青木葉鉱山の坑夫取立免状に関するブログ記事の下書きをまとめている途中でまたもや横道にそれてしまい、途中でほったらかしてしまっている。長く放っていると再開したときにはまず何をメモしていたのかを振り返ることから始まり、そしてアクセルを踏むのに時間がかかってしまう。耳コピなどの楽譜作りに専念していたのがそろそろ終わりに近づいてきたので、ここのブログもそのうちに再開せねばならないとは自戒の弁、あるいは単に弁解。
そんな中で鉱山に関する小冊子を読んだので以下にメモしておく。
<竹内康人 『佐渡鉱山と朝鮮人労働』(岩波ブックレット、2022年)>:「世界遺産の理念にかなう「歴史の直視」を」と表紙に記載されている。70数年間を現実の歴史の中に生きてきて、政治や様々な組織の現実を見聞きしていると、「歴史の直視」という言葉がいかにも無味乾燥な空虚な言葉でしかないのか思い知らされる。それでも長い歴史から見れば人間社会は発達・発展してきているのかもしれないが、それは文明(社会的道具)の発達に翻弄される普通の人々の生活実態にはさほど大きな変化はないと思える。「歴史の直視」は、個人的信条-ねじ曲がっていようとも一つの形態である-や経済的利益、権力の欲望などで如何様にも解釈されるし、権力の中枢にある人たちはその人好みの旗を振る。直視する際の視座をどこに置くのか、視線をどこに向けるのか、正しく視るということはどういうことなのか、それらをキチンと踏まえていないと歴史を視るという行為は意味はなさない。戦時中の大本営発表、自画自賛の郷土史、批判精神に欠けた社史、自慢話、すべてに通底する人間とその社会の行為であろうと感じる。人間が組織的に行動範囲を拡げれば、拡大とともに縮小してしまう価値もあろうかと感じる。単純化すれば、小さな共同対で生きていたパプアニューギニアに宣教使が踏み入り飛行機を飛ばした結果彼らの生活は一変して飛行機を神と崇め、また、イヌイットの社会に文明が入り込んだ結果アル中が増えて共同対が崩壊したことなどに通じると思う。
本書では佐渡における朝鮮人労働の実態が多くの記録や証言で明らかにされているが、物足りないのはそのダークな歴史の根底に何があるのか、そうさせている基底に何があるのか、そういった掘り下げが薄いと感じる。それに「世界遺産の理念にかなう」とあるが、観光地化して経済的発展を目指す際の手段と化している「世界遺産」に真の「理念」は見つけられているのか、世界遺産を目指す行政や地元の人たちはその「理念」をどう受け止めているのか、その疑問が払拭できない。
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