2016年8月12日金曜日

奥会津横田鉱山② - 横田鉱山の位置

黒鉱、グリーンタフ
黒鉱あるいは黒鉱鉱床は戦後日本の鉱業界に希望と活力を与えた。福島県会津地方は秋田県とならんで黒鉱鉱床が発達した地域であり、昭和40年(1965)当時、会津の鉱山に働く従業員は3,000人を数えていた<1>

東北地方の鉱山に触れるとき、必ず“黒鉱”と“グリーンタフ”なる用語に出会う。“黒鉱”は日本固有の鉱石であり、国外においてもkurokoの英語名で通用する。そしてその黒鉱はグリーンタフと呼ばれる地域に分布する。図Y-0にグリーンタフ地域と黒鉱鉱床を示す。その中で横田鉱山(および田代鉱山)は他の鉱山と共に著名黒鉱鉱山と記されている。

過疎で豪雪地帯の金山町
横田鉱山があった金山町は、福島県西部、越後山脈を挟んで新潟県に接し、奥会津と呼ばれる地域にある。金山町は現在、全域過疎であり<2>、高齢化率が全国二位<3>、特別豪雪地帯<4>、全域振興山村・特定農山村地域<5>、辺地に指定され<6>、乏しい産業と過疎の進行が最大の課題となっている。



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横田鉱山をまとめるに当たっては『金山町公民館報』および『広報かねやま』に多く依存している。これらは、『広報”かねやま”縮刷版』(金山町、1977年)を参照した。
<1> 佐藤一男『ふくしまの鉱山』(歴史春秋社、2005年)187頁。
<2> 「福島県過疎地域自立促進方針」(平成228月福島県)2頁第1表 http://www.pref.fukushima.lg.jp/download/1/tiikishinkou_kaso-houshin.pdf
<3> 「市町村の現況について」(総務省)9頁 http://www.soumu.go.jp/main_content/000196964.pdf
<4> 「豪雪地帯・特別豪雪地帯の指定(平成2641日現在)」(国土交通省)https://www.mlit.go.jp/common/001029280.pdf
<5> 「旧町村別振興山村・特定農山村地域指定状況」(福島県農村振興課) http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/58012.pdf
<6> 「福島県市町村要覧2014 地域指定一覧表」 http://www.fksm.jp/youran/arealist.html

2016年8月8日月曜日

奥会津横田鉱山① - はじめに

福島県大沼郡金山町が発行した『金山町史 下巻』(1976年)には金山町内に存在した三鉱山(横田・田代・三更)の歴史が記載されている。横田鉱山からはじまる記述の冒頭は以下である。
金山町はグリーンタフ地域の一角に位置している。したがって、本町の鉱業は黒鉱採掘に代表されるが、貿易の自由化と原鉱の品位、鉱床の規模などから、町の基幹産業として発展することは危ぶまれていた。はたして昭和473月、横田鉱山の閉山に続いて翌489月、田代鉱山も閉山するのやむなきにいたったのである。このほか三更に硫黄鉱山が開発されたこともあったが、すでに閉山になっているので、本稿では、これら鉱山の過去における操業のあとをたどるにとどめる。(『金山町史下巻』549頁。)
以下、この記述に続いて、発見から閉山までの経緯、鉱床や鉱石の特徴と採掘方法、設備の概略、生産量とピーク時の従業員数などが書かれている。各鉱山とも僅か7601,200程度の文字数、すなわち400字原稿用紙の2枚から3枚という薄さである。そこに暮らした人々の生活や周縁地域との関係性などには一切触れられていない。「すでに閉山になっているので」「これら鉱山の過去における操業のあとをたどるにとどめる」という突き放し方は、少なくともその地の鉱山社宅で幼少年期を過ごした我が身からみれば、鉱山生活者は金山町とは無関係だったかのように宣言されている思いを抱いてしまう。同じく鉱山を抱えた秋田県協和町(旧)の町史/鉱山誌編纂における真摯で深い対応姿勢とは全く異とするものであり、はじめて『金山町史』を手に取ったときは内容の軽さに落胆した。僻みっぽい言い方になるかも知れないが、この町史が対象とするのは、その地に生まれ、その地に育ち、その地に眠る人々、言い換えれば、この地で長年にわたって生活し、文化や価値観を共有した人々のみを対象としているのかもしれないとさえ思っている。
しかしながら、『金山町史』より詳しく横田鉱山の歴史をまとめて記述した刊行物はない。

