2023年7月27日木曜日

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (9) 友子の起源

 日本の鉱山は15,6世紀頃から多数の鉱夫の分業・協業によって集団として営まれてきた。戦国期には各地の武将たちが鉱山開発を奨励し、権力を握った豊臣秀吉は全国的に鉱山を一手掌握する鉱業政策を断行した。それは、鉱山からの産出物は必要な時にはいつでも公儀の御用として鉱山を回収することができるということになっていた。この政策はその後徳川家康によって継承され,近世を通じてその鉱業政策の基本となった。
 
 では、「友子」の起源はいつ頃なのか。『世界大百科事典 第2版』にて、友子は「江戸末期にはすでに組織だった形をとっていたことが立証されているが,起源は必ずしも明らかではなく,おおむね江戸中期には成立していたと考えられる」と記されている。しかしこれでなるほどと首肯することはせずにもう少し掘り下げ整理しておこう。
 
 村串仁三郎『日本の鉱夫 -友子制度の歴史-』(世界書院、1998年)に依拠して「友子の起源」の時期に関する諸説を以下に要約する。
 一橋大学教授/津田真澂は、友子は江戸時代初期に生まれたとした。それは友子という名称はないとしても徳川初期の山師制度の中に存在したのではないかと主張した。実質的なシステム形成として捉えたものである。
 江戸時代初期とする説は、家康が作ったとされる山例53条や金掘権利由来書(「坑夫権利由来記」、「坑夫歴宝」)という伝承に基づいたものである。この伝承がその後明治以降にも取立免状に掲記され、また「野武士」の称号を家康に認許されたという鉱夫たちの誇りに繋がっていることもあり、友子の起源を徳川初期に求める研究もある。村串は、「家康が鉱山関係者に特権をあたえ、鉱山業を保護したのは、事実であったが、山例五十三條を制定したり、友子を公認したりした資料は、いままでのところ発見されていない。しかし、資料がないからと言って、かならずしもこの伝承をまったくのウソだとは断定はできない」、と述べている。山例五十三條と金掘権利由来書とはどのようなものか、項を改めて記す。
 江戸時代中期後半とする説は東京大学教授/松島静雄が『友子の社会学的考察 鉱山労働者の営む共同生活体分析』(御茶の水書房、1978年)にて説いている。
 一橋大学教授/佐々木潤之助は明治初期に起源があるとしたが、村串は否定している。
 村串自身は、江戸期後半(18世紀後半)以降、少なくとも19世紀初頃とする。
 
 明治以降、政府機関が発表した報告書にての調査研究を記す。
 『鑛夫待遇事例』(農務省鉱山局、1908年1月印刷)には「我邦金属山及石炭山ノ一部ニハ古来友子又ハ渡リ鉱夫ノ為メニ設立セラレタルモノアリ」と記載されている。また、同じく農務省鉱山局が1920(大正9)年6月に発行した『友子同盟(旧慣ニヨル坑夫ノ共済団体)ニ關スル調査』でも「友子同盟ナル組織ハ遠ク徳川時代ノ遺風ニシテ」とあり、さらに章を変えて「同盟友子ノ鉱業政策殊ニ其ノ山例五十三條ニ起因スルカ如シ」とある。よって友子は江戸初期に起源があるようにも捉えられる。
 
 個人的興味でこの拙いブログを(サボりながらも)書き続けている私はと言うと、然程の根拠もなく、村串の主張に寄りかかり、徳川後半18世紀後半から19世紀初期に友子の起源があると捉えている。
「山例五十三條」や「坑夫権利由来記」は徳川初期から徳川後半、すなわち友子制度形成過程にかけて作成されたものではないかと思っている。その理由は次のようなものである。すなわち、鉱夫は一般的な市中や農漁村で生きる人間集団ではなく、隔離されている世界に生きている。衣食で贅を求めることは一般市中に眼を向けることになる。そこに生活環境の差異や空間の拡がりを感じるであろう。だからこそ余計に自分の生活に誇りというか矜持を持っていたい。そして、それを屋台骨として支える歴史・文化つまり精神的支えを求めたくなる。これは郷土愛とか郷土の英雄を求める志向性と類似するし、権威に寄りかかろうとする性向である。それが野武士の称号であり、形としての家康認証の認定書である。その権威の裏付けを得るのには唯単に受け入れるだけでなく、その受け入れが権力者の自発的行為に基づくものであればより強固な権威づけに繋がる。すなわち、鉱夫たちが家康を援助したという行為の見返りに家康が我々の地位に認証をくれた。どうだ、俺たちは確りとしたこの世のトップに支えられた誇り高き存在なのだと。これが時間をかけて形成されたのではなかろうかと想像を膨らませている。

