友子の概要
主題とする「坑夫取立免状」であるが、坑夫については既に述べてきた。次にその坑夫を「取立」る「免状」とは何か、何を目的としているのかを先だって理解しておく必要があるだろう。
主題とする「坑夫取立免状」であるが、坑夫については既に述べてきた。次にその坑夫を「取立」る「免状」とは何か、何を目的としているのかを先だって理解しておく必要があるだろう。
基底にあるのは「友子」、あるいは「山中友子(さんちゅうともこ)」と称される組織(システム)である。坑夫はこの友子に取り立てられて、すなわち成員として認められてはじめて一人前の坑夫となった。
では友子とは何か、多くの研究がなされたなかで、研究者でもなく単に鉱山を愛して気儘にブログを書いている、いわゆるシロートが今更友子を論じても詮無きことであるが、いままでにテキストを読んできた内容をここにまとめておく。なお、一般的な辞書などで解説される「友子」は別記しておく。<1>
友子とは、鉱夫の非妻帯を前提に、同職組合で、鎚親性とも称する擬制的親子関係-親分子分という親方制度-をとりながら技術伝承・熟練労働力の養成や社会教育、労働力の供給調整、構成員の老後や疾病時の相互共済、さらに鉱山内の生活や労働条件の維持改善など多様な機能を持っていた。鉱山の中の坑夫という枠内、いわば橫の連携組織であり、鉱山経営の使用者と労働者という縦の関係にはなかった。すなわち、友子は賃金や労働条件を経営者に要求することを目的とはしていなかった。
また、基本的には一山一組織であり、各鉱山の小さな組織間の繋がりはあるがそれらが大きな一組織に統合されることはなかった。
生地から断絶し、終生鉱山に生きることを決め、血縁関係のなくなった坑夫が、擬制的な親子兄弟関係を結び、親分は父、兄貴分は母代わり、子分同士は兄弟であった。友子への加入を「出生」、友子が司るその儀式を「取立」と呼び、親分子分の固めの「結盃式」の後「出生免状」が与えられた。
友子に加入した者だけが技能伝承を許され、全国の鉱山で働くことができたが、友子の掟を破った者はどこの鉱山でも働くことは出来なかった。鉱山を渡る者は新たに訪れた鉱山での山中友子交際所の入口で仁義を切り、酒と食にあずかり、そこでの就職を希望しなければなにがしかの草履銭をもらって次の鉱山に向かって旅立った。
友子は歴史的には江戸時代に成立したとされる。妻子を持つことを恥として諸鉱山を遍歴し、技術を磨き続けたが、家族を持たないがために病気や事故にあい、また、年をとると面倒を見てくれる人がいない。次第に擬制的親子関係(鎚親制度)を結ぶようになった。幕末に「友子」、近代には「友子制度」となり、近代化とともに変容し、明治末から大正初期にかけて最盛期に達し、第一次大戦中に殆ど消滅したが、擬制的鎚親性は敗戦まで継続した。ただ日立鉱山にだけは友子が戦後まで残り、やがて消滅した。
友子に加入するのは原則的に採鉱夫(金堀大工/堀大工)、支柱夫(留大工)、それらの近くで働く手子(堀子)に限られた。それらの労働には技術が必要でありまた常に危険に直面していたからである。友子は一山を中心とするが全国鉱山を包括するネットワークである。経済的に困窮者を救済できない場合は地方まであるいは全国まで範囲を拡大し解決を図った。一方、友子にそぐわない者は除名し、回覧にて他鉱山に展開して坑夫としての道を断ち、共同体の秩序を維持した。友子に見られる非血縁的親族関係は鉱山の特殊性である。友子は東北方面において強力に団結していた。親分・兄分は子分・弟分の面倒を見る。一方、子分、弟分も親分・兄分の生活手助けを要請され、子分の最重要なことは親分の死後の墓石建立、供養の実施にあった。
鉱山経営の側面から見てみる。
江戸期の主要鉱山は幕府の直轄であり、銅鉱山の場合は各藩の直営が多かった。鉱山主は山師に鉱山を請け負わせ、山師は堀場を金名子に請け負わせ、金名子とその下で坑夫が働く。前の「渡り歩く坑夫」で既述したように鉱山経営の実質的担い手は金名子と坑夫(堀子)であった。坑夫は賃金労働者の性格とともに、一方では鉱山請負人となって坑夫の上に立つ親方職人になる性格も有していた。