このブログ(「奥会津横田鉱山」)の目的は、鉱山と周辺地域社会との関係を主軸に置き、横田鉱山の歴史をまとめることにある。また、横田鉱山と同一行政地区に存在し、極めて短命に終わった田代鉱山にもふれる。なお、『金山町史』では出典や文献、参考資(史)料が併記されていない。本ブログではその欠点を補うため、また自分の振り返りを確実にするため、参考とする資料や引用文献を明らかにしておく。

2016年8月5日金曜日

宮田又鉱山⑬ - おわりに

かつて社宅があった場所は閉山後しばらくは何もない平地であったが、平成26年(2014)現在は、杉林の中に未舗装の凸凹の激しい道路があるだけで、かつての鉱山の様子はうかがえない景観となっている。図M-13は図M-4(2016726日 宮田又鉱山③)の風呂場付近から南側を見ており、図M-14は同じく左下部の社宅近傍より笹台橋を見たものである。また、図M-15は図M-4上部の芦倉橋を見ており、橋の手前右を折れると鉱山の元山に入る。


大仙市協和地区には「大盛館(民俗資料展示館)」<56>があり、そこには鉱山関連の写真なども展示され、協和の鉱山を伝える活動を行い、「宮田又会」の事務局もそこに置かれている。これらは大仙市によって運営されている。協和に生きる人たちは、かつて存在した鉱山の歴史を大切に守ってきている。しかし、訪れる人はごく僅かである。





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<56> かつて大盛小学校があった跡地に「大盛館」が建てられており、大仙市は年間約530万円の予算(平成25年度)をあてて運営している。



2016年8月4日木曜日

宮田又鉱山⑫ - 閉山

川崎茂の鉱山集落に関する研究(『日本の鉱山集落』)によれば宮田又鉱山は「近代的鉱山集落」に分類され、「空間的孤立性(国有林)」を有する、「単独企業共同社会」の集落で、構造的には「地域外」となる<48>。そして、その総体的衰退様相は「衰退カーブが急」に分類される。まさしく宮田又鉱山は川崎の考察にあてはまって閉山し、急激にその集落は消滅した。

告知と村の広報 昭和40年(1965)に入ると鉱山の存続をめぐって会社(新鉱発)側と労働組合側の団体交渉が重ねられたが、存続は不可能となって、9月に入ったある日の夕方に本社から閉山の連絡があり、閉山する旨の放送が山内のスピーカーで全山に流された。地元紙には7月・8月と閉山の記事が載せられている<49>。事前に閉山を覚悟してはいても、鉱山から直接に告知され、改めて現実のものとなってしまい、「休山が決まった午後3時ころ」「サイレンの音が響くとともに人びとが家を飛び出して泣いた」のである。
協和村役場からの広報には、閉山については何も「広報」されていない。広報から閉山をうかがえるのは、結核間接撮影の実施結果の記事であり、宮田又の対象人員70人に対し、受診者数や実施率には「-」と書かれて数字が記載されていないことにある<50>
閉山して半年後の広報を見ると、「昨年〔昭和40年(1965)〕の915日現在で調整した基本選挙人名簿」が「1220日の選挙管理委員会で確定」したとある<51>。そこには、宮田又部落の投票区の有権者数は「男51名、女60名、計111名」とある。半年前の閉山時には確かにこの人数の選挙人はいたのだが、その事実が村の広報に載せられて配布されたとき、鉱山では(後処理の5人を除いて)誰もその広報を見ることはなかった。広報の記載内容に半年のずれがあり、そのずれが宮田又鉱山集落の急激な消滅を象徴している。

