2023年7月27日木曜日

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (9) 友子の起源

 日本の鉱山は156世紀頃から多数の鉱夫の分業・協業によって集団として営まれてきた。戦国期には各地の武将たちが鉱山開発を奨励し、権力を握った豊臣秀吉は全国的に鉱山を一手掌握する鉱業政策を断行した。それは、鉱山からの産出物は必要な時にはいつでも公儀の御用として鉱山を回収することができるということになっていた。この政策はその後徳川家康によって継承され,近世を通じてその鉱業政策の基本となった。
 
 では、「友子」の起源はいつ頃なのか。『世界大百科事典 第2版』にて、友子は「江戸末期にはすでに組織だった形をとっていたことが立証されているが,起源は必ずしも明らかではなく,おおむね江戸中期には成立していたと考えられる」と記されている。しかしこれでなるほどと首肯することはせずにもう少し掘り下げ整理しておこう。
 
 村串仁三郎『日本の鉱夫 -友子制度の歴史-』(世界書院、1998年)に依拠して「友子の起源」の時期に関する諸説を以下に要約する。
 一橋大学教授/津田真澂は、友子は江戸時代初期に生まれたとした。それは友子という名称はないとしても徳川初期の山師制度の中に存在したのではないかと主張した。実質的なシステム形成として捉えたものである。
 江戸時代初期とする説は、家康が作ったとされる山例53条や金掘権利由来書(「坑夫権利由来記」、「坑夫歴宝」)という伝承に基づいたものである。この伝承がその後明治以降にも取立免状に掲記され、また「野武士」の称号を家康に認許されたという鉱夫たちの誇りに繋がっていることもあり、友子の起源を徳川初期に求める研究もある。村串は、「家康が鉱山関係者に特権をあたえ、鉱山業を保護したのは、事実であったが、山例五十三條を制定したり、友子を公認したりした資料は、いままでのところ発見されていない。しかし、資料がないからと言って、かならずしもこの伝承をまったくのウソだとは断定はできない」、と述べている。山例五十三條と金掘権利由来書とはどのようなものか、項を改めて記す。
 江戸時代中期後半とする説は東京大学教授/松島静雄が『友子の社会学的考察 鉱山労働者の営む共同生活体分析』(御茶の水書房、1978年)にて説いている。
 一橋大学教授/佐々木潤之助は明治初期に起源があるとしたが、村串は否定している。
 村串自身は、江戸期後半(18世紀後半)以降、少なくとも19世紀初頃とする。
 
 明治以降、政府機関が発表した報告書にての調査研究を記す。
 『鑛夫待遇事例』(農務省鉱山局、19081月印刷)には「我邦金属山及石炭山ノ一部ニハ古来友子又ハ渡リ鉱夫ノ為メニ設立セラレタルモノアリ」と記載されている。また、同じく農務省鉱山局が1920(大正9)年6月に発行した『友子同盟(旧慣ニヨル坑夫ノ共済団体)ニ關スル調査』でも「友子同盟ナル組織ハ遠ク徳川時代ノ遺風ニシテ」とあり、さらに章を変えて「同盟友子ノ鉱業政策殊ニ其ノ山例五十三條ニ起因スルカ如シ」とある。よって友子は江戸初期に起源があるようにも捉えられる。
 
 個人的興味でこの拙いブログを(サボりながらも)書き続けている私はと言うと、然程の根拠もなく、村串の主張に寄りかかり、徳川後半18世紀後半から19世紀初期に友子の起源があると捉えている。
「山例五十三條」や「坑夫権利由来記」は徳川初期から徳川後半、すなわち友子制度形成過程にかけて作成されたものではないかと思っている。その理由は次のようなものである。すなわち、鉱夫は一般的な市中や農漁村で生きる人間集団ではなく、隔離されている世界に生きている。衣食で贅を求めることは一般市中に眼を向けることになる。そこに生活環境の差異や空間の拡がりを感じるであろう。だからこそ余計に自分の生活に誇りというか矜持を持っていたい。そして、それを屋台骨として支える歴史・文化つまり精神的支えを求めたくなる。これは郷土愛とか郷土の英雄を求める志向性と類似するし、権威に寄りかかろうとする性向である。それが野武士の称号であり、形としての家康認証の認定書である。その権威の裏付けを得るのには唯単に受け入れるだけでなく、その受け入れが権力者の自発的行為に基づくものであればより強固な権威づけに繋がる。すなわち、鉱夫たちが家康を援助したという行為の見返りに家康が我々の地位に認証をくれた。どうだ、俺たちは確りとしたこの世のトップに支えられた誇り高き存在なのだと。これが時間をかけて形成されたのではなかろうかと想像を膨らませている。

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