2016年11月6日日曜日

明治41年頃の田代鉱山(1)

秋田県/宮田又鉱山や奥会津/横田鉱山を調べているなかで、横田鉱山近傍の田代鉱山についてもブログのなかで触れてきた。この鉱山についてはもう少し追加してメモしておこうと思う。
記述にあたってはほとんどを『黒鉱鉱床調査報文 第二回』<1>を参考としている。国会図書館からダウンロードしたpdfは文字の解像度が低く、また字画数の多い旧字もあり誤読している漢字があるかもしれないが、そこは想像力を働かせて読み解くこととする。

『黒鉱鉱床調査報文 第二回』の執筆者をめぐって
明治41年(1908)に『黒鉱鉱床調査報文 第一回』が、3年後の同44年に第二回が上梓されている。第一回・第二回を通して、黒鉱鉱山43鉱山が詳記され、秋田県の16鉱山に次いで会津の鉱山は7山が載っている。二つの報文は農商務省鉱山局技師の平林武が執筆しており、Wikipediaによると平林武は1872年生まれ(1935年歿)の鉱床学者で「黒鉱」を定義し、「黒鉱鉱床」の成因解明に端緒を開いたとある。鉱山に関する資料であるこの報文に「平林武」の名を目にしたときはすぐに「平林武雄」に結びついた。平林武雄は横田鉱山に勤務し、探鉱調査の報告を行っていた人物で、私(筆者)が両親とともに横田鉱山社宅に生活していたときその人は近隣の役職者社宅に住んでいた。専門とする職業や氏名から思うに、平林武と平林武雄は父子あるいは縁戚関係にあろうかと想像している。
鉱床探査と鉱石分析というような高度な専門技術職であったために平林は一般的な鉱山労働者からは一目置かれ、ためにやっかみのような気持ちも抱かれていたのではないかと思う。あくまでも私の空想めいたことである。平林さんを揶揄するように大人の人たちが喋っていた「たいらばやしかひらりんかいちはちじゅうのもーくもく」を耳にして以来その言葉はいまもって記憶に残っている。

田代鉱山の周辺
下図はGoogle Earthをキャプチャーし地名などを追記したものである。昭和35年(1960)以降の田代鉱山本山は左側の「田代鉱山(大塩)」の位置にあり、それ以前は右側の田代鉱山にあった。
Google Earth の画像取得日は20151015日となっており、明治41年からは108年が経っている。明治41年当時は只見川にかかる橋はなく、横田地区と大塩・土倉地区の間は舟渡しであった<2>。図中左側に見える橋は4度目の橋である。図で見る只見川は満々とした水の流れであるが、それは発電所のダムに堰き止められているからであり、ダムのない明治の頃、水面は下に落ちており只見川は渓谷の様相を示していた。よって舟渡しと言っても道路との間には上り下りがあり利用するには労苦があったと思われる。
田代集落を経て頂上まで登られる高森山は地元では田代山と呼ばれており、私が小学生の時には学校の行事で年に1回その頂上まで登っていた。尾根は狭く、うっかりすると転落するほど危険であったが、頂上から見下ろす奥会津の地は素晴らしかった。頂上を目指す途中の平地(田代集落地区)に人家を見たときは、こんな山の中に人が住んでいるのかと驚きを覚えたものである。現在その地には居住者はいない筈である。55年ぶりほどに再び山の頂上に立ってみたいものだが独りで出向く勇気がない。



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<1> 農商務省鉱山局『黒鉱鉱床調査報文 第ニ回』(農商務省鉱山局、1911年)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847345 。『黒鉱鉱床調査報文 第一回』も国立国会図書館デジタルコレクション にて閲覧およびダウンロード可能である。
2016821日ブログ「奥会津横田鉱山⑨ - 田代鉱山、そして鉱山の終焉」の註記にて同文献の発行年を1922年と記入しているのは1911年の間違いだった。
<2> 『広報かねやま』(金山町)6月号[234]昭和59年(1984610日:1頁。
       二本木橋の渡り初めの写真を指して、「この橋(二本木橋:筆者註)がかかったのは(中略)大正2年ごろではないかな。この橋がかかる前は西部や滝沢と同じように、舟渡しだった。(中略)今の(昭和59年当時:筆者註)橋は、三度目の橋で、国道にもなっているので、(後略)」。