離山 閉山が決まってから僅か3ヶ月後の1220日までに、後処理や残務整理のための5人を除き、全員退山することとなった。その5人も翌年11月に山を下りることなり、宮田又鉱山は住む人のいない地となった。元々地元に根を下ろし、鉱山に労働力を提供していた人たちは地元に新たな仕事を見つけることになるが、他所から来て鉱山に職を求めた人たちは新たな地に移ることになる。鉱山勤務をやめて県内の都市や近隣の地<52>、あるいは県外に新たな仕事を求めるもいれば、新鉱発の鉱山(高旭、天生、野田玉川など)へ配置転換する人など様々であり、一つの社宅地域に居住した人たちは離散した。中には、閉山を契機にパラグアイ・イグアスへ移住した人もいた<53>
鉱床がなくなれば鉱山はなくなる。宮田又鉱山はもともと国有林の地であり、鉱業以外には経済的な機能が発達する可能性のない土地であった。したがって、鉱床が枯渇すればその地は急激に消滅するのは必然であった。

近隣への影響 「協和村にとっては宮田又鉱山の閉山によって鉱山税、固定資産税(年間納入費110万円)の大口財産を失うことになるわけで、『宮田又鉱山住宅』によってうるおってきた商店や作業員も多かっただけに地元へのショックは大きい」<54>のであった。それはそうであろうが、そのショックの大きさは長期的ではない。なぜなら、宮田又鉱山の集落は消滅したが、隣接する集落は存続したのである<55>
 鉱山は唐突に表れる自然の破壊者であって、長期にわたって自然と融合しながら生活の場を築き上げてきた農村地域とは基本的に相容れられず、労働の需給でしか関係を保てない。鉱山が求めるものは安価で安定的な労働力であり、農村が受け取るのは労働の報酬として得る現金収入と、鉱山が設備するサービスである。鉱山がなくなれば農村はもとの鉱山のなかった時点に戻ろうとするだけである。鉱山と農村地域は隣接していようが互いに融合する関係性にはなく、閉山によりその農村地域へ影響は及ぼすが長期的なものではない。まして、宮田又鉱山は林の中にあり、隣接する集落とは2.5km離れており、日常的な交流はなかった。その隣接する徳瀬集落はいまも存続し、そこには宮田又鉱山入口の看板が立っている(図M-12)。


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<48> single-enterprise Community を単独企業共同社会、foreign を地域外とした。
<49> 宮田又鉱山が閉山 鉱石不足、能率も低下 すでに30人が配置転換」『秋田魁新報』昭和40718日朝刊:31-4段。
25に同じ。
<50> 40年度結核間接撮影終わる」『広報きょうわ』(協和村役場)第88号昭和40915:4頁 http://daisen.in.arena.ne.jp/daisen/koho/M/ky/kyowa0088-0004.jpg
<51> 「基本選挙人名簿確定」『広報きょうわ』(協和村役場)第95号昭和41315日:2頁 http://daisen.in.arena.ne.jp/daisen/koho/M/ky/kyowa0095-0002.jpg
<52> 閉山によって協和町内で定住する例がある。それは、協和町峰吉川の地主で運送業や製材業を営む一族より就業の機会を得て、その地に定住した人たちである。
斎藤實則ほか「JR奥羽南線(四ツ小屋~院内間)の駅前集落ー飯詰・後三年・峰吉川の例―」『季刊地理学』(東北地理学会『季刊地理学』第50巻第1号)60-61頁。  https://www.jstage.jst.go.jp/article/tga1992/50/1/50_1_58/_pdf
<53> 「南米で第二の人生をめざす一家」『あきた』(秋田県広報協会)昭和41年(1966年)61日第56号(通巻49号)623-4段 http://common3.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/049/pdf/049_062.pdf
<54> 25に同じ。
<55> 昭和45年(1970)に協和町は過疎指定となっている。同46年より、集落再編成事業が行われ、宮田又鉱山と密接な関係にあった荒川鉱山集落は集団移転している。
   5協和町史』下巻:257-259頁。


























