2023年7月8日土曜日

またもやサボってしまった、『佐渡鉱山と朝鮮人労働』

青木葉鉱山の坑夫取立免状に関するブログ記事の下書きをまとめている途中でまたもや横道にそれてしまい、途中でほったらかしてしまっている。長く放っていると再開したときにはまず何をメモしていたのかを振り返ることから始まり、そしてアクセルを踏むのに時間がかかってしまう。耳コピなどの楽譜作りに専念していたのがそろそろ終わりに近づいてきたので、ここのブログもそのうちに再開せねばならないとは自戒の弁、あるいは単に弁解。

そんな中で鉱山に関する小冊子を読んだので以下にメモしておく。
<竹内康人 『佐渡鉱山と朝鮮人労働』(岩波ブックレット、2022年)>:「世界遺産の理念にかなう「歴史の直視」を」と表紙に記載されている。70数年間を現実の歴史の中に生きてきて、政治や様々な組織の現実を見聞きしていると、「歴史の直視」という言葉がいかにも無味乾燥な空虚な言葉でしかないのか思い知らされる。それでも長い歴史から見れば人間社会は発達・発展してきているのかもしれないが、それは文明(社会的道具)の発達に翻弄される普通の人々の生活実態にはさほど大きな変化はないと思える。「歴史の直視」は、個人的信条-ねじ曲がっていようとも一つの形態である-や経済的利益、権力の欲望などで如何様にも解釈されるし、権力の中枢にある人たちはその人好みの旗を振る。直視する際の視座をどこに置くのか、視線をどこに向けるのか、正しく視るということはどういうことなのか、それらをキチンと踏まえていないと歴史を視るという行為は意味はなさない。戦時中の大本営発表、自画自賛の郷土史、批判精神に欠けた社史、自慢話、すべてに通底する人間とその社会の行為であろうと感じる。人間が組織的に行動範囲を拡げれば、拡大とともに縮小してしまう価値もあろうかと感じる。単純化すれば、小さな共同対で生きていたパプアニューギニアに宣教使が踏み入り飛行機を飛ばした結果彼らの生活は一変して飛行機を神と崇め、また、イヌイットの社会に文明が入り込んだ結果アル中が増えて共同対が崩壊したことなどに通じると思う。
本書では佐渡における朝鮮人労働の実態が多くの記録や証言で明らかにされているが、物足りないのはそのダークな歴史の根底に何があるのか、そうさせている基底に何があるのか、そういった掘り下げが薄いと感じる。それに「世界遺産の理念にかなう」とあるが、観光地化して経済的発展を目指す際の手段と化している「世界遺産」に真の「理念」は見つけられているのか、世界遺産を目指す行政や地元の人たちはその「理念」をどう受け止めているのか、その疑問が払拭できない。

2023年4月16日日曜日

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (8) 友子③

 ここでは共助・共済の一つである奉願帳について延べ、さらに友子の語源について記す。

奉願帳
坑夫が病気や怪我になって働くことができなくなってもいずれ治療して治れば一時的な休業となり、その期間は山中友子が面倒をすることもできる。しかし、重い疾患や身体的障害となればその山中だけで救済することは困難となる。その場合、その坑夫には奉願帳あるいは寄附帳を持たせて他の山の友子交際所を歴訪させて一宿一飯の便宜や寄附をあおぎ余生をおくることとなった。この奉願帳制度の期限はよく分かっていないが、明治20年後半には確立していたのではないかと村串は考えている。
奉願帳には2種類があり、一つはその奉願帳を所持する者が一人ではヤマを巡ることができないような重度の傷病となった場合に持たせる奉願帳を「送り奉願帳」と称し、訪れた先の箱元はそのヤマの友子の中で費用を負担して次に訪れる先まで送り届ける義務があった。一方、独力で鉱山をまわれる者に与えられる奉願帳は「平奉願帳」と呼ばれた。山を巡り巡れば奉願帳への記録記載が増えて紙数が尽き、訪れた先の交際所で紙を補充した。
寄附帳は、奉願帳に準じ、重い傷病ではあるが将来に回復が見込まれる者に与えられた。発行手続きや機能は奉願帳とほぼ同じであった。
すなわち、奉願帳制度は、その発行に視点を向ければ山中友子の交際が捉えられ、他山を訪れる者に視線を向ければ箱元交際が見える。