2016年9月13日火曜日

コメントがありました

私的で狭い範囲でしか書いていない鉱山の記事に初めてコメントをいただいた。「201685日金曜日」の「宮田又鉱山⑬ - おわりに」に公開されている。
宮田又鉱山の地における空間と時間に浸った気分になり嬉しくなった。

秋田を訪れたのは2年前で、そのときは秋田市旭南にある両親の墓のあるお寺、県立図書館、秋田大学鉱山博物館、県立博物館、宮田又鉱山跡地や大盛館などを訪れ、ついでに秋田市役所に近接する酒処で痛飲した。それから2年が経ち、自分の拙いブログに大仙市在住の方からコメントをいただき、再び秋田に行きたくなってきた。親戚と顔を合わせることもないし、行くところといえば飲み屋さんくらいしかないのだが。(コメントをくださった方の地、大仙市には刈穂・福乃友・秀よしの銘酒がある-すべて飲んだことがある。)

google傘下のbloggerでのブログであるせいであろう、この拙いブログは私の予想を超えた拡がりでアクセスされている(アクセスされた)。トータルのアクセス回数は僅かではあるが、1回でもアクセスした国は多い順に日本・アメリカ・フランス・中国・オーストラリア・ラトビア・ロシア・サウジアラビア・ドイツ・香港であり、日本以外の国名を見ると気恥ずかしさが先に出てくる。

宮田又鉱山や横田鉱山などに関して何か情報をお持ちの方がいらっしゃったら、ブログのコメントに限らず、下記のアドレスにメールをいただいても有り難いです。
 takahac.toc@gmail.com

2016年9月2日金曜日

中学同級生の名字

小学校2年の時に秋田県から奥会津/金山町横田に移ったとき、馴染みのない名字に触れたことが印象に残っている。秋田県に居住していた時には三浦・佐々木などを耳にしていたことを覚えている。ところが、横田に来たときは、菅家(かんけ)や須佐、横田、奥などは初めて知った名字であった。世の中に多くある田中や高橋、佐藤は一人もいなかった。どんな名字が身近にあったのかそれこそ身近な資料でちょいと分析してみた。

 『若い芽 昭和39年度卒業記念文集 大沼郡金山町立横田中学校』が手もとにある。学校長による巻頭言に続いて頁を捲ると「卒業生に送くる(ママ:筆者註)言葉」になり、教頭を筆頭に8人の教師の言葉が記載されている。そして同級生94人の50年前の文章を読むことが出来る。文集に掲載されていない一人を加えて95人は男50人、女45人である。95人の名字は下図のようになっている。




菅家は金山町で一番多い名字である。渡部は3番目、滝沢は5位、横田は9位である<1>。“菅家”は菅原家が縮まったものであると何かで見たことがある。また、菅家=菅原家は会津山内氏にも繋がる。“渡部”は福島県に多く、サラリーマン時代の私の知人渡部某は自己紹介の時には「“ぶ”のわたなべです」と一々断わっていた。“横田”は地名と同じで、“奥”は土倉集落に集中し、 “滝沢”も滝沢という集落があり、“新国(にっくに)”は只見町に多く、“三瓶”も同じ。会津に多い“目黒”は二人で、“栗城”は一人だけ。同じく会津に多い“星”はいない。“五十嵐”は新潟から会津に多いらしく、高校同窓の親しい友人に二人いる。“須佐” については分からない、
鉱山社宅に住んでいた者は上図の太字で示した奥井・御法川・高橋・白川で、横田に居たときに地元の人でこの名字には出会ったことはない。
ちなみに、就職してから“星”さん3人と知り合った。「会津に縁がないですか」と尋ねたら3人とも会津に関係していた。一人は我が家の裏の星さんで田島町(現南会津町)出身、一人は会津に親戚がおり、もう一人は父親が私の高校の先輩だった。ついでに書くと、私が勤務していた会社の同僚である“栗城”は母親が金山町の出身で、夏にはよく金山町を訪れていると言っていた。