2016年8月3日水曜日

宮田又鉱山⑪ - 鉱山生活

通帳・給与 鉱山では、通帳を持っていれば現金がなくとも生活はできた。宮田又鉱山における通帳の運用システムはほかの鉱山と同様の運営と思われる。すなわち、給料の何割かの定額を通帳に記入し、その通帳を持って供給所で買い物をするのである。定額のつけかたは鉱山によって異なるが、通帳での購入金額を差し引いた給料が現金として支払われる。
昭和31年(1956)に本社採用として新鉱発に入社し、宮田又鉱山に配属された大学新卒の初任給は12.000円で、寮費が引かれて手取り7,000円ほどであった。鉱夫の賃金は日当で、多くは請負計算による出来高払いとなっていた。鑿岩夫は1m掘削で2,000円だが火薬代その他を差し引き日給は700800円。運搬夫は1屯車1台あたり6円、6分屯車1台当たり4円の単価で日給は400500円。支柱夫は500600円であった。乱暴な試算ではあるが、これらを単純にひと月25日として乗じると月あたりの給与は、鑿岩夫が17,500円~20,000円、運搬夫は10,000円~12,500円、支柱夫は12,500円~15,000円となる<42>
 昭和29年(1954)の調査での大手鉱山の月給を表M-1に示す<43>。日鉱を除く大手5社の同30年と同31年の賃上げ合計額は950円~1,120円である<44>。この賃上げ額と表M-1を合算し、宮田又鉱山の給料とを比較してみると、大雑把な比較であるが、少なくとも小鉱山である宮田又鉱山と、大企業である各社鉱山との間に大きな差異はないといえる。

娯楽行事 テレビが普及するまで、宮田又鉱山における娯楽の筆頭は映画であった。小学校の体育館で催され、子供たちは早くから場所取りに出かけ、夜の映画を楽しみに待っていた。映画会は宮田又鉱山会主催で月例となっており、鉱山居住者のみでなく、徳瀬集落や荒川鉱山集落などから、山越えであれば1時間半かけて宮田又小学校に来て映画を観た。映画は月例のほかに、鉱山の行事の際に特別に上映される場合もあり、協和村で映画を最も観たのは宮田又の鉱山集落の人たちであったと思われる。
昭和33年(1958)~同40年間の鉱山における娯楽行事を月順に述べる。

正月に入ると10日頃には鉱業所内特設消防団の出初め式があり、2月には昭和31年(1956)からスキー大会が開かれ、3月には小学校の修卒業式があり、PTAの主婦たちで作った紅白饅頭が全児童に配られ、41日は会社の創立記念日で、新鉱発発足初期の頃は小学校で演芸会や映画会が開催された。 小学校入学式にも紅白の饅頭が配られ、512日は鉱山最大のイベントである山神祭となる。前日から宵祭りとなり、ここでも映画が上映され、神社参道には大直利<45>の幟が並び、翌日の本祭では境などからガソリンカーで来賓が多数来山し、従業員やその家族、来賓が神社の前に参列し式典を行い、その後は宴会や芸人の演芸、夜の映画上映となった。図M-11の写真は昭和281953)~同29年頃の山神祭のときの写真である。図M-4(2016726日 宮田又鉱山③)にある宿泊所・職員寮を背景に撮影されたものである。


山神祭の余韻もまだ残る頃に春の運動会が開かれ、8月末か9月には二十日盆<46>で、広場には櫓が組まれ、盆踊りとなり、最後は仮装による踊りが競われ、賑やかな盆踊りであった。盆踊りの音楽は炭坑節が繰り返されていた。それが過ぎると秋期運動会があり、職場対抗野球大会も開催された。これら以外には青年会による遠足やクリスマスダンスパーティー、演芸なども催され、組合による慰安旅行や海水浴へのレクレーションなど、多くの行事・娯楽が行われていた。しかし、鉱況が厳しくなると、スキー大会や春期運動会などに会社の後援はなくなっていった。

年末・正月三が日 社宅の中で臼は67個しかないので餅搗きは長屋ごとに順番に行う。正月を迎えて職員・鉱員が全員山神社に集まって参拝をする。鉱山の慣習で、元日には年始の挨拶を兼ねて主任級の家を訪問して酒や料理を御馳走になる。1軒で終わることはなく次から次への流れ歩く。各家でも誰彼の区別なく招き入れ正月を祝う。昭和33年(1958)まではこのような三が日であったが、同34年には山神社への参拝は全員揃うことなく自由参拝となった。各家への年始廻りも行われなくなってきた。希望者のみが集まって参拝をし、職員は合宿所で新年会を行い、同37年には職員総数22名の6割での親睦会となり、同38年になると神社参拝は更に減った。これは一つにテレビが同35年前後から普及しはじめ、正月には外で飲み歩かずに自宅でテレビを見ながら過ごす人が多くなったこと、二つ目に同時期から鉱況が悪化し始め、鉱山を去る人が多くなってきたことにある。