友子の語源
武田久義はいくつかの見解を紹介している。すなわち、①「抗夫は全で友人であり,親子の関係と同様である意」、②「親が子供の世話を見ると同断である所から,共に子供である意味」、③「『子』は労働関係における親方子方の”子”。『友』は,同質労働者としての意」であると。高橋揆一郎は②を推測している。
「友子」は1833(天保3)年(尾去沢鉱山)、江戸後期の古文書(会津/只見/餅井戸銅山)に「友子」が確認されている(村串)。

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参考文献は以下。
       - 村串仁三郎 『日本の鉱夫 -友子制度の歴史-』(世界書院、1998年) 
       - 高橋揆一郎 『友子』(河出書房新社、1991年)
       - 武田久義 『友子の一考察-保険類似機能を中心に-(2)』(桃山学院大学経済
      経営論集、35巻、2号、桃山学院大学経営学部、1993年)

「友子」に関する私(本ブログ著者)の記事は、村串の著作・論文を食い摘まんで抜き書きしているに等しい。
高橋揆一郎は、『伸予』で芥川賞作家となり、炭砿を舞台にした『友子』で新田次郎文学賞を受賞した小説家である。小説を参考文献に載せることは通常はありえないが、炭砿長屋(歌志内)に生れ、炭砿企業で働き、炭砿に密接に生活した著者の『友子』は現実の炭砿生活を濃く描いておることもあり、参考文献扱いとした。

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (7) 友子②

 「友子」の大きな特徴はその共助・共済制度にある。そのことを踏まえ、青木葉鉱山坑夫取立免状の内容に具体的に触れる前にその共助・共済制度の概要、友子交際について述べておく。

共助・共済
江戸期、地中で働く坑夫たちの多くは生れた地を離れ、家族とも離れ、身寄りや血縁関係のない者が多かった。厳しい環境下で日々の暮らしを送る彼らたちが互助的な関係を結び、地底数百尺の暗黒の中で働く坑夫たちは、流れ者が多く鉱山には身寄り・血縁者が少なかったろうが、そのような生活環境の中で互助的な仕組みを生じさせたであろう。「友子」の共助・共済活動は日本における社会保険や社会保障の源流をなすものであり、日本の中で独自に考えられ発展した制度であった。
また、坑夫の労働には技術が必要であり、技術には修練・伝授が不可避であり、そこには当然ながら徒弟制度も生れ、擬似的な血縁制度=鎚親制度も発達し発展し続けることとなる。 

鎚親制度は単純化すると親分子分の関係である。擬制的親子関係の中で子分が親分である鎚親から徒弟制度の弟子としての技術を伝授し、社会的教育を受け、弟子同士は擬制的兄弟であった。

救済の主眼は不幸の救済であるから葬式が大事な共済の中で最も大きな役割は葬式であった。親分が死亡した場合、各地の鉱山に点在する鉱山の子分に知らせ、葬儀を営み、墓を建立した。この慣行は友子の用語で「仏参」と呼ばれた。いつ頃から始まったのかは不明であるが江戸末期には弘まっていたと思われる。
近代に入ってからの記録であるが、交際している坑夫が病気や怪我で床に臥せた場合には見舞金や白米が見舞いとして集められ、疾病休業が長引いた場合は協議されて対処が決められ、死亡したときも白米や香花料が供納された。そして死亡から一年以内に名を刻んだ石碑が建てられて寺院に供養された。石碑の建立は子分、子分なき場合は舎弟、舎弟なき場合は取立の兄弟と定められていた。
仏参を怠る者は、生前の親分の恩に報いていない、坑夫としての道に悖るとみなされ要職から外され、場合によっては友子からの除名処分もあった。
仏参を済ませると山中友子から 「仏参証明書」が交付され、義務を果たしていることの証となった。

一般的に坑夫(坑内夫)は短命であった。典型的な病はいわゆる気絶えや珪肺(ヨロケ)であり、江戸期には40歳まで生きることがまれであった。無論それ以外にも落盤・転落・出水・坑内火災・爆発・等々多岐にわたる。坑夫が死亡し取り残された女や子を救う手段も講じられた。独身の若い坑夫との再婚を斡旋することもあれば、惨事によって多勢の坑夫が死亡すれば残された家族に籤引きで若い坑夫をあてがうこともあったようである。若い独身の坑夫が突然に大年増の女の夫になったり、あるいは年の離れた若い女の夫になったり、あるいは突然に子持ちになったりする。これもまた形を変えた共助・共済であろう。独身の坑夫が拒否すれば山を追われることにもなった。 

