石は棄てられて硑(ずり)となり、浮遊選鉱後の有害物質も含まれることの多い泥状のものはスライムとして貯蔵される。鉱山にはつきものであり、閉山後も鉱山跡として長期間残る。

鉱山の労働体制と鉱員(3)
鉱山の職制は事務と鉱務に大別される。鉱務には探査(探鉱)・採鉱・選鉱・工作・分析などがある。鉱務に就く者は鉱員であり、役付鉱員(職長など)と一般鉱員に分類できる。一般鉱員は坑内労働に従事する坑内夫と坑外労働の坑外夫からなる。坑内夫をさらに分けると、鑿岩夫(鑿岩機を使用)・坑夫(手堀り)・支柱夫・運搬夫・機械夫・保線夫・雑夫などがある。坑外夫には選鉱夫・機械夫・鍛冶夫・電気夫・工作夫・輸送夫・分析夫・用度夫・雑夫などがある。これらには浴場の管理者、日常生活品を購買販売する担当する者、製材所を担当する者なども含まれる。
鉱山は鉱石を掘り出すことではじまり、鉱山労働といえば一般的には坑内労働のみに視点が向けられることが多いのであるが、鉱山事業は坑内外の多様な労働によって営まれたのである。坑内に対して郊外を「岡」とも言う(4)

坑夫、鉱夫
広辞苑(第6版)では、坑夫は「鉱山・炭山の採掘作業に従う労働者」で鉱夫を「鉱山で鉱石採掘に従事する労働者」としているが、鉱山労働者を坑夫や鉱夫と総称することがあるのでこれは必ずしも正しいとはいえない。また、坑夫・鉱夫は発音が同じであるために混同することが多い。一般的には、鉱夫は鉱山労働者一般を指し(5)、金属鉱山においての坑夫はもともと採鉱夫あるいは開抗夫を指す言葉であった(6)
坑内で働いても雑役夫や運搬夫は坑夫ではなかった。坑内労働に就く者は一般的に雑役夫からはじめ、次に運搬夫(負い夫)となり、運搬夫を経験して空きがあれば採鉱夫になることができた。運搬夫を雑夫とする鉱山もあった。採鉱夫でも最初は手掘り坑夫そして鑿岩夫(鑿岩機夫)となる鉱山もあった。地位、すなわち賃金は雑役夫<運搬夫<(手堀り)坑夫<鑿岩夫となる。さらにその上は支柱夫であった。支柱夫は坑道を支えるために「支柱夫は神」と一目置かれた。支柱夫より鑿岩夫の賃金が高いところもあった(7)ので、一様に支柱夫が一番上位にあるとは言えないようである。

坑内労働の環境
戦後の坑内労働経験者を対象とした調査から坑内の印象を引用すると、「暗い、落盤しないか、圧迫感、非常に危険、暑い、特有の臭い、湿度が高い、空気が悪い、明かりにでた喜び、全裸で歩く、局所まる出し、褌一枚の異様さ、抗内の淋しさ、特別な世界などである」(8)。戦後の苦しい時代に仕事を求め、高収入であるがためにこの劣悪環境の坑内労働に就く者も多かったのである。また、戦前は強制連行された朝鮮人も各所鉱山に多くいたのであるが、敗戦とともに彼らは鉱山を離れ、必然的に鉱山は労働力不足となったため、坑内労働に就くことは比較的容易であった。古い時代の採鉱は鉱脈に沿って地中深く掘っていく「犬下り」や「狸堀り」があり、死と隣り合わせであった。地中深く掘っていけば水が出るため汲み上げ必要になる。それは例えば現在観光地となっている「史跡佐渡金山」にて模型を使った展示などに示されている。また、熱水がでる鉱山もあり、深く掘れば掘るほどに環境は劣悪化する。前述の戦後の坑内労働者は「人間のすることではない、終生の仕事ではない」などとの否定的感情を吐露している。一般的には炭砿の劣悪な労働環境が金属鉱山の労働と重なり、鉱山のイメージは実際以上に貶められていると考える (9)

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1)   昭和28年の宮田又鉱山における工程を簡略的に記した。進藤孝一『宮田又鉱山誌』(協和町公民館、1980年)31頁。
(2)   品位は鉱石に含まれる金属量の重量%で示される。3.5%はかなりの高品位である。金の場合はトンあたりのグラム数で示される。
(3)   次の文献を参考とした。前掲『宮田又鉱山誌』、鷲尾義雄『横田の思い出』(私家版、1996年)。
(4)   萩慎一郎『近世鉱山をささえた人びと』(山川出版社、2012年)51頁。鉱山は坑内で採鉱することが中核であり、この場合の「岡」は小高い場所の意味ではなく、岡目八目の「岡」と同様に局外者、第三者の意に近いと私は解釈している。
(5) 原田洋一郎「鉱山とその周辺における地域変容」(竹田和夫編『歴史のなかの金・銀・銅』​​勉​誠​出​版、2013年)150頁注13
(6)   同、141
(7)   昭和30年初期の宮田又鉱山の日給は鑿岩夫が700800円で、運搬夫は400500円、支柱夫は500600円であった。鈴木啓悦ほか編『宮田又鉱山思い出文集 鉱山桜』(宮田又会、2013年)84頁。
(8)   松本通晴「鉱山労働者の生活史」(庶民生活史研究会編『同時代人の生活史』未来社、1989年)202頁。
(9)   金属鉱山の労働は炭砿のそれよりはましであった。天川晃ほか編『GHQ日本占領史 第44巻 不燃鉱業の復興』(日本図書センター、1998年)81頁に次の記述がある。すなわち、「降伏前、日本の金属および非金属鉱山の労働者は悲惨な状態にあった。その職務は炭坑夫ほど危険ではなかったものの、組合幹部の封建的家来や既得権益とほとんど変わりなかった」。