生活全般 『鉱山桜』に寄稿した人たちはかつて宮田又鉱山で働いていた人、当時の教師、児童たちなどである。50年ほど前の鉱山生活を振り返れば、苦労を忘れて美化し懐かしむ心情はあろうが、総括すると、鉱山生活はおおむね次のようなものである。すなわち、「天杉で囲まれた山紫水明なるこぢんまりしたとした、明るく住みよい鉱山町で」「人事抗争や役員の威圧もなく、鉱山の人々は貧しいながらみな親戚同志のようなつき合い」だった。「危険が隣り合わせの仕事で、いつかは閉山を迎えるしかないという鉱山生活の不安を外には絶対に現さない強い気質で、地縁、血縁を大事にし、生活は慎ましくとも気質や性格は底抜けに明るく、普段の暮らしは皆親戚のような繋がりをもち」、「四軒長屋の家族ぐるみのふれあい、助け合い」で「皆一つの家族との思いで過ごしていた」。
これらは宮田又鉱山だからということではなく、他の金属鉱山にも共通する。例えば、別子銅山の坑内労働者103名に行った「鉱山労働者調査」(昭和619月実施)から得られた鉱山生活研究に次の記述がある<47>
やまの社宅生活は「特別状態」で「一般社会から隔絶した一つの社会」を形成し、日本のいずこにもないという。「東平(とうなる)全体が一家族のような」気持ちで、また、「一つの長屋は一家族の暮らし」、正月前の長屋ごとの共同餅搗き、隣近所の人が「親兄弟以上に」、「家族のようなもの」として感じられた。そこでの生活は、米麦、味噌の貸し借り、御飯やおかずの貸し借り、珍しいものの贈答、それに家族ぐるみの夕食、春は花見、秋は川刈り松茸刈り、旅行なども記憶に残っている。それに人情が深く、助け合いの精神が豊かで。「長屋生活の体験者でなければ得られぬ点」であった。
宮田又鉱山と同じ内容である。

テレビの普及が始まるまでは、娯楽は家庭外に求められ、様々な行事が開催されていて、労働も生活も学校も鉱山という共同体の中で営まれ、必然的に一つの家のような一体感が生じた。テレビが普及して娯楽の時間が各家庭の中に存在するようになるまでは、鉱山という一括りの中で開催される娯楽行事は、鉱山生活者にとって人間関係の潤滑剤であり、また結合剤であった。

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<42> 2『宮田又鉱山思い出文集〝鉱山桜〟』85頁。
<43> 日本人文科学会『近代鉱工業の地域社会と展開』(東京大学出版会、1955年)59-60
<44> 全日本金属鉱山労働組合連合会編『全鉱20年史』(労働旬報社、1967年)1016頁。
<45> 「直利」とは品位の高い鉱石のことを指す鉱山言葉。
<46> 陰暦720日のお盆。
<47> 松本道晴「鉱山労働者の生活史」(庶民生活史研究会編『同時代人の生活史』未来社、1989年)222頁。






































2016年8月2日火曜日

宮田又鉱山⑩ - 学校生活(2)