友子交際
友子の活動は「交際」である。団体・組合・仲間・友愛などの意味を含む「交際」である。この友子の交際には3つのパターンがあった。①山中交際、②箱元交際、③浪客(浪人)交際>である。それぞれの交際内容と目的は以下。
①    山中交際:友子組織は一山に一つであり山中交際はそのヤマの中だけの交際である。徒弟制度を基底において坑夫の技能養成(修行)を行い、友子への取立をし、相互の扶助活動を行った。
②    箱元交際:他の友子組織や、自組織以外の友子坑夫を対象とする活動である。隣のヤマの友子取立式に代表を送り送られる、隣山との交際である。後述する「奉願帳」あるいは「寄附帳」所持者に対して行う他のヤマとの間の救済活動を意味する。
③    浪客(浪人)交際:失業して浪人となった坑夫あるいは客人が来山したときに就職の斡旋、一宿一飯のほどこし、草履銭の支給などを行う。

交際所と称されるところに友子の事務所がおかれ、通常は友子の最高責任者がつめていた。他のヤマから来山する場合、先ずはこの交際所を訪れて仁義をきることが最初のステップであった。

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主要参考文献は以下。
    - 村串仁三郎 『日本の鉱夫 -友子制度の歴史-』(世界書院、1998年)
     - 渡辺和男 『院内銀山史』(無明舎、2009年)
     - 高橋揆一郎 『友子』(河出書房新社、1991年)
     - 『松原日出子_現代社会における福祉と共同 友子制度の現代的意味』、2020年)
     - 村串仁三郎『日本の伝統的労使関係-友子制度史の研究』(世界書院、1989年)
     - 村串仁三郎「日本鉱山業の確立過程における友子制度の考察」(2)~(5)
   『経済志林』53-54巻(法政大学経済学部学会、1985-1986年)
   法政大学学術機関リポジトリにて閲覧可。

2023年3月1日水曜日

鉱山小説?

 下記の記載はもうひとつのブログより移動したもの。

<小砂川チト 『家庭用安心坑夫』(講談社、2022年)>:『朝日新聞』2023年2月4日「(旅する文学)秋田編 美も冒険も、雪が生み出す物語 文芸評論家・斎藤美奈子」に次の記載があった。「鹿角市で生まれ、今は東京で暮らす主人公の小波はある日、東京で「父」の痕跡を見つける。母に〈あれがあなたのお父さんよ〉と聞かされてきた人の名は尾去沢ツトム。同市内の廃鉱山を利用した施設「マインランド尾去沢(現在は史跡尾去沢鉱山)」の坑内に、坑夫の姿で展示されたマネキン人形(!)だった。小波は「父」を連れ出そうと決意する。現実と幻想が渾然一体となった作風はシュールかつポップ。鹿角市は即刻ご当地文学に認定されたし」。
「ご当地文学に認定」は言い過ぎであろう。ご当地の人たちにすれば、この小説は何だかわかんねぇというのが落ちではなかろうか。
「鉱山文学」とあったので購入したが、「シュールかつポップ」なこの「鉱山文学」小説には全く惹かれなかった。ただ9年前の5月に訪れた”マインランド尾去沢”の閑散とした駐車場と廃鉱となった鉱山跡の風景を思い出させてくれた。
第65回群像新人文学賞受賞で第167回芥川賞候補昨。後半に入ってからは読むのが嫌になり斜め読みして本を閉じた。

2023年1月23日月曜日

過去のブログの修正

  “20220817:青木葉鉱山、坑夫取立免状 (3) 青木葉鉱山の概要”の一部修正“。
 「高玉・加納・高旗・佐渡の4山で会津蘆名(芦名)氏4大金山の一つとして、高玉金山は慶長年間(1596~1614年)から知られていたらしい」を修正。すなわち、「会津蘆名(芦名)期の1600年頃、東蒲原郡(現新潟県)や村田郡(同宮城県)・長井(同山形県)、飛地として庄内や佐渡も会津領であった。この慶長年間(1596~1614年)の時代、高玉・加納・高籏・佐渡の金山は会津領内の4大金山と称されて国内に知られていた」に変更した。
また、「高玉鉱山は1941(同16)年には国内有数の金山となっていた(他には鴻之舞金山や鯛生金山))の括弧内を「鴻之舞金山・鯛生金山とともに日本三大金山と呼ばれていた」に修正。
あとは上記に伴う諸変更と些細な字句の修正。