江戸期が過ぎて鉱山経営が近代的企業の形態と化しても、明治大正末期までは労務管理能力は不十分であり、生活や労働の秩序を自主的に維持・規制する友子の機能は経営者にとって利用するに足るものであった。<2>
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あるだけである。
-『広辞苑 第六版』:②江戸時代、鉱山で一人前の坑夫の称。見習期を過ぎて後、
-『広辞苑 第六版』:②江戸時代、鉱山で一人前の坑夫の称。見習期を過ぎて後、
更に一定の修行を終え、一人の親分の子分になったもの。③親分子分の関係をもつ
坑夫組合の一員。
-『日本語国語大辞典[縮刷版]』(1975年発行、縮刷版1980年発行):②江戸時代、鉱
山で一人前の坑夫をいう。一定の見習い期間(3年3か月10日)の堀子の修行をへ
て、さらに3年3か月の修行を終えた者。
web上の辞書などで探せば幾つかは見つかり、以下に引用しておく。
- 『百科事典マイペディア』:山労働者の相互扶助組織。落盤,珪肺等の職業病や閉山
の不安にさらされた生活を背景に,江戸中期にはすでに成立,やがて全国的規模に
成長した。技能伝授の機能を果たすとともに,傷病への救済や失業者の就職斡旋等を
行い,坑夫の移動時には友子同士が一宿一飯を供する仁義が守られた。第2次大戦後
に消滅した。
- 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』:江戸時代から近代まで続いた鉱山労働
者 (坑夫) の組合制度による一種の身分で,掘子などの見習い修業を経て初めて友子
として取立てられた。友子になると,自助的な共済組織である友子同盟の成員として
認められ,傷害,不具,廃疾などの場合,扶助,救済を受けることができた。
- 『精選版 日本国語大辞典』:江戸時代、鉱山で一人前の坑夫をいう。一定の見習い
期間(三年三か月一〇日)の掘子の修業をへて、さらに三年三か月の修業を終えた
者。
- 『世界大百科事典 第2版』:坑夫の構成する,技能養成と自助的救済を目的とした
集団。金属鉱山を中心に,一部は石炭山にも見いだすことができた。最近では歴史的
な研究が進み,江戸末期にはすでに組織だった形をとっていたことが立証されている
が,起源は必ずしも明らかではなく,おおむね江戸中期には成立していたと考えられ
る。その機能は三つに分けて考えることができる。第1は技能伝授で,友子に加入す
ると特定熟練坑夫との間に親分・子分,兄分・弟分等の杯のやりとりをし,子分,弟分
は親分,兄分から技術を修得するとともに,鉱山の共同生活を行ううえでなにかと庇
護を受けた。
- 『歴史民俗用語辞典』:坑夫の相互扶助集団。
※2023年3月2日、『日本国語大辞典[縮刷版]』の入手に伴い微修正。
<2> 以前の記載から転用し、追加および修正している。(以前の記載は、
20160708 日本の鉱山の概要⑧ - 鉱山で働くと言うこと (3) 友子制度」)
主要参考文献は以下。
- 松島静雄『友子の社会学的考察』(御茶の水書房、1978年)
主要参考文献は以下。
- 松島静雄『友子の社会学的考察』(御茶の水書房、1978年)
- 萩慎一郎『近世鉱山をささえた人びと』(山川出版社、2012年)
- 松島静雄「鑛山に見られる親分子分集團の特質」(日本社会学会『社会学評論』
Vol. 1 No. 1、1950年)
- 村串仁三郎『日本の伝統的労使関係-友子制度史の研究』(世界書院、1989年)
- 村串仁三郎『大正昭和期の鉱夫同職組合「友子」制度 : 続・日本の伝統的労資関
係』(時潮社、2006年)
- 土井徹平「近代の鉱業における労働市場と雇用 足尾銅山及び尾去沢鉱山の「友
子」史料を用いて」(社会経済史学会『社会経済史学』第76巻第1号、2010年)
- 松原日出子「現代社会における福祉と共同 -友子制度の現代的意味-」(松山
大学総合研究所『松山大学論集』第31巻第6号、2020年)
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