児童の評価と鉱山の関与 宮田又の小中学校の児童や生徒たちはどのように見られていたのであろうか。当時の児童・生徒として宮田又鉱山社宅に生活していた人たちは、運動会の部落対抗リレーでは常に宮田又が優勝していたと『鉱山桜』に寄稿している。また、鉱山外に住む人たちは、宮田又小学校の同級生に競争意識を持っていたが、いつも宮田又組が勝っていた。運動会で1位になるのは、峠を越える往復の通学で鍛えられた宮田又の生徒が多かったと語っている。当時の中学校教師の記憶によれば、朝日中学校大盛分校の女子バレーボールは力があり、他の学区からの越境入学者もいたとのことである。
学力においても宮田又鉱山の児童・生徒は農村の子どもよりも水準が高く、上位にあり、高校への進学率も周囲の中学校に比して高かったといわれている。
朝日中学校大盛分校の生徒は年数回本校との交流会に臨むのであるが、徳瀬の様な小さな集落に暮らす者と違って、宮田又は大きな集落での生活のせいか、交流会でも気後れすることなく伸び伸びしていた。服装も礼儀も良く、言葉遣いも丁寧で都会的であった。これは、年2回秋田市からきて展示販売をする呉服問屋が、宮田又の奥さん方の服装は秋田市より派手であると語っていることと繋がる。宮田又鉱山は各地に鉱山を有する新鉱発の中心的鉱山であり、本社や関東・関西からの異動者がおり、秋田市や近隣農村にはない生活文化を身に宿った人たちが移転してきたのである。
  「昭和31年度宮田又小学校計経営概要」では次のように観察している<36>
〔前略〕〔鉱山の〕上層部の有識者は学校に関心を持つも、土着民でないだけに愛郷心、愛校心といったものが薄い感がある〔中略〕〔児童は〕学力の面では優秀児もおるが優劣の差が甚だしい。服装<37>、礼儀はかなりよく出来ており言葉もわりに丁寧である。/身体的に見ると、著しく身長に欠け、一般にガッチリしたところがない。/働くことはあまり好まない。/個人的で社会性に欠くるところがある/〔後略〕 
鉱山の上層部は新鉱発内の各事業所から宮田又へ赴任して来るのであり、宮田又から他の事業所や東京本社への異動もある。彼らに愛郷心や愛校心が薄いのは当然なことである。また、鉱山労働者の学歴は多様で、給料にも格差がある。それらが児童の学力差などに繋がっていると思われる。
上記の観察は結果のみ記述されており、観察者に関する情報は不明である。一方、1年ほどのずれはあるが、昭和32年(1957)頃に教育委員会指導主事が宮田又小学校を訪れた報告がある。要点を引用する<38>
〔前略〕辺地でありながら子供の学習活動はなかなか旺盛であり、学力も高いように思われた。私も要請によって授業してみたが始めての教師に対して何ら臆するところもなく共通語で堂々と応えたことには驚いた。どの学級もなかなか充実した学習が行われていた。/子供の教育に熱心な父兄達/学習活動の旺盛な原因については学校側の熱心な努力の賜であることは論をまたないのであるが、父兄の教育に対する関心の高いことも重要で、わずか80名の子供の父兄には北は北海道から南は九州の範囲にまたがり、父兄の学歴も小学校から中高大学のすべてにひろがっている。これらの父兄達は子ども達の将来の生活のためには皆上級学校へ進学させることを考えており、為に子供の教育には極めて熱心であることである。学級のための設備教具参考書等にも金を惜しまず出していることもそのあらわれである。このようなことは子ども達の学習意欲を高める原因になっているのである。こゝに私は農山村の父兄の方々の教育観と近代産業人の教育観との相違があって面白いと思った。〔後略〕
父兄の教育への熱心さが強調され、報告者は「広範囲な地より移転してきた鉱山生活者は、父兄の学歴も高低さまざまで、鉱山であるがゆえに教育熱心である」と捉えている。
同様の内容を斎藤實則も指摘している<39>
義務教育の小・中学校は周辺の農山村のそれに比較して進学率も高く、文化・運動クラブ活動が盛んで、総合的にみてその水準が高い。それらを支えるものとして、鉱業関係従業員の子弟と、教育財政・設備に恵まれていることなどが指摘される。
  「鉱業関係従業員の子弟」であることがなぜ水準の高さを支えるのか、斎藤は掘り下げてはいない。私は次のように考える。
鉱山労働者は、長男ではなく、働く場がないことなどの理由で生地を離れる。採鉱夫に代表されるように、特段の技術・能力がなくとも比較的高い収入が得られ、同時に事故に直結する労働に従事している。抗外労働者であっても、厳しい坑内労働を日常的に見る環境に身をおいている。鉱山はいつか閉山を迎え、人びとは、その地で一生を終えることはなく、いずれどこかに居住地を移すことは認識している。また、鉱山社会は鉱山生活者によって構成される階級社会である。住宅も階級によって区分けされ、居住社宅にも差は生じる。このような状況下で生活する労働者は高い階級を望み、あるいは鉱山社会からの脱却を求める。そして、いずれは働かない時を迎えることとなる。土地という生産の場を持たない鉱山労働者は、生活の安定確保を子どもたちへ期待することで埋めようとする。そのためには学歴を得ることであり、教育熱心の姿勢へと繋がる。
「〔宮田又〕鉱山は、学校への財政的援助を積極的に行い、同鉱山における教育は鉱山・学校・地域三者の一体化が徹底し、多彩な営みがみられ、活気あふれる鉱山町としての特徴をもっていた」<40>。その一方で、「宮田又小学校は他の鉱山町と同じく鉱山の影響を強く受けた。財政的援助、鉱山の教師に対する人事支配、学校教育と社会教育の連携と、旧荒川鉱山と同じく鉱山ならではの学校教育に対する干渉と多彩な社会教育活動が見られた」<41>
前者は肯定的であり、後者はネガティブな側面がある。しかし、小学校は鉱山地域内にあり、児童の父兄は全員が鉱山関係者であることを考えれば、結局は、鉱山・学校・地域は、“宮田又鉱山”という共通な言葉で強く結束されていたということにすぎない。