2022年12月30日金曜日

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (6) 友子①

 友子の概要
 主題とする「坑夫取立免状」であるが、坑夫については既に述べてきた。次にその坑夫を「取立」る「免状」とは何か、何を目的としているのかを先だって理解しておく必要があるだろう。

 基底にあるのは「友子」、あるいは「山中友子(さんちゅうともこ)」と称される組織(システム)である。坑夫はこの友子に取り立てられて、すなわち成員として認められてはじめて一人前の坑夫となった。
 では友子とは何か、多くの研究がなされたなかで、研究者でもなく単に鉱山を愛して気儘にブログを書いている、いわゆるシロートが今更友子を論じても詮無きことであるが、いままでにテキストを読んできた内容をここにまとめておく。なお、一般的な辞書などで解説される「友子」は別記しておく。<1>

 友子とは、鉱夫の非妻帯を前提に、同職組合で、鎚親性とも称する擬制的親子関係-親分子分という親方制度-をとりながら技術伝承・熟練労働力の養成や社会教育、労働力の供給調整、構成員の老後や疾病時の相互共済、さらに鉱山内の生活や労働条件の維持改善など多様な機能を持っていた。鉱山の中の坑夫という枠内、いわば橫の連携組織であり、鉱山経営の使用者と労働者という縦の関係にはなかった。すなわち、友子は賃金や労働条件を経営者に要求することを目的とはしていなかった。
 また、基本的には一山一組織であり、各鉱山の小さな組織間の繋がりはあるがそれらが大きな一組織に統合されることはなかった。

 生地から断絶し、終生鉱山に生きることを決め、血縁関係のなくなった坑夫が、擬制的な親子兄弟関係を結び、親分は父、兄貴分は母代わり、子分同士は兄弟であった。友子への加入を「出生」、友子が司るその儀式を「取立」と呼び、親分子分の固めの「結盃式」の後「出生免状」が与えられた。
 友子に加入した者だけが技能伝承を許され、全国の鉱山で働くことができたが、友子の掟を破った者はどこの鉱山でも働くことは出来なかった。鉱山を渡る者は新たに訪れた鉱山での山中友子交際所の入口で仁義を切り、酒と食にあずかり、そこでの就職を希望しなければなにがしかの草履銭をもらって次の鉱山に向かって旅立った。
 
 友子は歴史的には江戸時代に成立したとされる。妻子を持つことを恥として諸鉱山を遍歴し、技術を磨き続けたが、家族を持たないがために病気や事故にあい、また、年をとると面倒を見てくれる人がいない。次第に擬制的親子関係(鎚親制度)を結ぶようになった。幕末に「友子」、近代には「友子制度」となり、近代化とともに変容し、明治末から大正初期にかけて最盛期に達し、第一次大戦中に殆ど消滅したが、擬制的鎚親性は敗戦まで継続した。ただ日立鉱山にだけは友子が戦後まで残り、やがて消滅した。

 友子に加入するのは原則的に採鉱夫(金堀大工/堀大工)、支柱夫(留大工)、それらの近くで働く手子(堀子)に限られた。それらの労働には技術が必要でありまた常に危険に直面していたからである。友子は一山を中心とするが全国鉱山を包括するネットワークである。経済的に困窮者を救済できない場合は地方まであるいは全国まで範囲を拡大し解決を図った。一方、友子にそぐわない者は除名し、回覧にて他鉱山に展開して坑夫としての道を断ち、共同体の秩序を維持した。友子に見られる非血縁的親族関係は鉱山の特殊性である。友子は東北方面において強力に団結していた。親分・兄分は子分・弟分の面倒を見る。一方、子分、弟分も親分・兄分の生活手助けを要請され、子分の最重要なことは親分の死後の墓石建立、供養の実施にあった。