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<1> 「奥会津金山町観光物産協会official」(http://ameblo.jp/town-kaneyama/entry-12001020748.html)より、2016年8月30日。































2016年8月30日火曜日

横田小学校、横田中学校

福島県横田鉱山の社宅に住んでいた頃、通学していた小中学校は大沼郡金山町立横田小学校および横田中学校であった。小学校は現在もまだ存在するが、中学校は2009年に廃校となり金山中学校に統合された。金山町にはかつて中学校は3校あったのだが、現在は金山中学校1校となっている。町は過疎化が進んでおり、2015年現在横田小学校は全校生徒11人、金山中学校は同じく32人でしかない(http://www.gaccom.jp/、2016年8月29日)。
私が横田中学校を卒業した1965年の集合写真を見ると1クラスが47人と48人の2クラス、合計95人が在籍していた。ちなみに昭和40(1965)の横田小学校全校生徒数は197/6クラスで<1>、横田中学校は同じく227/6クラスであった。金山町全体での小中学校生徒数は1,735人であった<2>。それが今、201681日現在では全町民人口が2,203人である(金山町HPより)。広報には「児童生徒数の社会的増(ママ:筆者註)は鉱山関係に期待される以外は、工場誘致でもない限り見込めない現在、年度毎の減少傾向は、(昭和:筆者註)45年以降も続くものと予想され、町学校教育の重要な課題となっているのであります」と記載されているが<3>、鉱山の閉山と50年後の今を想像できえたであろうか。

私は横田小学校・横田中学校の卒業アルバムを持っていない。紛失したとかではなく、卒業アルバムはもともと製作されていない。手もとにあるのは集合写真と卒業記念文集の二つだけである<4>。その集合写真にしても生徒の氏名が書かれたものはないので、今となっては写真に写っている同級生が誰なのか判らない人も多い。文集に記載されている名前を参照し、確実に特定できる人と、多分この人であろうと想う人数を合計しても、47人中9人が分からない。これは私が在籍したクラスの場合であり、学年すべてに渡ると95人中31人が分からない。特に女性のほうが分からない。見覚えはあるような気がするだが
そもそも、小中学校とも校歌なるものがなかった。中学3年の時に校歌を作りたいと行動したのであるが、実現しなかった(経緯は記憶している)。自分が在籍する学校の校歌を歌えるのは会津高校入学後からであった。

2年前の2014年に、2009年現在の同級生の住所録を入手できた。83人の名前が載っているのだが2人については全く記憶がなく、卒業文集にもその名はない。「昭和44年度 金山町成人者名簿」にも掲載されていない。なぜなのか、誰なのか、さっぱり分からない。

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<1> 現在横田地区には横田小学校1校しかないが、昭和40年には横田小学校以外に横田小学校山入分校・大塩小学校があり、3校を合計すると学童数・クラス数は399/15となる。
<2> 『広報かねやま』(金山町)第10号昭和40(1965)31日:2頁。
<3> 前掲註11頁。
<4> 写真に写っている人数は合計95人だが、卒業文集に載っているのは94人でなぜか一人が文集から欠けている。しかし、現在も地元に居住しているようである。