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<36> 1宮田又鉱山誌』95頁。
<37> 昭和の初めから同14-15年にかけて、秋田県の児童の服装が和服中心から洋服中心へと転換した時期があり、「大盛尋常高等小学校と峰吉川尋常高等小学校の昭和2年~18年までの服装の変遷」が調査されている。それによれば「鉱山町の児童が農村部に比べ洋服着用が早く、また女子より男子にその傾向が強かった。
5『協和町史』下巻:231-232頁。
<38> 吉沢正太郎「辺地の学校 3、宮田又小学校」(石川哲三編『教育秋田』第103号、秋田県教育委員会、1958年)14頁。
<39> 30『鉱山と鉱山集落❘秋田県の鉱山と集落の栄枯盛衰❘』33頁。
<40> 5『協和町史』下巻:88頁。
<41> 1『宮田又鉱山誌』92頁。

2016年8月1日月曜日

宮田又鉱山⑨ - 一休み

既に述べたように私は昭和32年秋に宮田又を離れた。もっとも親しく、よく一緒に遊んだ友人とだけは小学校高学年まで年賀状のやりとりをしていた。高校時代の日記の住所録に二人の名前と住所を記している。一人は秋田市、一人は三陸村の住所であるがいずれにしても50年以上前のものである。
前回載せた写真の中で、名前を特定できるのは2人だけ(奥山繁俊・片山實)であり、あとはミナトルリコという名が記憶にあるがどの女の子かは判らない。
2年前に大仙市大盛館の方が昭和40年の中学校卒業生36名の名簿を送ってくださった。その中で知っているのは片山だけであり、奥山は既に物故者の中にあり、新たに畠山を思い出し、あとは誰一人として分からなかった。中学校は宮田又地域だけからの通学ではなく、また私の家族のように離山した人も多かったろうから、知っている人がほとんどいないのは当然のことである。

いろいろ調べているときに、偶然にも埼玉県某市某部長が定年年退職したときの挨拶文をウェブで見つけた。『鉱山桜』にも寄稿していることは後に知ったが、宮田又で生まれ、恐らく私より1歳ほど年長で13年間を宮田又で過ごしたと記してあった。父親と思える人の名前が『宮田又鉱山誌』に載っているが、その名字には記憶がない。
もしかしたら今の私の身近に当時の小学校同級生が暮らしているかもしれないと思いを巡らすが、確かめようもない。宮田又の思い出は誰とも共有せず(できず)に独りで懐かしむしかない。

宮田又のことはもう少し続け、その後福島県横田鉱山に移ろうと思う。両者について何かご存じの方がいらっしゃれば下記へのメールにて教えいただきたい。
akahac.toc@gmail.com