 鉱山経営の側面から見てみる。
 江戸期の主要鉱山は幕府の直轄であり、銅鉱山の場合は各藩の直営が多かった。鉱山主は山師に鉱山を請け負わせ、山師は堀場を金名子に請け負わせ、金名子とその下で坑夫が働く。前の「渡り歩く坑夫」で既述したように鉱山経営の実質的担い手は金名子と坑夫(堀子)であった。坑夫は賃金労働者の性格とともに、一方では鉱山請負人となって坑夫の上に立つ親方職人になる性格も有していた。
 江戸期が過ぎて鉱山経営が近代的企業の形態と化しても、明治大正末期までは労務管理能力は不十分であり、生活や労働の秩序を自主的に維持・規制する友子の機能は経営者にとって利用するに足るものであった。<2>

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<1>  普段利用している『大辞林 第ニ版)』には「友子」は「ともだち。仲間」と
  あるだけである。
 -『広辞苑 第六版』:②江戸時代、鉱山で一人前の坑夫の称。見習期を過ぎて後、
  更に一定の修行を終え、一人の親分の子分になったもの。③親分子分の関係をもつ
  坑夫組合の一員。
 -『日本語国語大辞典[縮刷版]』(1975年発行、縮刷版1980年発行):②江戸時代、鉱
        山で一人前の坑夫をいう。一定の見習い期間(3年3か月10日)の堀子の修行をへ
  て、さらに3年3か月の修行を終えた者。
 web上の辞書などで探せば幾つかは見つかり、以下に引用しておく。
 - 『百科事典マイペディア』:山労働者の相互扶助組織。落盤,珪肺等の職業病や閉山
  の不安にさらされた生活を背景に,江戸中期にはすでに成立,やがて全国的規模に
  成長した。技能伝授の機能を果たすとともに,傷病への救済や失業者の就職斡旋等を
  行い,坑夫の移動時には友子同士が一宿一飯を供する仁義が守られた。第2次大戦後
  に消滅した。
 -     『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』:江戸時代から近代まで続いた鉱山労働
  者 (坑夫) の組合制度による一種の身分で,掘子などの見習い修業を経て初めて友子
  として取立てられた。友子になると,自助的な共済組織である友子同盟の成員として
  認められ,傷害,不具,廃疾などの場合,扶助,救済を受けることができた。
 - 『精選版 日本国語大辞典』:江戸時代、鉱山で一人前の坑夫をいう。一定の見習い
  期間(三年三か月一〇日)の掘子の修業をへて、さらに三年三か月の修業を終えた
  者。
 -   『世界大百科事典 第2版』:坑夫の構成する,技能養成と自助的救済を目的とした
  集団。金属鉱山を中心に,一部は石炭山にも見いだすことができた。最近では歴史的
  な研究が進み,江戸末期にはすでに組織だった形をとっていたことが立証されている
  が,起源は必ずしも明らかではなく,おおむね江戸中期には成立していたと考えられ
  る。その機能は三つに分けて考えることができる。第1は技能伝授で,友子に加入す  
     ると特定熟練坑夫との間に親分・子分,兄分・弟分等の杯のやりとりをし,子分,弟分
  は親分,兄分から技術を修得するとともに,鉱山の共同生活を行ううえでなにかと庇
  護を受けた。
 -  『歴史民俗用語辞典』:坑夫の相互扶助集団。
 ※2023年3月2日、『日本国語大辞典[縮刷版]』の入手に伴い微修正。

<2>  以前の記載から転用し、追加および修正している。(以前の記載は、
  20160708 日本の鉱山の概要⑧ - 鉱山で働くと言うこと (3) 友子制度」)
主要参考文献は以下。
 - 松島静雄『友子の社会学的考察』(御茶の水書房、1978年)
 - 萩慎一郎『近世鉱山をささえた人びと』(山川出版社、2012年)
 - 松島静雄「鑛山に見られる親分子分集團の特質」(日本社会学会『社会学評論』
  Vol. 1 No. 1、1950年)
 - 村串仁三郎『日本の伝統的労使関係-友子制度史の研究』(世界書院、1989年)
 -  村串仁三郎『大正昭和期の鉱夫同職組合「友子」制度 : 続・日本の伝統的労資関
  係』(時潮社、2006年)
 -  土井徹平「近代の鉱業における労働市場と雇用  足尾銅山及び尾去沢鉱山の「友
  子」史料を用いて」(社会経済史学会『社会経済史学』第76巻第1号、2010年)
 - 松原日出子「現代社会における福祉と共同 -友子制度の現代的意味-」(松山
    大学総合研究所『松山大学論集』第31巻第6号、2020年)