2016年8月23日火曜日

その他の参考文献

「日本の鉱山の概要」「宮田又鉱山」「奥会津横田鉱山」の註記に記載したものを除く。

秋田大学大学院工学資源学研究科附属鉱業博物館『鑛のきらめき』秋田大学大学院工学資源学研究科附属鉱業博物館、2014年。
礒辺欽三『無宿人 佐渡金山秘史』人物往来社、1964年。
金山町役場『広報”かねやま”縮刷版』金山町役場、1977年。
福島県立博物館『企画展 ふくしま 鉱山のあゆみ-その歴史と生活-』福島県立博物館、1992年。
国立科学博物館『日本の鉱山文化』財団法人科学博物館後援会、1996年。
通商産業大臣官房調査統計部編『本邦鉱業の趨勢50年史 続篇』通商産業調査会、1964年。
文化庁文化財部記念物課『近代遺跡調査報告―鉱山❘』文化庁文化財部記念物課、2002年。
吉岡宏高『明るい炭坑』創元社、2012年。
桶谷繁雄『金属と日本人の歴史』(講談社学術文庫)講談社、2006年。
国民生活調査会編『日本の国民生活 働くものの職場とくらし』三一書房、1955年。
斎藤實則『あきた鉱山盛衰記』秋田魁新報社、2005年。
三浦豊彦『日本人はこんなに働いていた ―聞き書きのなかの働く人びと-』(労働科学叢書105)財団法人労働科学研究所出版部、1997年。
秋元勇巳「我が国鉱業の現状と21世紀の展望」(資源・素材学会『資源と素材』第114巻第6号、1998年) https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigentosozai/114/6/114_6_389/_pdf
松本通晴「鉱山労働者の生活史調査」(社会学研究会『ソシオロジ』第102号、1988年)。
沢田猛『石の肺 ある鉱山労働者たちの叫び』技術と人間、1985年。
竹田和夫編『歴史のなかの金・銀・銅』勉誠出版、2013年。
渡部和男『院内銀山史』無明舎、2009年。
萩慎一郎『近世鉱山をささえた人びと』(日本史リブレット89)山川出版社、2012年。
有沢広巳編『現代日本産業講座Ⅱ』岩波書店、1959年。

2016年8月22日月曜日

奥会津横田鉱山 - 修正

「奥会津横田鉱山⑥ - 鉱山社宅の生活」にて以下を追記
「社宅」の箇所の(*)。戸数をより詳しく記述した。
「福利施設」の箇所の(**)

奥会津横田鉱山⑩ - 横田鉱山、その後

秋田県小坂鉱山のように大規模な鉱山は事業形態を変遷させながら継続し、町は長年にわたって培われた鉱山文化の記憶を継承・活用し未来へつなごうとしている。しかし金山町の横田鉱山や田代鉱山は記憶が薄れる一方でもはや鉱山の記憶すらないようである。実体として残っているのは、現在不通となっている只見線会津横田駅近くに「鉱山第二踏切」の標識があり、かつて横田鉱山があったことを微かに思い出させてくれるようである。

Y-11は昭和34年(1959年)頃の横田鉱山選鉱所であり、図Y-12は同57年の選鉱所廃墟正面からの撮影である(8mm撮影から切り出したため粗い絵となっている)。図Y-13は平成26年(20145月に、図Y-11とほぼ同じ場所から同方向に撮影した写真である。山の上に立つ木々の姿が55年経っても似ているように見えるのは私の思い入れの強さのせいであろうか。






平成26年(2014)の5月、偶然にかつての小中学校の同級生に会うことができた。たまたま横田小学校で「横田大運動会」が催されており、そこに立ち寄った。子供と一緒にいた30代の女性に尋ねたところ、横田小学校の運動会であるのだが全校生徒12名しかいないので、住民を含めた地区全体の運動会としているとのこと。その女性に私もここの卒業生ですよと口に出し、話の中で、昔横田鉱山があったときに住んでいて今は誰も知る人もいないと言ったら生年を聞かれ、それに答えたら旦那さん経由で一人の同級生を紹介してくれた。何と中学卒業以来の再会で、更に女性一人と男性3人の同級生がいた。幾つかの偶然が重なって彼らと再開することができた。
いろいろ話をしていると還暦を迎えたときに東山温泉で33人が集まって還暦祝いを実施したらしい。行方知らずになっている私の所には案内が来るはずもなかったのであるが、参加できなかったことに寂しい、やるせない気持になった。海外在住の人や、地元を離れている人たちは、横田に住んでいる親兄弟などに住所を確認し連絡をしたらしいのであるが、デラシネの鉱山生活者には地元に残っている人もおらず、確認のしようもないのが現実である。
その後還暦の祝いでの集合写真や同級生の住所録を送ってもらった。写真ではすぐに分かる人もいれば名前をみても全く覚えのない人もいた。住所録には横田中学校の昭和39年(1964)度卒業生95人のうち80人が載っていた。横田鉱山社宅に住んでいた者は4人いたのであるが、私も含めて4人とも名前すら記されていなかった。