『輝山』は2022年01月13日にもう一つのブログに書いた。鉱山を舞台にしているのでこちらの方に移動したものである。その次に記している『しろがねの葉』は最近読んだものである。
<澤田瞳子 『輝山』(徳間書店、2021年)>:舞台は石見銀山。時代は天保期で老中首座・水野忠邦が辣腕をふるった頃。
本文から引用すると、「輝山」とは「銀山町の人々みなを深く懐に抱き、その命の輝きを永遠に宿し続けるいのちの山」で、また、「山深くから切り出される銀の輝きは、もしかしたらこの地に生きる者たちの命の輝きそのものなの」なのであろう。
本文から引用すると、「輝山」とは「銀山町の人々みなを深く懐に抱き、その命の輝きを永遠に宿し続けるいのちの山」で、また、「山深くから切り出される銀の輝きは、もしかしたらこの地に生きる者たちの命の輝きそのものなの」なのであろう。
2021年上半期の直木賞を受賞した著者の本は初めてで、鉱山を舞台にした小説というそのことだけで手に取った。鉱山労働を直接的に、すなわち坑内労働など描写することはない。その点は勝手に抱いていた期待ははぐらかされた。坑夫は気絶えを待つ者として捉えられ、あとは選鉱するユリ女や、飲み食いする飯屋の主人と女、さらに酒飲みで荒れ寺の住職が物語の周辺にいる。代官所仲間の金吾が物語の主人公であり、基本は鉱山町という特殊な境界に生きる人々の人情と権力組織にいる者の権棒術数。よくある物語構成、だから倦きてくる。特に最終章は物語の展開に予定調和的な都合よさを感じてしまい、総じて粗雑さを覚えた。繰り返しになるが、鉱山町や鉱山生活者を描くのではなく、それらを手段とした、ある意味安易に、善意に満ちた人々の情を語った小説である。
<千早茜 『しろがねの葉』(新潮社、2022年)>:「しろがねの葉」は銀気を含む羊歯の葉。舞台は石見銀山で仙ノ山、石銀集落など実在した地が描かれる。時代は豊臣から徳川にかけての石見銀山が最盛期の頃である。
間歩、鏈、鉉、山師、柄山負、等々鉱山に関する言葉が頻出し、物語を読むのが嬉しく、また四葩や蕺などの植物に出てくると都度意味を確認するようになっていた。
村を逃散し、童のウメは家族から離れ迷い、「しろがねの葉」を手にした汚れた姿で山師/喜兵衛に拾われる。ヨキ・喜兵衛とともに山の中でウメは暮し、間歩に入ることを希んでいた。しかしそれは許されず生活の主体は石銀集落への通いとなる。佐渡に渡る喜兵衛とヨキから離れてウメは石銀集落で銀堀の隼人と共に暮らすようになる。子をなすが隼人はヨロケになり死ぬ。その後、ウメより年少の水浅黄の目の色を持つ龍と所帯を持つ。龍も肺を病み死ぬ。隼人との間の男の子も、同じく龍との子も間歩に入り同じように死ぬ。残ったのはウメと娘たち。
この物語の最後の段落、「指先すら見えない昏い間歩の底から、男たちがわたしの名を呼ぶのを。慈しんだ男たちは皆、あの無慈悲で温かい胎闇にいる。そこにわたしも還るのだ」。
生きる不条理さ、悲しさ、喜びなどといったことには思いを巡らさず、鉱山を舞台にしているというだけで楽しめた。悲惨さや歓喜を強く語ることはなく、情景を静かに描き、胸の内にある思いを山と溶け込ませている。鉱山という場への個人的な思い入れが勿論あり、それゆえにこの小説を読むことができたことが単純に嬉しい。
今年に入って鉱山を舞台にした小説は2冊目となる。いずれも石見銀山を舞台にしているが、前に読んだ『輝山』(澤田瞳子)は好みに合わず、辛口の読後感想文となった。2冊目となったこの小説は鉱山そのものを描いていて、『友子』(高橋揆一郎)と並んで優れた「鉱山(砿山)」小説といえる。
以上、先月24日に下書きを書いてから投稿するのを忘れていた。
0 件のコメント:
コメントを投稿